雨
白い息を吐きながら、ようやく俺達は本殿にたどり着いて参拝を終わらせた。手を合わせながら願ったことは、自分の身が無事でありますように、とそんなことだった。
「何を願ったの?」
なんの気なしに、橘さんに尋ねられた。
「健康祈願、かな?」
まああながち間違いではない。
「そう。あたしと一緒ね」
「そうだったんだ」
「うん。お父さんもお母さんも毎日仕事が忙しいし、優香もまだ小さいし、毎日が心配」
「……そうだよね」
自分の体のことばかり考えていた俺と違う橘さんには感服するばかりだ。
「い、一応あんたの健康も祈願しておいたから。……それだけだから」
「あ、ありがとう」
優しい橘さんに、思わず顔が綻びそうになった。反面橘さんは、恥ずかしそうにそっぽを向いていた。
参拝をし終えた俺達は、しばらく神社内の屋台を巡ったりして時間を潰した。一体どこと提携しているかはわからないが、神を祀る場所であるはずの神社には随分とたくさんの屋台があった。
昼ごはんを家で食べてきた後だと言うのに、香ばしい香りにつられて少し小腹が空いてきていた。
「新年早々から、食い意地張ってるの?」
呆れているように、少しだけ楽しそうに、橘さんはクスクスと笑っていた。
「育ち盛りなんだから、仕方ないよ」
「もう。何か食べる?」
「大丈夫。夕飯まで待てるよ」
そう答えながら俺は、初詣の後何をするか、橘さんと決めていなかったことを思い出した。
橘さんはこの後、どうするつもりなんだろう?
妹も家族も、今日は彼女の家にいるはず。家族水入らずのためにもさっさと帰るのか。それとも、どこかに繰り出すのか。
「この後、どうしようか?」
橘さんに、気になっていた部分を尋ねられた。
「橘さんはどうしたい?」
「……甘酒を飲んで、御朱印をもらおうかな。お正月限定の御朱印もあるそうなの」
「へえ、御朱印集めてるの?」
「まだ全然だけどね」
「そっか。……じゃあ折角だし、色々な御朱印集めにこの後行く?」
「いいの?」
「大丈夫だよ。今日は、暇だし」
「……なら、付き合ってもらおうかな」
珍しく快活な様子で橘さんは言った。そんな橘さんを見ていると物珍しさから頬が緩みそうになる。そんな一幕を経て、体を温めるためにと俺達は甘酒を飲んでいた。体の内側から、少しずつ温もりを感じ始めた頃に、俺達はこの神社の御朱印をもらいに社務所に向かった。正月限定の御朱印を求めてか、社務所周りはたくさんの人が集っていた。数十分の時間を経て、橘さんはようやく御朱印をもらえたみたいだ。
「それじゃあ、移動しようか」
次の神社は、先程スマホで調べて決めていた。
ここにこれ以上残る用事もないし、俺はそう提案した。
橘さんは先程珍しく快活な顔を見せていた。しかし今俺が提案すると、意外と芳しい返事は返って来なかった。
橘さんは、空を心配そうに見上げていた。
「雨」
「え?」
手の平を空に向けていると、冷たい雨粒が当たる感覚が数度続いた。視界からも見えるくらいの雨粒が降り始めていた。
「今日の予報は雨じゃなかったんだけどね」
「どっかに雨男でもいたんじゃない?」
「誰のこと?」
「さあ?」
はぐらかすように首を傾げる橘さんは、とても可愛らしい。
そんな彼女の可愛らしさに絆されている内に、雨は一層強まっていく。
「これは、あんまり移動しないほうが良さそうだ。風邪引きそうだし」
「……えぇ」
残念そうに、橘さんは項垂れた。
そんなに楽しみにしていたのか。何だか申し訳ない気分だ。
「……この雨で傘なしで君の家にまで帰るのも風邪引くかもね」
「……うん」
「あの……下心があるわけじゃないんだけど、ウチに来る?」
本当に下心があってそんな提案をしたわけではない。
ただ……そう言えばいつか香織に、橘さんと会わせろと言われたことと、今朝の香織の態度を思い出して、ご機嫌取りでもしておこうと思ったのだ。
「いいの?」
「それはこっちのセリフだよ。……嫌かもしれないけど」
「そんなことないっ」
「うおっ」
こんなに食い気味な橘さんを見るのは、初めてだった。
「……あの、風邪引くかもだから。それだけだから……駄目、かな?」
頬を赤くした橘さんに言われると、悪いことでもする気になりそうになる。
いかんいかん。
俺はこれでも彼女より二十歳も中身は年上。いけないことをしたら、ただの事案になってしまう。
「大丈夫だよ。行こうか。あんまり雨に打たれると、本当に風邪引くかも」
「……あ、ありがと」
神社から我が家はさほど距離は離れていない。
数十分歩くと、自宅にはたどり着くことは出来た。幸い神社から帰ってくるまでの間、雨が強まることはなかった。
「お、お邪魔します」
緊張げな橘さんの声を聞きながら、俺は一足先に家の中に上がった。
「ただいまー。ただいまー?」
香織からの返事はなかった。
家に入る時、廊下とリビングに明かりが灯っていないことは確認していた。
