経理の仕事
古書店で経理のアルバイトを始めて数週間。高山さんからもらった大量の領収書を確認しながら、橘さんのご両親から借りたパソコンを使って、俺は今日仕事に打ち込んでいた。
「仕事熱心ねえ。斎藤君は」
呆れているような褒められているような、感情の起伏の薄い声が、座敷の向かいで仕事をしている高山さんから漏れ出ていた。
最近では、学校も冬休みに突入して暇になり、俺は休日返上し古書店に遊びに来ていた。勤務日以外のお給料は請求していない。
「若いんだから、もっと遊んだらいいじゃない」
しかし高山さんは不満げ。
「遊ぶにも、お金がいるでしょう?」
俺は作業の手を止めて、高山さんにそう指摘した。そもそも俺がこうしてアルバイトに勤しむ理由は、金稼ぎのためである。
最終的に貯めたお金を遊ぶために使うかはわからないが、高山さんの言葉への否定にはもってこいだった。
「まったく。美玲もそうだけど、あなた達、学生の本分をすっかり忘れているわよね」
「学生の本分……。勉強はしっかりやってますよ?」
「ちっがーう! 学生の本分って言ったら友達と遊ぶこと! そしてデート! そんな青春を送ることでしょう」
「声高らかに何言ってんだ、まったく……」
呆れたため息を吐いた頃、休日返上での作業をこなした成果が伴い始めた。
「終わったー」
凝り固まった肩を解すように肩を回しながら、俺は溜まっていた領収関連のデータ入力が完了したことを一人喜んだ。
「……お疲れ様。その、しゅーし表だっけ?」
「そうです。収支表」
橘さんのご両親からお借りしたノートパソコンには、オフィス関連のソフトが一通りインストールされていた。それを使って俺は、一人経理の仕事をするための表を作成した。
これまで数年単位の領収書を高山さんからもらうと、それを年月日に分けてデータ入力し、ソート出来るようにした。
それが、俺が作った収支表だ。
「まあ収支と言っても、詳細まで分かる情報はほぼ支出だけですけど。経営状況を好転させるには、支出を抑えることが必要不可欠です。まずは毎月の支出を見て、傾向を知るべきです」
単純に、支出が大きい事柄を改善すれば経営状況は改善していくことになる。データをまとめて傾向を知って、そうして対策を講じる方が、無鉄砲に行動を起こすよりはるかに効果的だ。
「そうねえ。さすがだわ、斎藤君。面倒くさくてあたし、そういうの出来ないんだよねえ」
「まあ、経理の仕事をみみっちいって言ってましたもんね。……よくそんな経営で、今日までまかりとおっていたもんだ」
「本は好きだからね。流通性、話題性だったりを読みながら売値を決めてたら、何とかなった」
エヘヘと笑う高山さんに内心、本の虫だな、と呆れるばかりだった。
高山さんは、古書店経営者であることも関係あるだろうが、本の虫という俺が今勝手に付けた異名通り、本の情報に深く精通した女性だった。一番詳しいのは、六十年代の純文学関連のことだろうが、最近の書庫や、雑誌類にも彼女は結構詳しかった。最近ではカルト系にまつわる情報誌を読み漁っているそうだ。
「それにしても、よく収支表なんて作れるよね。悪口で言ったわけじゃないよ? 高校生なのによく思いついたよなあって」
「……まあ、親と同期されている家計簿アプリをやってますからね」
「へえ、過干渉な親なんだ」
高山さんは苦笑して続けた。
「それとも、君が散財家? そう言えば、遊ぶにも金がいるってアルバイトを始めたんだもねえ」
「……そうですね」
深堀されるのは面倒だったので、さっさと認めてこの話を打ち切ろうと思った。
しばらくぶつくさと高山さんの愚痴を聞きながら、俺は集めたデータを見て物思いに耽っていた。
「何かわかった?」
高山さんに尋ねられた。
「ええ、そうですね」
俺はノートパソコンの画面を高山さんに向けた。いくつかのグラフが、オフィスソフトを開いた画面に広がっていた。
「これは、ここ三年毎月の支出を示したグラフ。こっちは、先月の支出の細分表です」
「ほへー」
面白いものでも見ているように、高山さんは目を輝かせてマジマジと画面に魅入っていた。
高山さんの初めて見たかのような反応。経営具合が赤かどうかは、高山さんは毎月の通帳への記帳で判断していようだ。先月より増えていたら黒。減っていたら赤。だから、統計を取って傾向を見るという考えに至ったことは多分なかったのだろう。
