デート
橘さんとのデートと称した地元帰省前日。俺は気持ちを落ち着かせるために家計簿アプリを見ていた。
ようやく、数ヶ月もの間ずっと悩んでいた俺の体の現状を知ることが出来る。資金面も協力者も、橘さんのおかげで何とかなった。
後は明日、現地に行って全てを知るだけ。
そこでどんな結果が待ち受けていようが、ここまで来たらもうどんな結末であれ全てを知りたくて仕方がなかった。
まるで遠足前夜に興奮して眠れない小学生のように、気持ちが逸るばかりでどうも落ち着かない気分だった。さっきまでは気を紛らわせないかと、部屋の中をソワソワしたり、読書でもしてみるかと思ったがどうにもならず、仕方なく家計簿アプリを操作し始めた。
家計簿の記帳は、週に一回のペースで定期的に行っている。得られることと言えば、右肩上がりの貯金を眺めることばかりの相変わらずな結果。この前、これを見ることで過去、伊織の身に何があったのかを探れるかと思ったが、あれ以上の成果は未だ見出だせてはいなかった。
俺はまた、去年の三、四、五月頃のページを開いて唸っていた。睨みすぎてスマホの画面に穴でも開くんじゃないかと思うくらいに睨み続けるが、やはり得られそうな情報はない。
「そもそも、この辺は特に記帳の書き方が雑なんだよな」
おおまかに分けて、過去の香織は家計簿の記帳を数種類に分けて行っていた。食費、電気代、水道代、とかそんな感じだ。それ以外の内容を書くかどうかは、当時の香織の気分次第なところが多く、基本的にはその他で日別にまとめて記載されていることが多かった。
「むしろ、よく花の値段は書いてたなってくらい、その他ばっかり」
具体的には、
三月二十八日:その他 二万円
四月一日 :その他 五千円
四月十五日 :その他 三百円
家計簿アプリにはこんな感じに書かれていた。
こんな内容を見て、一体何を読み解けと言うのか。
そりゃあいくら見てもヒントの一つも得ることは出来ないよなあと俺は思い始めていた。
……ふと気付いた。
俺は自室を出て、香織がいるだろう書斎へ向かった。部屋をノックした。
「どうぞ」
「母さん、今家計簿アプリまとめてるんだけど」
「あー、ありがとう。いつも助かるー」
「いいよ。楽しいし。……で、昔の領収書とかレシートって余ってないの? 一時期その他、その他ばっかりで、これじゃあ家計簿つける意味がないよ」
一瞬、香織がピクっと反応した気がした。
さっき俺が気付いたこととは、家計簿への記帳が雑なことを考えると、もしかしたら香織が当時の領収書を捨てずに持っているかもということだった。
「ごめん。昔のやつは値段だけまとめて、とっくに捨てちゃった」
「……あ、そう」
しかし、どうやら空振りに終わったらしい。
俺はわかりやすく項垂れた。
「伊織、最近あなた随分とお金に関してうるさくなったわね」
「悪い? いいことだと思うけど」
「別に悪いことなんて思ってないよ? ……ただ、なんでかなあって思っただけ」
ニマニマと俺を見る香織は、明らかに余計なことを考えていた。
「アルバイトの影響かな」
「それだけ? それだけ?」
「……まあ、明日橘さんとその……デートに行くから。多分今後も。だから、貯金はキチンとしないとなって思っているだけ」
完全に言わされる形で、俺は明日に迫った橘さんとのデートを香織に教えた。多分今後も、というのは、今後も行く予定があるかはわからないが、どこに行ったか勘ぐられないようにするため、咄嗟に付け加えた嘘だった。
一応、家計簿を熱心に付けてまでお金周りを正している説明にはなっているのではと思う。
「えっ、明日美玲ちゃんとデートするのっ!???」
ただ俺の心配など他所に、香織はわかりやすく垂らした糸に食いついた。
「うん。行く」
「えー、明日? 何時から?」
「朝、早くから。ちょっと海でも見に行こうかって」
明日、橘さんと整合を取っておかないとなと思いながら、俺は嘘で塗り固めた発言を続けた。
「この時期に海? うーん。まあ、幸せそうならオッケーです」
「やかましい」
海なら行く場所を絞られづらいと思ったから言ったが、確かに冬の海はデートに行くには完全に季節外れだ。
「ちょっと、あなたちゃんとお小遣い持っているんでしょうね?」
いつにもまして厳しい口調で香織が言った。
「え、まあ。それなりには」
「ちょっと待ってなさい。お金あげるから」
「いや、そこまでは……」
「何言ってるの。ちゃんとエスコートしてあげなさい。格好悪い男と思われちゃうわよ?」
羽振りが良い男が格好良いってことなら、俺は別に格好悪い男でも良いと思ってしまう。
「……はい。楽しんで来てね」
「……うん」
俺は香織から一万円札を一枚受け取った。このタイミングでまさか、意外な副収入を得た。
ただ、俺の胸には罪悪感が少し芽生えていた。
実は伊織には今香織のかつての恋人の魂が宿っていて、明日のデートは橘さんを巻き込んだ俺の状況調査だなんて話したら、香織は一体、どんな顔をするだろうか?
考えそうになって、深みにハマりそうだから止めておいた。
「ありがとう。……母さん」
「いいえ。楽しむのよ?」
息子に優しく微笑みかけた香織は、かつての彼女と違って完全に親の顔になっていた。
停滞する自分と違って、香織はこの二十年で夫と幸せを掴み、息子を授かった。楽しいことばかりの人生ではなかっただろう。辛いことも少なくない人生だっただろう。
でも、今こうして笑えているのは、きっと……最愛の息子がいるから。
俺はこの前、伊織として生きることを決意した。
なのにも関わらず明日、俺は俺の現状を探りに行く。この身になった以上赤の他人となった男の状況を確認しに行くのだ。
それで、良いのだろうか。
わからない。
唯一わかることは、ここでどれだけ頭を悩ませようとも、多分、答えは出ないことだけだ。
ただ一つ。
母の出したデートを楽しむ、という指示だけは、こうしてお金も受け取った以上必ずこなさないといけないに違いない。
翌朝、香織が寝ている内に俺は家に出た。
始発に近い電車に乗って、隣駅で一旦ホームへ降りると、丁度橘さんが階段を昇ってくるところだった。
「おはよう」
「ん」
「行こうか」
発車ベルが鳴った電車に、俺達は乗り込んだ。
通学時と同じように、俺達は隣同士に腰を落とした。早朝の車内は、俺達以外の客は僅か二人しかいない閑古鳥状態だった。
「地元へは何時くらいに着くの?」
「新幹線を使って、二時間くらい」
「……着いたら、すぐにアパートの方に向かうんだっけ?」
「そのつもりだったけど、午前中は駅周りで遊ぼうか」
香織の指示を聞いたから。
それだけのつもりで、当初の予定を俺は捻じ曲げる発言をしたつもりだったが、直前には一日付き合わせる彼女に何かお礼をしたいと考えていて、その発言も淀みなく口から漏れた。
「あなた、お金ギリギリなんでしょ? 大丈夫なの?」
「大丈夫。あんまりお金を使わない方向で案内するよ」
「……でも」
「これ、デートなんだよね?」
いつかの橘さんのように、俺は彼女の発言をそっくり真似て言った。……いや、当時の橘さんはもっとどもっていたか。
「橘さんは、俺とデートしたくないの?」
「……別に。そんなこと言ってないじゃない」
「ありがとう」
お礼を言って、俺達はしばらく電車に揺られた。
そして、新幹線に乗り継いで目的地へと向かった。