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一緒に

 橘さんを地元に誘う。橘さんからしたらそれはあまりに突拍子もない誘いだったことだろう。異性からのそんな誘い、訝しんでも何もおかしい話ではなかった。


「……怖いんだ」


 ただ俺は、橘さんの不安を心配する余裕もなく、俯いた。


「……真実を知ることが?」


 重々しい口を開き、橘さんは尋ねてきた。

 真実を知ること。

 俺の身がどうなったかを知ること。

 今、俺の身に起きているこの現象はあまりに信じがたく、摩訶不思議。そんな状況に陥った理由を考えると、やはり元の俺の身に何かあったと考えてしまうのも道理である。

 

「違う」


 ただ俺は、待ち受ける真実を知ることが怖いからそんな情けない誘いをしたわけではない。


「……真実を知った後、俺がどうなるか」


 要領を得ないと、橘さんは眉をひそめていた。


「……覚悟はしているんだ。俺の身に、不幸が起きていることは」


 これまで散々、何度も何度も俺は、自分の身に起きた不幸を想像しては不安になる日を体験してきた。色んな想定をしてきたのだ。

 だから、覚悟は出来ていた。


「覚悟は出来ている。だから、きっとその場では耐えられる。想定していたことじゃないかって、堪えることは出来る。……でもふとした時、俺はきっと……自傷行為に走ってしまう。そんな気がするんだ」


「じゃあ、あんたはあたしに、あんたが自傷行為に走るのを抑えてって言うの?」


 俺は黙って頷いた。

 薄々思っていた。真実を知ったその場では、俺はきっと堪えることが出来る。でも、何かの拍子に凶行に打って出る可能性はないか。考えると、それを否定することは出来なかった。

 そうなった時、取り返しがつかないことを仕出かしてしまった時。


 俺はきっとその時初めて、本当の意味で不幸になる。


 だから、誰かに地元への同行を頼む必要があるとはずっと思っていた。

 生憎俺の周りにそんなことを頼めそうな人は二人しか思いつかなかった。香織とそして、橘さん。ただ二人だ。

 そして地元への同行を頼む時点で、俺は俺の事情を相手に知らせる必要があると思っていた。


 地元で俺が取り乱した時、伊織のまま取り乱せば……色々整合が取れなくなるからだ。


 香織には、事情を話すことは出来なかった。

 上手く説明出来る自信がなかったのも一つの理由。でも一番は、息子を失い、かつその息子にかつての恋人の魂が宿っているだなんてそんな悲しい事実を伝えることは、出来なかったのだ。


 そうなると、後俺が頼れそうな人は、橘さんしかいなかった。


 ただ、今俺が橘さんに願うことは、あまりに情けない話だ。


 今俺が橘さんに願ったことはつまり、当日、俺が落ち込まないように励ましてほしいという意味に他ならない。

 三十五歳の男が十五歳の少女に頼むには、情けない話に違いなかった。


「……情けない頼み事で、ごめん」


「情けない頼み事なんかじゃないでしょ」


「……二十歳も上の大人が泣く現場を目の当たりにして、本当にそう言える?」


 泣くつもりはないが、そうならない保証はどこにもない。


「おばあちゃんの葬式に、あたし五歳の時に出席したことがあった。葬式の間中、あたし、ずっと喪主であるお父さんの隣に立って、お父さんと手を繋いで、お父さんの真似を見様見真似してた。今でも覚えてる。お経が読み始まった時、お父さんはおばあちゃんの遺影を見て涙を流していたんだ。今でもあの姿はまぶたの裏に焼き付いている。大人って、ロボットみたいって小さい頃のあたしは思ってた。悪いことをしたら怒って。正しいことをしたら褒めて。家族を養うために働いて。文句も一切言わない……ロボットみたいって思ったの」


 俺は何も言えなかった。

 

「あながち間違った考え方じゃないと思う。年を重ねるほど、あたしも感情を表に出すのは恥ずかしいって思うようになった。大人になるほど人は、自分の感情を表に出さなくなって、結果ロボットみたいになるの」


 言いたい意味は理解出来た。

 忙しい時、能面のように表情を殺して仕事をした経験は何度もあった。


「……そんなロボットみたいな大人が涙を流す時って言うのは、本当に……心の底から辛い時しかないじゃない。大切なものを失ったことへの悲しみ。取り戻せない後悔。そういうのが複合して初めて、大人は泣くんだ」


