熱
橘さんと一緒に初詣に行った日の翌日、俺はベッドの上でうなされていた。
昨日は結局、盛り付けた料理を床にぶちまけた後、俺と橘さんは残った料理を静かに食べた。家に来るまでの間、彼女とはたくさん笑いあったのに、最終的に冷ややかなムードにしてしまったことを、今更ながら俺は申し訳なく思っていた。
その後は、橘さんは帰ってきた香織と挨拶をして、俺を置いて二人で彼女の家までドライブに出掛けていった。その頃には俺の体調が優れなくなっていて、橘さんも俺も一緒に来ることを無理強いしなかった。
それで今日。
朝、いつもより少し遅い時間に起きたら、頭が割れるように痛くて、俺は天井を見上げたまま動くことが出来ずにいた。
雨に濡れたせいかしら。
その後すぐに起きて、俺がリビングにいないことに気付いた香織は部屋にやってきて、そんなことを苦笑しながら俺に伝えた。
どうやら昨晩、橘さんを送る時、昨日一日何があったかを聞いたようだった。
寝ていなさいと言って、香織は部屋を後にした。
それ以降はご飯時に雑炊を持ってくるくらいで、書斎に篭って仕事をしているようだった。
俺は、香織に寝ていろと言われたものの、中々寝付けずにぼんやりと目を開けて天井を眺めていた。
俺が今日熱を出したのは、雨に打たれたせいなんかじゃない。
それは明白だった。
じゃあ、何故俺が熱を出したのかと言えば……精神的ショックが影響しているのだろう。
橘さんから香織が家を明ける時、何をしているかを教えてもらった。それが真実かどうかはわからない。橘さんだってただ、憶測で物を語っただけなんだ。
でも、それを聞いた瞬間に俺は……路頭に捨てられた子犬のように、溢れんばかりの絶望感に駆られたのだ。
わかっている。
香織と俺は、かつて高校時代に別れた仲。
そして今は、親と息子という関係。
当時抱いたパステルピンクの俺の恋はとっくに終わりを告げられていて、今は異常事態により彼女と平凡に生きていくことを余儀なくされている。
それなのに今更、こんな気持ちに駆られるだなんて、間違っている。
……本当に、自分で自分が嫌になる。
こんな時には嫌なことを忘れるためにも眠ってしまおうと何度も考えた。しかし、目を瞑っても嫌なイメージばかりが浮かんで、中々眠れる気配はなかった。
熱にうなされたせいで精神的に参ってるだけと思いたかったが、二十年来の自分の思考がそうじゃないと警笛を鳴らしている気もした。
コンコン、と扉がノックされた。
また香織だろうか。
俺は、布団を被って寝たふりを敢行した。正直、今日はあまり……彼女と顔を合わせたくなかった。
「寝てるの?」
ただ、扉が開いた時に聞こえてきた声が、香織のものよりクールで聞き覚えがあったから、俺は布団から顔を出すことにした。
どうやら気付かぬ内に、我が家に一人の来訪者がやってきていたようだった。
「橘さん」
仰向けで寝転びながら視線だけ、俺は橘さんに向けた。
「鼻声だね」
「……熱、出た」
「まったく。雨に打たれてあたしが風邪引いたら困るとか言っていたのに、自分が引いたら世話ないじゃない」
「……ごめん」
「……ううん。こちらこそ、ごめん」
「え?」
「あたしがもう少し厚着して来て、あんたからマフラー借りなければ、あんたも風邪なんて引かなかったはずじゃない」
そう言えば昨日、着物だけで来た橘さんがくしゃみした姿を見兼ねて、俺は彼女にマフラーを貸してあげていた。
「……関係ないよ」
それは、彼女に自罰的な思考になるなと言いたかったのと、本当に、関係ないから出た言葉だった。
橘さんは静かになった。
ただ歩みは進めて俺のベッドの横までやってくると、俺の頭を数度撫でた。
何度か橘さんが優香ちゃんの頭を撫でてあげているところを目撃したことがあった。その時の橘さんはいつも、優しい笑みを浮かべていた。
ただ今俺の頭を撫でる橘さんは、悲痛な顔をしているように見えた。
「ごめん」
「あたしこそ、ごめん」
しばらく、二人でそうして謝り合っていた。
この謝罪の言葉は、お互いにお互いへ向けた言葉ではなかった。
俺は、彼女を悲しませたことを悔やむ自分を許すために。
橘さんは、俺からマフラーを借りた自分の軽率さを許すために。
互いに自分のために、俺達は謝罪の言葉を繰り返していた。
ただ結局、俺達は自分達のことを許すことは、出来そうもなかった。