また、どこかへ出掛けたのだろうとすぐに気付いた。
「どっかに行ってるみたいだ」
「……そう」
家に来たいと言った橘さんだったが、香織と会うのには少し緊張していたらしい。香織がいないことを知って、安堵しているような、少し残念がっているように見えた。
「シャワー浴びて来なよ」
「え?」
「……着替えは用意しておくから」
あくまで、橘さんに風邪を引いてもらいたくなくて、提案しただけだ。ただ橘さんは、変に意識してしまっているように見えた。
橘さんに風呂場の場所とタオル類が詰まったカゴの場所を教えた。
「着替えは……嫌かもしれないけど、俺の学校のジャージでいい?」
恐る恐る橘さんにジャージを手渡すと、一旦ジャージに顔を押し付けて、匂いを嗅いでいるようだった。匂いを確認するくらい嫌だったのかと思ったが、その後は普通にジャージを受け取った。
「大丈夫?」
「何が?」
どうやら大丈夫らしい。
俺は脱衣所を出て、橘さんが風呂から上がってくるのを待った。そう言えば橘さんは着物を着ていたが、あれはどうしたのだろうか。脱いで……折角なら先に受け取ってハンガーにかけた方が良かったかもしれない。
いやでも、そんなことしたら変態だって殴られそう。
じゃあ橘さんが出てきてそれを持ってくるのを待つしかない。背に腹は代えられない。
しばらくすると、脱衣所からドライヤーの音が聞こえてきた。
「お風呂、ありがとう」
橘さんは手渡していたジャージを着て、髪の毛を下ろしてリビングにやってきた。
高校生の時、何度か当時恋人だった香織を家に泊めたこともあった。その時、今回のように自宅のお風呂を貸したこともあったんだが、ここまでイケナイことをしている気分になったことはなかった。
中身の年齢差があるからだろうか?
「あんたもシャワー浴びてきたら?」
「そうする」
少し居た堪れなくなって、俺はさっさとリビングを出ていった。
そうして、頭を冷やすように温かいシャワーを頭から浴びた。気持ちを落ち着かせて、しばらく経った頃に風呂を出た。
「おまたせ」
「ん」
橘さんは、居心地が悪いからかソファの隅で縮こまっていた。まるで借りてきた猫。そんな様子を見ていると、いつもの彼女らしくなくて笑いそうになってしまった。
「……落ち着かない?」
「そ、そんなことは……ちょっとある」
あるんかい。
「そう言えば、ウチに呼ぶのは初めてだったね。あんなに君の家には行かせてもらってたのに」
「……あたし、あんまり人の家に行くの、好きじゃないの」
「なんで?」
そんなことを尋ねながら、俺は橘さんと同じソファに腰を落とした。
「……あたし、いつも家で何かしらの作業をしているから。掃除とか洗濯とか。好きでやっているから、別にいいんだけど。……とにかく他人の家だと、いつも家でしていることが出来ないから。ちょっと嫌」
「……じゃあ、掃除する?」
「いいの?」
「いやいや、乗っからないで。大丈夫だから。ちゃんと毎週、掃除してるよ」
「……そう?」
ソファから立ち上がった橘さんは、テレビ台をスーッと指で撫でた。
「ホコリあるけど?」
「大掃除したばかりなんだけどなあ」
「……まあ、人の家のこと、とやかく言っちゃ駄目よね」
掃除したい気持ちを抑えるように、橘さんは再びソファに腰を落とした。
「……雨も止まないし、親も帰って来ないし、ゲームでもして待ってる?」
「……それより、そうだ」
橘さんは思い出したように立ち上がった。
「仏壇は、どこ?」
「え? ……ああ」
そう言えば、いつか橘さんには伊織という少年の父親が亡くなっていたことを教えていた。
仏壇の場所を教えると、橘さんはそこに正座して、手を合わせた。
「お父さん、本当に……その、亡くなってたんだね」
仏壇の中で笑う伊織という少年の父の写真を見て、橘さんは呟いた。
信じていなかったわけではないのだろう。むしろどちらかと言うと、信じたくなかったというのが、正しいのかもしれない。
「……記憶、早く戻るといいね」
「うん」
優しく微笑んだ橘さんに頷いて、俺は彼女の自室のある二階に案内した。ゲーム機は自室にしかないからだ。本当、それだけだ。
ニンテンドー○4を見せると、橘さんは「ふるっ」と言って笑っていた。
さっき、寂しそうな彼女の顔を見ていたから、笑顔の橘さんを見れて安心した。
そんな調子で俺達はマリ○パーティーをし、暗くなって来た頃に夕飯を食べるために一階に降りた。
雨はまだ、止みそうもない。
「夕飯、食べて行きなよ」
「……でも」
「いいから。親が帰ってきたら、車で送ってもらうように言うよ」
「……わかった」
橘さんのご両親には、彼女の電話から彼女に直接状況を伝えてもらった。
電話をしている間、俺は一人で夕飯の支度をしていた。
「料理、出来たんだ」
電話が終わった頃、橘さんは言ってきた。
「そうだよ。意外?」
「……そうでもない」
「そっか」
