向き合う
橘さんにもう一回寝た方が良いと諭されるが、さっきまでも長々と寝ていたことや他にも思うところがあって、もう一度眠ることは出来そうもなかった。
「もう。病人のくせに」
呆れたように橘さんは言った。
「ごめん」
「天井を見上げているのは楽しい?」
「……あんまり」
「……子守唄でも歌ってあげようか?」
「ちょっと聞きたいかも」
俺が苦笑すると、橘さんは俺の額にデコピンをした。痛くはない。
「ありがとう。橘さん。折角の三が日なのに、俺の看病だなんて」
「別に構わない。あ、あんたに熱出されたままだと、あたしもその……寝覚めが悪い」
「ごめんね」
俺は苦笑しながら謝った。気持ちがよくわかってしまったからだ。
……ただまもなく、笑う気持ちは消え失せた。
「いつもいつも、ありがとう」
それは、いつも橘さんに迷惑をかけ続けていることに気付いて、気落ちしたからだ。いつもなら気落ちまではしない。謝罪の言葉は口にするが、心のどこかでお互い様だと思っている。
なのに今日は熱のせいか、俺は一方的に怒られたい気持ちになっていた。
「……別に、構わないってば」
「君は優しいね。世話好きだし、面倒身も良いし……」
まるで、かつての香織を見ているようだ。
口からそんな言葉は漏れなかった。でもそう思った途端、胸の奥の何かが瓦解していっているように思えた。いつになく、今日の俺は弱っていた。
本当、情けない。
「……勘違いしてほしくないんだけど」
橘さんはしばらく黙っていたが、突然吐き捨てるように続けた。
「あたし、別に人のお世話するのは好きじゃない。小さい頃は、よく思ってたよ。なんであたしが……妹の世話をしないといけないんだろうって」
「え?」
橘さんはいつか、区役所でやる気のない職員に文句を言うくらいに妹思いの性格をしていた。そんな彼女がかつては面倒を見ることを嫌がっていたのは、意外だった。
「そりゃ嫌でしょ。小さい頃なんて遊びたい盛りだし、周りの子は皆学校行って勉強して、放課後は友達と遊んで、夕飯食べて宿題して、後は寝るだけ。なのにあたしはそれら色々なことを投げ売って妹の面倒を見させられたんだよ? 周りを何度も羨ましいと思った。妬んだりもした。……一回、逃げ出したこともあった」
「そうなんだ」
「うん。……放課後、いつもなら家にまっすぐ帰るところを誰かの古書店に行って時間を潰してた。ああ、あの時は誰かのお父さんが経営していたっけ。とにかく、そうして時間を潰してさ。……その時おじさんはあたしに、何も言わなかった」
橘さんは遠くを見ながら続けた。
「家に帰ったら、怒られる気がしたの。優香の面倒を見ないで遊びに出てって。でも家に帰るとさ、お父さんとお母さんは、あたしに謝ったの。やることサボったあたしに、逆に謝ってきたんだ」
「……うん」
「あたしその時、ああ、逃げてもいいんだってわかった。逃げて……やることサボって、それでもいいんだってわかったの。
だからあたし、翌日からはいつも通り、優香の面倒を見るようにしたんだ」
「……え?」
「……最初はただの使命感だった。あたしはあたしのやるべきことをしないとって、そんな使命感。でもさ、もう一度向き合って、途中からそれも変わったよ。だって優香は、あたしの妹なんだもの」
向き合う。
どれだけ辛くても。どれだけ嫌でも。
「……多分、あのままなあなあにしてたら気付かなかった。一度離れて、もう一度向き合ったからこそ、気付いた。
あたしは優香のことが好きなんだって」
……一度離れて、もう一度向き合って。
「あの子、時々ませてるし。時々ワガママだし……時々小癪なんだけど。でも、あたしの妹なの。可愛い可愛い、ずっと守ってあげたい、あたしの妹なんだ」
「……だから、君は優香ちゃんのお世話を、またしてあげてるんだ」
「してあげてるなんて上からなもんじゃないよ」
照れくさそうに橘さんは言った。照れた笑みからは、妹に対する彼女の優しさが滲んでいた。
いやそんなことより、今の橘さんの話。
向き合うことの大切さ。
……素直に、凄いと思った。
まだ十五歳の少女なのに、彼女は嫌なことに立ち向かう勇気があり、乗り越える胆力がある。
『また会おうね』
あの時の俺は、今の彼女のように向き合う努力をしたのだろうか?
