恋人
学校に着くまでの間、俺はスマホを片手に家計簿アプリを睨み続けていたが、早朝ということもあるのか頭も冴えず、やはりあれ以上の情報を引き出すことに苦戦を強いられていた。
「あんたの趣味はわかったけど、危ないから歩きスマホは止めなさいよ」
隣を歩く橘さんは、俺が歩きスマホをしていることに苦言を呈してきた。
こういう時こそ他人を頼るべき。そう思った俺はスマホを橘さんに手渡そうとしたのだが、話を聞かない俺に呆れた橘さんはジト目で俺を睨むのだった。
この場ではこれ以上の調査はやめよう。
スマホをポケットに仕舞った俺は、橘さんの隣を歩くことに集中した。
「まったく。そんなんじゃスマホ依存症になっちゃうよ」
「大丈夫。かつての俺は、今ほど熱心にスマホを見ていなかったから」
「なんでよ」
「メーカーから電話が来るんだよ。会社から携帯電話が支給されなくて、個人携帯の番号を教えていたから」
自動車メーカーを主な取引相手としていたかつての俺の職場は、町工場に近い中小企業な環境よろしくそういう部分で慢性的な配慮不足が多かった。
自動車メーカーは、国内外に多数の工場を持っていることが多く、会社独自のカレンダーにより出勤日が決まっているという話は有名な話だ。そんな向こうの都合に合わせて、下請けに当たるかつての俺の職場は仕事をしなくちゃいけなかったわけだが、突然それは休日での仕事も強要されたわけで……今思えば世界情勢から逆行する働き方だったとしみじみ思った。
「お父さんやお母さんみたいに、あんたもブラック企業勤めだったんだ」
いつか橘さんは、俺が自らの素性を明かした時に半信半疑だと言っていたが、今の話は疑問も抱かず受け入れてくれた。
「ブラック企業。……まあ、そうだね。でもやりがいはあった」
かつての俺の所属した部品技術の部署は、他の部署と比べても激務だった。何故か畑違いな営業まがいの仕事をさせられたり、測定をさせられたり、部品をメーカーに持ち込んだり、それが駄目だと怒られたり、深夜残業ばかりな日々だったが、やりがいがないわけではなかった。
多方面の仕事をすることが出来たから人一倍交友関係が広がったことや、激務に耐えて結果を出したことで同期の中でも一番に出世出来たことが大きかったんだと思う。
メーカーからはよく、俺を呼べ、俺を呼べと口うるさく言われているとよく愚痴られた。自分に関わりのない仕事に呼べと言われるのだから、恐らく俺はメーカーからの信頼も得ることが出来ていたのだろう。
「お父さんもお母さんも似たようなことを言う。そういう人ほど、早くに体を壊すの」
「……アハハ」
会社に対して悪感情を持っているのか、橘さんの言いぶりは恨みが篭っているように見えた。
橘さんは両親が忙しいせいで、半ば強制的に優香ちゃんの面倒を見るよう強要され、今ではそれも楽しめているそうだが、かつてはそうじゃなかったと来ている。当時のことを思い出すと、この日本社会自体に恨みを抱いていても、おかしな話ではないと思わされた。
「……生憎俺は、子供を養う場面には恵まれなかったけど。でももし出来ていたら、きっと当時以上に仕事に熱を出していたと思うよ。自分と血を分けた子。そして妻に、贅沢させてやりたいって思うのは当然のことだ」
「そう言えばあんた、恋人はいたの?」
突然の質問。
仕事に関して互いの意思をぶつけていたのに、どうしてそんな話をいきなり振るのか。女子は恋バナが好きと言うが、橘さんもその口なんだろうか。
「……いなかった」
「好きな人も?」
「……それは」
「いたんだ」
俺は何も言ってない。態度で仄めかしてしまったが、決して何も言ってない。
だから橘さん、俺を睨むのは止めてくれ。
そもそも、どうして俺に好きな人がいたというだけで橘さんに睨まれないといけないのか。これだとまるで、橘さんがジェラシーを抱いているようではないか。
「どんな人だったの?」
「……優しくて面倒見が良くて、頼りになる人だった」
「ふうん。会社の同僚?」
勿論、違う。ただ何も言わない。
「……じゃあ、昔の恋人」
俺は悟られないように黙っていた。
「そうなんだ」
何故か今朝の橘さんは、滅茶苦茶鋭い。
俺は何も言ってないし、顔色にも出さないように取り計らったつもりだ。何故今、橘さんは確信を付けたんだ。女の勘ってやつか?
背中に冷たい汗を垂らしながら、俺は橘さんから目を逸した。これ以上、彼女の誘導尋問を受けるのはまずい。また強めに睨まれそうだ。
そんな俺の恐怖とは裏腹に、橘さんは俯いてしまっていた。
「……その人とは、どれくらいの間会ってなかったの?」
「答える気はない」
言ってから、昔の恋人への想いではないとはぐらかすべきだったと気付いた。
「……わかった」
「うん」
「もしいつか話したくなったら、教えてよ」
そんな日はやってくることはないと思う。
橘さんには協力を仰ぐため仕方なく元の体のことを打ち明けた。でも俺は、これからは伊織として生きていくつもりだから……いつか、俺という存在は俺の中からも消え去っていくのかもしれない。
「あたしには、話してよ」
内心で寂しさを抱いたことを、俺は橘さんに見抜かれてしまったらしい。
協力を仰ぎ、俺は橘さんと俺の秘密を共有する道を選んだ。
その時点で、彼女にかつての俺の全てを知らしめることは……当然の話だったのかもしれない。
「わかった。いつか、話す」
でも今は、多分まだ……その時ではない。
俺達は通学路をゆっくりとあるき続けた。