嘘
香織を母さんと呼んでから一夜が開けた。
一念発起し向き合うことを選び、俺はこの身になってから初めて変化を望んだ。これまでの俺は、特にこの身になってからは深層心理で現状維持を心掛けていた。
校外活動をまるで仕事をこなすかのようにこなしたことも。
香織が俺以外の男と結婚していたことに嫉妬したことも。
あれらは全て、俺が俺であったことへの証明だったんだ。
俺は理解していなかった。
今俺が見ている世界は俺の世界ではなく、伊織という少年の世界であることに。
今俺の周り、俺のことを呼んでくれる人はいない。
斎藤伊織。
それが、今の俺の名前だった。
俺が望んだ些細な変化。
それはかつての俺を捨てることであり、伊織としての人生を歩むこと。
もう俺は、俺ではない。
かつての恋人は母になり、職業はサラリーマンから高校生になったんだ。
正直、疑問が残っている。
かつての自分を捨てて良かったか。
この少年の体を借りて、生活を続けていいのだろうか。
罪悪感がないわけではない。
でも、長らく抱えたしこりのような違和感が拭えたことは事実だった。
俺の望んだ些細な変化が、正しい選択だったのかはわからない。
でも、向き合うことを選んだことはきっと、間違いではなかったんだと思う。
「おはよう、伊織」
キッチンで料理をしながら一人考えに耽っていると、香織は眠そうな目を擦って起きてきた。
「おはよう」
意を決して、俺は微笑んだ。
「……母さん」
……正しい選択だったのかは、わからない。
でも、いつにもまして優しく、そして嬉しそうに香織の笑顔を見て、俺は息子として正しい選択を出来たんだとそう確信した。
俺が作った朝食を二人で食べて、食器を洗って、体温を測った。
昨日散々俺を悩ませた発熱は、一夜明けて俺の心境に変化が生じたからかすっかりと引いていた。
一月四日。
社会人であったとしても、まだ冬休みの真っ最中なそんな日だが、フリーランスの香織は仕事の進捗を滞らせないようにといつも通りに書斎に篭っていた。
昼食は、息子として仕事が忙しい母の代わりに振る舞ってやろうと思って、俺は香織に何を食べたいかと問うた。
香織は、
「さっき連絡があって、今日は美玲ちゃんが昼ごはん作りに来てくれるって」
いつの間に仲良くなったのか、俺の同級生の名前を口にした。
「……あの子、いい子ねえ」
「そうだね。疑う余地もないよ」
香織は、驚いた顔をしていた。
きっと俺が香織に茶化されたと思って、照れ隠しでもすると思ったんだろう。
でも俺は生憎、照れ隠しでも嘘をつくことが苦手な男だった。
橘さんがいい子であることなんて、疑う余地なんかありはしない。
前日会った俺が熱を出したといえば、家族水入らずの時間を削ってでも看病に来てくれて、そうして励ましてくれた彼女が優しくないはず、ないではないか。
「こんにちは」
橘さんが自宅に訪れたのは、香織が二階の書斎に仕事に行ってから一時間くらい経った頃だった。
「こんにちは、わざわざありがとう。橘さん」
俺が玄関に橘さんを迎えに行くと、彼女は目を丸くしていた。
「あんた、もう動いていいの?」
「うん。もう万全」
「……日頃の疲れが出たかもなんだから、寝てないと駄目じゃない」
老婆心な橘さんに、俺は苦笑を返した。
橘さんは片手に、スーパーの袋を持っていた。どうやら道中、買い物もしてきてくれたらしい。
「持つよ」
「寝てなさい」
怒られながら、橘さんは頑なな態度で俺にスーパーの袋を持たせなかった。
「……わかった」
そこまで言うなら、従う他なかった。
でも、俺は橘さんにどうしても言いたいことがあった。
「ねえ橘さん、昼ご飯の後、少しいい? 母さんには内緒で」
「え?」