その後は、橘さんにも料理を手伝ってもらった。
俺よりも家事に慣れた彼女のおかげか、すぐに料理は完成した。
「……それにしても、お母さん、帰って来ないね」
橘さんに言われた。
「そうだね。一体、どこほっつき歩いてるんだろう?」
「あんたも知らないんだ」
「うん。前も何も言わずに家を明けることはあったんだけど、その時は聞いても何も教えてくれなかった」
「……それって、もしかして」
「え? 何か心当たりあるの?」
意外だった。
俺でも、今香織がどこに出掛けているかは見当がついていないのに、橘さんにはその当てがあるというのか。
食い気味に尋ねると、橘さんは少し驚いたように目を丸くしていた。
ただすぐに調子を取り戻して、真剣な眼差しを一瞬向けたが、すぐに俯いた。
「……正しいかは、わからないけど」
言いづらそうに、橘さんは口を開いた。
「息子であるあんたにも言えないような場所って、一つしかなくない?」
「と、言うと?」
「……この前まであんたは昏睡状態で、目が覚めた後は記憶喪失。相当ショックな過去があったからか、先生にまで手引して箝口令を敷いて……あんたのお母さん、相当あんたに気を遣っている」
「……それは、わかってる」
「だから、今言っている場所がどこかあんたに言わないのも、あんたにショックを与えないようにするためなんじゃないの? 今、ようやく落ち着いてきたあんたが取り乱さないように、計らっているんじゃないの?」
……つまり、橘さんが言うには、今香織が行っている場所は、俺が知ったらショックを覚えるような場所。
「……今あんたのお母さん、その……未亡人ってことになるんだよね?」
そこまで言われて、察しの悪かった俺もようやく橘さんの言わんとしていることを理解した。
夫が亡くなり未亡人となった香織の年齢はまだ三十代。
息子はもう高校生で、大学生になれば下宿先に行くかもしれない。そうじゃなくても香織はこの前まで……実質、一人ぼっちだったのだ。
その香織に浮ついた話の一つや二つが合っても、何らおかしくない話じゃないか。寂しい気持ちを埋めるため、男を作ろうと思ってもおかしな話ではないじゃないか。
……いいや。
いいや、違う。
香織に限って、それはない。
……だって香織は、息子との……伊織という少年との再会を心から喜んでいたではないか。
今は恋人を作ることより、息子との時間を大切にしたいと思うのではないか?
……でも、再会したその日に、俺は思ったはずだった。
少し、年相応に皺は増えていた。
髪の色も、変わっていた。
でも、当時のまま、綺麗で、優しくて、面倒見の良いままだった。
高校生の時に出会ってから、香織はずっとたくさんの人の中心にいた。頼れる彼女を皆頼り、慕い……好意を持たれることも少なくなかった。
それは多分、かつてのように今も変わらないのではないのか?
……綺麗な彼女に手を出したい男は、ごまんといるんじゃないのか?
気が動転して、俺は料理を盛り付けた皿を手から滑らせていた。
ガシャンと言う音が鳴って、俺は自分がしでかしたことに気がついた。
「ごめん」
「だ、大丈夫?」
橘さんは布巾で料理を拾い上げながら、俺の身を案じた。
ただ、どう見ても今の俺は、大丈夫ではなかった。
「……まだ、あたしの憶測でしかないよ?」
「……うん」
わかっている。
橘さんの話はあくまで仮定で、それが真実とは限らないことも、わかっている。
なのに、手の震えが止まらない。
皿の破片に不用意に触ってしまい、俺は人差し指の先から真っ赤な鮮血を滴らせた。
痛みはなかった。
ただ、心は痛かった。
何度も何度も思ったはずだった。
高校時代、香織とは円満に別れた。その後、香織が死別した夫と結婚したことも教えてもらっていた。
つまり別れた時点で、俺達の関係は、最早ただの赤の他人でしかなかったはずなんだ。
なのに、俺はまだあの日のことを引きずっている。
あれが、偽りなんじゃないかって。夢だったんじゃないかって。ありもしない絵空事を描いて、現実から目を逸している。
……でも、何度も何度も現実を無理やり直視させられて、その度に心を痛めてきた。
その度に思ってきた。
本来、思ってはいけないことを、思ってきた。
そう思うのはお門違いだとわかっているのに、被害者意識は止められず、女々しく考えては自己嫌悪してきた。
……また。
また、君は……俺を見捨てて行くのか?
橘さんに手を掴まれて、水道水で指を洗われながら、頭の中はどす黒い感情が洗われることなく、むしろドンドンと蔓延っていった。
3章終了です。話数のキリを良くしたくて、ちょっと巻き気味になってしまった。
円満に別れたくせにこの男は元恋人のことを引き摺りすぎてある。それを補完していかないとイカンと思われる。補完するとは言ってない。
今後の励みにもなるので、ブクマや評価、感想をよろしくお願いします。
ちょっとずつ日間順位が落ちつつあり、苦しいどす…。