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正体

 堰き止めていたダムが決壊したかのように、これまで押し留まっていた俺の感情は爆発した。ただ、今が橘さんに俺の身に起きた摩訶不思議な体験の説明の場であることを思い出すと、俺は頭の中で話す内容を整理しながら、ゆっくりと的確に、橘さんに俺の状況を説明した。


 説明しながら思ったことは、やはりどんなに事実を繕っても、俺の今言っていることはあまりに荒唐無稽で信じがたい。それに尽きた。

 過去、伊織の身に乗り移った後、俺は何度も他人に自分の状況を説明しようと考えた。でも結局、俺はそれを実行に移したことは一度もなかった。


 リハビリの担当医に、精神科医に、そして、香織に。

 誰に話しても今の俺の言葉は子供の戯言か、精神異常者の発言にしか映らないと思ったためだ。


 だから俺は説明を諦めて、伊織として生きていくことを決意した。

 ひとしきり説明を終えると、俺の口の中はカラカラだった。気付かない内に相当緊張していたようだ。


 生唾を飲み込みながら、俺は橘さんの言葉を待った。

 一体、どんなことを橘さんは言うだろうか。やはり荒唐無稽だと笑うだろうか。変なことを言うなと怒るだろうか。


「そっか」


 緊張する俺を他所に、橘さんの返事はそっけないものだった。

 失敗した。熱を込めた説明に引かれたか。


 取り繕う言葉もなく、俺はあわあわしていた。


「ち、違う。信じてないわけじゃない」


「え、信じるの?」


「……嘘だったの?」


 ジト目で橘さんは俺を睨んだ。


「ち、違う。嘘じゃない。本当だよ」


 取り繕いながら、声を荒らげて俺は首を横に振った。

 しばし、俺達は互いの真意を図るべく見つめ合っていた。


「……まあ。百パーセント今の話を信じたわけじゃないよ?」


 しばらくして橘さんはそっぽを向いて言った。


「一昨日の夜、香織さんにあんたがお医者さんに逆行健忘症って記憶障害の診断を受けたことは確認した。だから、半信半疑。他の病気を併発していて、それの症状なのかも、とも思ってる」


「……病気なら、どれほど良かったかな」


 精神病だったら、香織にあれ程執着したりもなく、俺はもっと苦しまずに入れたのかもしれない。


「まあとにかくそんなわけで、あたしは今のあんたの話。全部を全部信じたわけじゃない。でも、嘘が交じってたとも思ってない。そんな感じ」


「……うん。わかった」


 初めての説明にしてその結果であれば、上出来と言えるのではないだろうか。俯きながら、俺は言った。


「お、落ち込まないでよ。しょうがないでしょ。あんたも逆の立場になってみなさいよ。いきなり……その、トモダチ、に実は記憶喪失は嘘で別人の体に乗り移ってましたなんて言われて、信じられる?」


「……うん。出来ないね」


「でしょ。だから……仕方ないじゃない」


 橘さんは頬を染めてそっぽを向いた。

 橘さんの言い分には、完全に納得できた。しかししばらく俺は、立ち直ることが出来ずにいた。


「なんで、いきなり話そうと思ったの?」


 そう尋ねてきたのは橘さんだった。


「ごめん違う。多分、あたしもそんな状況になったら誰かを頼りたくなると思うもの。……だから、あたしでもきっと誰かに最終的には話してた。だから、その……どうしてあたしに、それを話したの?」


 橘さんは伏し目がちに俺を見つめて続けた。


「……あたしより、それこそ香織さんに話せばよかったじゃない」


「あの人には、話せない。頼れないからとかではない。ただ、一身上の都合ってことにしてほしい」


「ここまで話して、話してくれないの?」


「……ごめん」


「……わかった。深い事情は今はいい」


「ありがとう」


 俺の話を荒唐無稽と笑い飛ばさず、自分がその状況に置かれたと仮定して話してくれる橘さんの親身さが身に沁みた。


「……それじゃあ、どうしてあたしなの?」


 橘さんは続けた。


「香織さんに言えないことはわかった。でもやっぱり、あたしより頼れる人はいたでしょ? それでもどうして、あたしに?」


「あたしがいるって、言ってくれたからだ」


 昨日の出来事が、目を閉じれば蘇る。

 それくらい、あれは俺にとって心の支えになり、きっかけになった。向き合う決意を固めるきっかけになったのだ。


 この身に乗り移って、俺はずっと一人だった。

 眼前に広がる世界は俺ではなく伊織の世界。俺の世界は、どこか遠くに行ってしまった。


 そんな俺に寄り添ってくれたのは、ただ一人だった。


「嬉しかった。だから、君を頼らせてほしいと思ったんだ」


「……め、面と向かって言われると、恥ずかしいから……や、止めて」


「ごめん」


 また俺達は黙りあった。ただ、沈黙が不快ではなかった。


「……実は今度、俺は元の地元に訪問をしようと思っている」


「え?」


「バイトを始めただろう。あれは記憶を探るためではなくて、それが理由。遠征費を貯めているんだ、俺」


「……ああ」


 記憶喪失とアルバイトが繋がらないと以前の橘さんは漏らしていた。

 自分の身がどうなったか探るため地元に帰るためとわかれば、納得出来る話だったのだろう。


「それで、折り入ってお願いがあるんだ」


 そして次が、この場で俺が橘さんに自分の素性を告げた理由。


「君の分の遠征費は俺が払う。だから……一緒に来てほしいんだ」


「……え?」


「俺の地元に、一緒に来てくれないかな?」


 橘さんは目を丸くしていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「高校時代の元カレです」なんて言えないよね …ってのを抜きにしても、香織にとっては伊織だけが家族なのに 「中身は別人です」なんて口が裂けても言えないわ
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