心底驚いた橘さんの顔には、僅かな不安と期待が見え隠れしているように見えた。
「……わかった」
不承不承と、橘さんは頷いた。
橘さんの指示の元、俺は眠くない体を動かし自室に向かった。階段で、声を聞きつけた香織とすれ違った。
「橘さんに寝ているように言われたから寝てる」
俺がそう言うと、香織は、苦笑していた。
ベッドに寝転がって、俺はスマホを眺めていた。しばらくすると一階から香ばしい匂いが漂い始めて、二人の楽しそうな声が漏れてきた。
コンコンと、扉がノックされた。
「ご飯」
「うん」
口数少ない橘さんに頷いて、俺はベッドから体を起こした。
「ずっとスマホいじってたの?」
「え? うん」
「寝てなさいって言ったのに」
「ごめんごめん」
口だけで謝罪すると、橘さんは目を細めて俺を睨んだ。
それから俺達は三人でご飯を食べた。
途中香織が、俺を茶化すような発言を時折吐いたが、それ以外は至って普通な、友人の交じった家族の食事だった。
食器洗い。
俺は橘さんにそれを手伝うと告げた。橘さんは休めと口うるさかったが、もう大丈夫だと連呼すると折れてくれた。
仲睦まじい俺達の邪魔をしちゃ悪いと思ったのか、香織はリビングを出ていった。書斎に、仕事をしに戻ったのだろう。
「忙しない人でごめんね」
「駄目、そんな言い方。あんたのために仕事してくれてるんだから」
「そうだね」
本当に、橘さんは出来た人だ。
……そんな彼女は昨日、俺に向き合うことの大切さを教えてくれた。
彼女の言葉は身に沁みた。
そして俺は、自分の起こしてきた行動の数々を振り返った。
同じ後悔を繰り返さないようにと、向き合って……俺は斎藤伊織として生きる決意をしたのだ。
……でも。
「今、いい?」
「……うん」
緊張しているよう橘さんが息を呑むのがわかった。
でも俺は、橘さんの些細な変化に気をやれるほど、穏やかな心中ではなかった。
何故なら俺は……さっきまでの話を否定するようなことを、これからしようとしていたからだ。
ようやく手に入れた安寧を。
ようやく落ち着いた心境を。
俺は、自分から乱そうとしていた。
「……実は、一つ嘘をついていたことがある」
でも、それもしょうがない。
今の俺は斎藤伊織。
でも俺は……俺は、俺なんだ。
三十五年間。
楽しいばかりの人生ではなかった。
苦しいことの方が多い人生だったかもしれない。
たくさんの人に怒られた。たくさんの人を悲しませた。
でもそれと同じくらい……いやそれ以上、俺はたくさんの人と笑い合い、生きてきた。
生きてきたんだ……。
「俺、実は記憶喪失なんかじゃない」
俺は知りたい。
「……え?」
「俺にはちゃんと、記憶がある」
俺の身に何が遭ったのか。
俺はどうして、斎藤伊織になったのか。
わかっていた。それを知ろうとすることが茨の道だってことは。
今となれば知らなくても良いことなんだ。
斎藤伊織と俺は他人。
斎藤伊織として生きていくと決意した今、それを知らずとものうのうと生きていくことは出来るのだ。
だからこれはきっと、俺のエゴ。
「……三十五年間生きた記憶があるんだ」
それも……あろうことか俺は、俺のエゴに他人を巻き込もうとしていた。
本当は、そんなことするつもりはなかった。
一人で知って、一人で解決させようと思っていた。
どんな結末に見舞われようが、俺はこれが一人で解決すべき話だと思っていた。
でも俺は、心変わりをした。してしまった。
……きっかけは。
『あたしがいる』
信じてくれるかはわからない。
それでも、俺を頼ってくれた彼女に。俺を励ましてくれた彼女に。
俺は、力を貸してほしかった。
「俺は、斎藤伊織じゃないんだ」
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