お誘い
夜道、いつもよりも人が多い道を橘さんと二人で歩いていた。
最初は悪いと思っていた夕飯を一緒に食べるこの行為も、少しずつ罪悪感が薄れるマインドコントロールのように、最近では当たり前になりつつある。
「今日の夕飯は何?」
「シチュー」
ダウンジャケットを羽織り、厚手のマフラーを首に巻く橘さんの吐く息は、真っ白だった。
和食の多い橘さん宅の夕飯だが、今日はクリスマスということもあってか洋食だった。
「そっか。楽しみだ」
「ん」
「こんな寒い中、わざわざ迎えにこさせてごめんね?」
「別に」
「今日は、ご両親はいらっしゃるの?」
毎週のように彼女の家で夕飯を食べている癖に、俺は未だに彼女のご両親と顔を合わせたことがなかった。毎日毎日、彼女のご両親は仕事で遅い時間に帰って来られる。
本当は、娘の男友達として会うだなんて胃が痛いから嫌だったが、ここまでお世話になっている今、一言お礼を直接言わないのは失礼だと思って、最近では毎回こんな感じに橘さんにご両親が家にいるか尋ねる日々を送っている。
「いない。まだ仕事」
「……そっか」
クリスマスだと言うのに、本当に忙しい人達だ。
と思いつつ、かつての俺もクリスマスは特に関係なく仕事に明け暮れていたことを思い出して、乾いた笑みがこぼれた。
町工場のような中小企業に勤めていた時は、その会社が所謂ブラック企業というやつだったこともあって、毎日忙しない日々を送っていた。
ただそんな時間も俺は嫌いではなかった。仕事をこなしてステップアップしていく感じはモチベーションにも繋がったし、早く帰ってもやることがなかったから多少の忙しさはむしろ都合が良かった。
「そんなに親に会いたいの?」
「うん。お礼の一つくらいはね。いつも君に、本当に色々お世話になっているから」
「……あっそ」
橘さんは、厚手のマフラーをたくし上げてて、頬までをマフラーで隠した。
「寒い?」
「……別に」
そっぽも向かれれば、これ以上の心配は不要だろう。
無言で俺達は歩きあい、ビル群を抜けて、景観は住宅街になりつつあった。ここまで来れば、橘さん宅はもうすぐだ。
「……そんなに、あたしにお世話になっていると思ってるんだ?」
「え?」
とんでもない時間差で尋ねられ、俺は変な声が漏れた。
慌てて橘さんを見ると、熱視線を寄越されていたにも関わらず、視線がかち合った途端に目を逸らされた。このくらいの年頃の子は、感情は複雑で中々理解が出来ない。
「そうだね。そう思ってる」
ただ、お世話になっていると思っていることは間違いなかった。
「ありがとう」
そうお礼を口にすると、
「……じゃあ、お願いがある」
橘さんは珍しいことを口にした。
お願い。
橘さんにそんな風に頼られるのは、いつ以来だろうか?
優香ちゃんの好き嫌いを解消させたいとか、そんなこと以来な気がする。あの時以降は、ずっと俺の問題解消をさせるために色々手伝ってもらってきていた。アルバイトの件だって、その一環だ。
まあ、頼られたのがいつ振りかなんてそんなことは、どうでも良いことだった。
「何?」
色々お世話になってきた。だから俺が彼女のお願いを聞かないという選択肢は、ありえなかった。
橘さんは、お願いをしたいと口にしたものの、俺の問いかけに中々返事をすることはなかった。
目まで隠れるんじゃないかってぐらいマフラーをたくし上げて、視線は右往左往していた。
「……また、優香ちゃん関連のこと?」
俺の問いに、橘さんは首を振った。
「じゃあ、学校のこと?」
勉強……は、彼女の方が出来が良い。であれば、交友関係とか?
橘さんは、首を振って否定した。
では一体、橘さんの悩み事は何なのか。
宛がなくなり、俺は言葉に詰まった。
「……三が日は、さすがに両親も仕事が、休み」
クリスマスが終わればすぐに正月休みがやってくる。
なるほど。確かに正月休みは、俺だって休みだった。
「そっか。じゃあ、そこで一言年越しの挨拶も兼ねて、お邪魔させてもらおうかな?」
「いい」
「え?」
「……来なくて、いい」
真正面からこうも否定されるとは思っていなかった。俺は困惑しながら、橘さんを見ていた。
「一緒に、初詣に行こ?」
「……初詣?」
「そう。その日は優香の面倒も、親が見てくれる」
意を決したように、橘さんは俺に視線を寄越した。
「だから……二人で、初詣に行こ?」
橘さんからお願いと聞いて、真っ先にまた何か問題事の相談だと思った。
でも、そう言えばお願いって、何も問題事の解決のためにするだけのものじゃないよなって、今更俺はそんな当然のことに気付かされた。
「わかった。行こうか」
断る理由はなかった。
むしろ誰かと一緒に初詣に行くだなんて久しぶりで……今から楽しみだった。
「……ん」
マフラーで顔を隠しながら、橘さんは歩調を速めた。
何か良いことでもあったのか、いつもより歩きながら腕を振る力も漲っているように見えた。
そんな彼女に可愛らしいなと微笑みながら、俺は彼女の少し後ろを歩調を速めて歩いた。