母さん
橘さんが帰宅してからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
あれだけ眠れないと橘さんに宣っていたのに、彼女の励ましの後、俺はまるで憑き物でも落ちたかのように深い眠りに落ちていた。
目を覚ますと、さっきまで曇天ながら明るかった窓の向こうが真っ暗になっていた。
カーテンの隙間からこぼれていた光はもうなく、俺の部屋は暗黒に包まれていた。カチカチカチと据付の時計が時を刻む音が耳に入った。
スマホの明かりに目を細めながら、俺は今の時間を確認した。
十九時四十二分。
夕飯時。
部屋の外から料理の香りは、漂っていなかった。
少しだけ、俺は小腹が空いていた。
* * *
朝よりも随分と軽くなった体を起こして、部屋を出た。向かった先は書斎。扉をノックすると、香織の声が室内から聞こえた。
「あ、起きた?」
「うん。随分と軽くなった」
「そう。良かった。心配してたんだよ?」
「ごめんなさい」
「……もう夕飯時か。ごめん。あたし何も作ってないや」
「じゃあ、俺が作ろうか?」
さっきまで熱を出していた息子の言葉に、香織は心配そうな顔をしていた。
「大丈夫。もう熱もない」
「そう?」
「うん。今は何となく、こってりしたものが食べたい気分だ」
「胃に悪いから止めなさい」
香織は苦笑していた。
「えぇ……。わかった、そうする」
残念そうに、俺は言った。
「伊織」
「ん?」
「たまには、一緒にご飯作ろうか」
香織の提案を断る理由は、特になかった。
微笑んで頷いて、俺達は一階に降りてキッチンへと向かった。途中、俺は脱衣所で汗まみれになって少し臭う寝間着をカゴに突っ込んだ。
着替えてキッチンに行くと、香織は冷蔵庫の中を開けてにらめっこをしていた。
「何を作るの?」
俺は尋ねた。
「何がいいと思う?」
冷蔵庫の中は、正月だと言うのに侘びしい並びだった。ただ、ソーセージに卵、ネギがあることがすぐに目に付いた。
「じゃあ、チャーハン」
「駄目。伊織は雑炊」
「えー。じゃあなんで聞いたのさ」
ぶつくさと口を尖らせると、香織は笑顔を見せた。
「あなた、チャーハン好きよね」
「そうだね」
いつか、香織が帰って来なかった日の晩も、俺は一人でチャーハンを作った。あの日以外にも、何度かチャーハンを作っては香織に振る舞っていた。
チャーハンは一番好きな食べ物だった。卵と余ったご飯と僅かな調味料があれば手早く作れるし、味も美味しいし。
「……男の人って、皆そうなのかな」
呟く香織の声は、俺以外の誰かに向けたものだったのだろうか。
「良し。じゃあ今日は二人とも雑炊ね」
「最初から決めてたならそう言ってよ」
「ごめんごめん」
作る料理が雑炊に決まった時点で、二人もキッチンに立つほど面倒な調理はなくなってしまった。まあ俺が提案したチャーハンもちょっと食材を切って炒めるくらいだから二人も必要ないと言えばそうなのだが……多分今俺は、自分の提案が袖にされて少し拗ねている。
「じゃあ、伊織はネギを切って」
「うん」
冷蔵庫から取り出された冷たいネギを受け取って、俺は包丁とまな板を用意してネギを切り始めた。
香織は、卵を数個割って溶きほぐしていた。お箸が卵を溶きほぐす時にボウルに当たって、カチャカチャという音だけが部屋に響いた。
「……ふふっ」
香織は、楽しそうな笑みをこぼした。
「ごめんね。ただ……あたしの夢が一つ叶ったなーって」
「夢?」
「うん。あなたと一緒に料理すること」
「……そうなんだ」
「うん」
香織は……遠くを見ていた。
「……昔は、あんなに小さかったのにね」
小さな声で、香織は言った。伊織という少年の幼少期を思い出しているのだろう。