全てが成り行きだった。
楽観的でマイペースな性格のまま、俺は全てを成り行きに任せて考えなしに時間だけを浪費して、そうして深い後悔をして……。
「君は凄いよ、橘さん……」
橘さんと背を向けるように寝返りを打ちながら、俺は言った。
今の顔は、橘さんに見せられそうもなかった。それくらい……それくらい今俺は、酷い顔をしていたと思う。
過去の後悔のせいで、今にも泣きそうになっていたんだ。
「俺には到底……到底真似できない」
本心だった。
俺には到底、彼女のように向き合う努力も、乗り越える胆力もありはしない。
羨ましいと思った。
彼女のその精神性が、羨ましくて、悔しかった。
橘さんは、こんな惨めな俺に何を思っているのだろうか?
……橘さんは、
「バカ」
呆れたように言って、俺の頭を優しく撫で始めた。
「……誰もがやりたがらない校外活動を率先して解決させた」
俺は気付いた。
「あたしの代わりに、不真面目な職員を怒鳴ってくれた」
今、橘さんは俺を慰めてくれているわけではない。
「苦手だった勉強も努力して良い成績を収めた」
……今。
「失った記憶を取り戻したいと、あがいている」
今、橘さんは俺に事実を伝えているんだ。
「あんたは、あたしなんかより……よっぽど、強いじゃない」
彼女の知る俺の姿を、伝えてくれているんだ。
「あんたが今何に落ち込んでいるかはあたしはわからない。でもあんたなら、きっとそれにも向き合っていける。あたしはそう確信している。信じているわけじゃない。今までのあんたを見たら、そう確信出来るんだ」
「……無理だ」
「無理じゃない」
「無理だよ」
弱々しく、俺は続けた。
「……根拠のない言葉なんて、聞きたくない」
「根拠ならある」
「……何さ?」
「あたしがいる」
懐かしい風景を見ているような気分だった。
橘さんの言葉に、既視感を感じずにはいられなかったのだ。
いつか……いつか俺は、似たようなことを橘さんに言ったことがあった。
「……隣には、あたしがいる」
あの時橘さんは、翌日に控えた区役所との調整に不安そうな態度を隠すことさえ出来ずにいた。
でも、俺の言葉を聞いて……橘さんは。
「……ははっ」
橘さんは、今の俺のように笑っていたんだ。今抱える不安さえバカバカしいと思うように、笑っていたんだ。
「このご時世にクサいこと言うね」
「それ、あんたにも突き刺さっているからね」
まくし立てるように橘さんは言った。
「……元気、出た?」
「うん。……うん。ありがとう」
「じゃあ、ご飯食べてよく寝る」
「うん」
「……また明日、お見舞いに来るよ」
橘さんが立ち上がる音が聞こえた。
「……橘さん」
「ん?」
「ありがとう」
顔は、見せられなかった。恥ずかしくて、後々笑われそうで……彼女ならきっとそんなことはしないとわかっているのに、意地になって見せられなかった。
だからせめて、お礼を口にした。
「お礼を言うのは、あたしの方」
そう言って橘さんは、部屋を出ていった。
廊下で、橘さんと香織が仲睦まじけに話している声がしていた。
俺は、ゆっくりと目を閉じていた。
向き合うこと。
橘さんに教えられた大切なこと。
あの日の俺は、それを怠り成り行きに身を任せて後悔をした。
深い深い、後悔をした。
失いたくないものを失って。
もう二度と会うことがないからと諦めて。
再会を果たして、もう一度かつての想いの強さを知って、そして……また失いそうになって、年甲斐にもなく、男らしくもなく……また、後悔をした。
あの日の後悔は、きっと……一生拭えないのだろう。一生、この後悔を抱えて、俺は生きていくのだろう。
……でも。
この後悔と向き合わないと、きっと俺はまた深い後悔をする。
後悔を繰り返さないように。
俺はきっと……乗り越えなくてはいけないのだろう。
「大丈夫」
……きっと、大丈夫。
あの日と違って俺は、向き合う勇気を手に入れた。乗り越える胆力も、育んだ。
……そして、隣には。
「今度また、お礼をしないとな」
俺は友人への感謝を胸に抱きながら、眠りに付いた。