 熱弁する橘さんは、我に返ってそっぽを向いた。


「大人が流す涙って、とても尊いものだよ。少なくとも、あたしはそう思ってるし、感情を表現出来る大人になりたいって思ってる」


「……ありがとう」


「別に」


 無言になってしばらくして、橘さんは続けた。


「で、あんたはいつ地元に行くの?」


「え?」


「つ、付いてってあげるって言ってるの」


 あまのじゃくに橘さんは言った。


「……春休みの間かと思ってる。その辺になればアルバイト資金も貯まっているし、何より親には言えないような遠征理由だ。春休み中に一日中家を明けることは、別におかしな話じゃないだろう?」


「……でも、その間あんたはずっとその不安と戦わないといけないのよ?」


 今日は一月四日。

 春休みになる三月に地元に行くとなると、二ヶ月は俺はこの苦痛な不安を我慢しないといけなくなる。


 ただ、今の俺の案が最適解だと俺は思っている。

 最悪資金は……使わないようにしていた伊織のお小遣いに手を出せば何とかなるだろう。でも、土日休みに一日。最悪二日家を明けて、俺も知らぬ一件があり伊織に過干渉になっている香織を、不安がらせない説明が出来る自信がない。


 橘さんも詰問しない当たり、恐らくそれは理解しているようだ。


「……こういうのはどう?」


 しかし、橘さんは何やら案があるらしい。


「……あたしと、デートに行くってことにするの」


「デート?」


 突拍子もない提案に、思わず俺は聞き返していた。

 橘さんの顔は、ゆでダコのように真っ赤だった。


「あ、あたしとのデートだってことにすれば、香織さんだって大手を振って一日家を明けることくらい認めてくれる。それに……もし泊まりになっても、むしろ喜ぶくらいだと思う」


 それは、間違いが起きたことを想起させるからかと尋ねたくなったが、セクハラまがいなので口をつぐんだ。


「……君と一緒に行くからこそ、絶対に泊まりなんてさせられない。……犯罪になってしまう」


「い、今あんたの見た目は十五歳でしょ」


「そうだけど、精神的な問題だよ」


 橘さんがそこで噛み付いてくる理由はわからない。

 でも、少し考えると橘さんの提案は有り難い話に違いなかった。確かにその話なら、二ヶ月先に予定していた地元への遠征も前倒しに出来るかもしれない。


「……で、どうするの?」


「え?」


「あたしと一緒にデートに行くってことにして予定を前倒しするか。不安に苦しみながら、三月まで待つか」


 橘さんのそれは、最早脅迫に近かった。

 橘さんとデート。二十歳も下の少女のデートなどという事案まがいなことに手を染めるか。もしくは、苦しみに耐えるか。

 究極の二択を今、俺は迫れていた。


 しばらく、俺は俯いて思案した。


 ただ、決め手となったのは結局、苦しみから解放されたがっている心だった。


「デート、の方かな」


「……さ、最初からそう言えばいいのよ」


 口を尖らせて、橘さんは俺を咎めた。


「ごめん」


 俺は苦笑しながら謝罪した。


「じゃあ、もう一度」


「え?」


 突然、橘さんは難しい顔で俺に何かをもう一度するように強いた。

 一体、何をすればいいのだろうか。

 困り果てた俺は、橘さんに向けて不安な瞳を揺らした。


「……折角デートに行くんだから、男らしくちゃんと誘ってよ」


 ボソリと小さな……今にも消えそうな声で橘さんは言った。

 デート、はあくまで便宜上のものだと俺は思っていた。

 ただ橘さんはどうやら、そういうつもりでデートを提案したわけではないらしい。


「橘さん、俺とデートに行ってくれませんか?」


「……どうしても?」


「えぇ?」


「嫌なの?」


 うるうると涙目になる橘さんを見ていたら、嫌、とは口が裂けても言えそうもない。


「……嫌じゃない。どうしても行きたい。だから、お願いします」


「……し、仕方ないわね」


 恥ずかしそうに橘さんはそっぽを向いた。

 そんなに恥ずかしいなら、色々とやりようがあったと思うのだが……きっとそれを口にするのは野暮なんだろう。


「エヘヘ。じゃあよろしくお願いね?」


 初めて見た橘さんの優しい笑みは、俺の心臓をどきりと跳ね上げさせた。

 しばらく俺は年甲斐もなく、二十歳も年下の少女にドギマギしっぱなしだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 実はおっさんは、加齢で前頭葉が縮んでおバカになるので ちょっとした事で泣いてしまうのです あとすぐキレるようにもなります(感想じゃないっすね
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