「あなたが産まれてきた時は、今でも思い出せる。お父さんはテンパって分娩室間違えるし、おじいちゃんもおばあちゃんも台風の影響で来れないし……あたし、一人で戦ってた」
それは、俺の知らない香織の思い出。
「痛かったなあ。でも、産まれてきたあなたを見た時最初は……ちょっとムカついた。こんなに小さい子に、あたしあんなに痛めつけれたのって。……でもね、次の瞬間には嬉しかった。だってあなたは……あたしの子なんだもの。嬉しくないはずないじゃない」
俺は、初めて伊織という少年として目を覚ました日のことを思い出していた。
目を覚ました俺の前にいたのは、香織。
高校時代のかつての恋人その人だった。
あの時香織は……涙を流していた。
「もう、見れないと思ってた」
息子との再会に。
「あなたの歩く姿」
もう二度と会うことが出来ないと思った息子との再会に。
「……あなたの、笑顔」
香織は、涙を流して喜んだのだ。
「あたしの子供に産まれてきてくれて、ありがとう」
なんて、ちっぽけな夢なんだろう。
たった一人の息子と叶えたかった香織の夢は、ありきたりで些細なもので……母親になった誰もが一度は見そうな、そんな夢。
なのに香織はそんな夢を、奪われかけた。理由は知らない。
……そんな彼女が、不憫でならなかった。
でも俺は、すぐそんな感情を忘れ去った。
彼女の夢一つ叶えないような状況を作ったのは、彼女の夢一つ聞いてやろうとしなかった伊織という少年と……そして今、この身を借りて生きている俺に責任があるからだ。
俺はこの身になって、一体何をしてきたのだろうか。
自分の身の状況を知ることを最優先に動いてきた。多分それは、間違いではない。
でも俺はわかっていた。
わかっていたじゃないか。
香織の夫は亡くなり、伊織という少年は未だこの身で目を覚まさず……。
今、この部屋で涙を流す香織を慰めることが出来る人は、俺一人しかいないではないか。
だって今の俺は……唯一、ただ一人の彼女の家族なのだから。
橘さんのおかげで向き合う大切さを知った。
あの日の俺は、それを怠り成り行きに身を任せて後悔をした。
深い深い、後悔をした。
失いたくないものを失って。
もう二度と会うことがないからと諦めて。
再会を果たして、もう一度かつての想いの強さを知って、そして……また失いそうになって、年甲斐にもなく、男らしくもなく……また、後悔をした。
「……他には、どんなことを夢見ていたの?」
確信があった。
「え?」
「他には、どんなことを俺としたいって思ってたの?」
このまま成り行きに身を任せて行けば俺はきっと再び、同じ後悔をする。
俺はまだ、向き合っていない。
香織が誰かと結ばれたことではない。
未亡人になった香織に男の影があることではない。
……俺はまだ、自分が伊織という少年に乗り移ってしまったことに、一切向き合っていないのだ。
この後はどうなるかはわからない。
自分の身がどうなっているかだってわからない。
でも今……現状の俺は間違いなく、斎藤伊織なんだ。
かつての恋人である香織の……たった一人の息子なんだ。
「色んな夢、教えてよ」
正しいことかはわからない。
「叶えたかった夢、教えてよ」
何が正しいかわからないくらい、今の俺の置かれた状況は摩訶不思議で信じがたい。
「俺に出来ることならなんだって、叶えるよ」
でもだからこそ、臆していたらいけないんだ。
「だから、どれだけ時間がかかっても……ゆっくりでも、それを叶えようよ」
向き合わないといけないんだ。
後悔しないように。
大丈夫。
あの日と違って俺は、向き合う勇気を手に入れた。乗り越える胆力も、育んだ。
香織との出会いと別れを経たから。
深い後悔をしたから。
もう、繰り返したくないと思ったから……っ!
目から、冷たい何かが滴った。
「……ね? 母さん」
この日、俺は初めて……香織のことを母さんと呼んだ。
仕事キツイ・・・