「どんな理由があるかはわかりませんが、どうやら本の売上が落ち込むのは二月と八月に集中するみたいですねえ」
「そう言えば、四半期の最終月は、来期のドラマとかアニメとかへの期待が高まって、それに関する書物がよく売れるね」
「二月と八月は、四半期の丁度真ん中。人々の期待も中だるみする時期ってことですかね?」
「どうだろう? ただ、その時期に採算が微妙なのは体感で一致する。後、このグラフだと売れ行き好調なのは……やっぱり、秋口」
「読書の秋って言いますしね」
因果関係は不明だが、そういう時期って言われているからこの時期は本を読もうって考える人も少なくないだろう。
ただまあ、売上に対する見解はこれ以上は出せそうもない。高山さんは、通帳から毎月の売上額を俺に教えてくれただけだから、どんな本がその時期によく売れたのか。逆に不調になるのか。そこまではわかりようがなかった。
もしかしたら高山さん自身、そこまでの詳細は把握出来ていないのかもしれない。
「まあ今日は、売上対策の話ではなくて支出を抑える対策の話なので……。本題に入りましょう」
そう言って俺は、もう一つのグラフ。先月の支出の細分表を指さした。円グラフになったそのグラフで、おおまかな割合が確認出来た。
「一番の支出はテナント代。次が電気代。その次が経費。まあ本の購入費とかですね」
「なるほどぉ」
「これらの結果を見て、どうやって支出を抑えるか検討しましょう。と言っても、テナント代はなんともならないし、手っ取り早く対策するなら電気代かな」
じゃあどうすれば電気代を抑えられるか。
真っ先に、俺は轟音を鳴らす古めかしいエアコンを指さした。
「あれ、切っちゃ駄目ですか?」
「あー、あれだけは駄目」
「どうして?」
「本の管理環境を整えるため」
なるほど。
ただ夏は涼みたい。冬は温みたいという気持ちで毎日エアコンを稼働させていたわけではないのか。俺は感心していた。
「じゃあ、設定温度を一度下げましょう」
「えー、寒いよー?」
「……感心した心を返せ」
目を細めながら、俺は次の策を考えた。
「次は、電球をLEDに替えましょう。今丁度切れかけだし、電気代への削減にも繋がるし、店内の景観的にも、明るさが増していいと思います」
「ほー」
「後、昼間は座敷の電気は消す。カウンターで仕事をしてください。座敷の方が楽なんでしょうけど、向こうにだって椅子はあるしカウンターが机代わりになる」
何だか小姑のような、重箱の隅をつつくような指摘ばかりだな、と思った。
同じことを高山さんからも思われていたのか、高山さんは少し顔を引き攣らせていた。
「……まあ、電気代はまずこれくらいで様子を見ますか」
「まだあるの?」
「はい。というか、これが一番、気になってる」
「何?」
「そのお菓子です」
俺が高山さんを座敷から離したいのにはもう一つ理由があった。ちゃぶ台の上に置かれたお菓子の袋。経費に計上したあれも、立派な支出だ。
「業務中はお菓子禁止で」
「そ、そんな殺生な……!」
今日一番、高山さんの顔が悲痛なものになっていた。
「じゃあ、せめて一日せんべい一枚まで」
「一枚だけ? たった一枚? ……一枚って、せんべい一枚って意味だよね?」
「そんな取り乱します?」
どんだけせんべいに執着しているんだ、この人は。
そう言えば面接の時、この人はせんべいを食べ終わるまで俺を待たせていたな。
「無理。それだけは絶対無理」
「……領収書に交じっていたレシート類の山。あれを数えさせられたこっちの身にもなってくださいよ」
「うぅぅ……」
「毎週のようにスーパーに通って色んな種類のせんべいを買って……濡れせんべいの値段を入れている時、頭がおかしくなりそうだった」
「お願い! それだけは。それだけは……」
そんなに譲れないものなのか。取り乱し続ける高山さんを見て、俺はただ驚いてしまった。
まあ、嗜好品を奪われることほど辛いことはないしな。こんな、本当に家計簿を付けている主婦のような細かな指摘は、やりすぎだと言われても仕方のない話だ。
ただ……俺がせんべいを控えるように言ったのは、何も支出を減らすためだけではない。
「……太りますよ?」
「減らします」
即決即断。
割り切り良い高山さんに、俺は頭を抱えてため息を吐いていた。
最初からこっち方面で詰めればよかった。俺は僅かな後悔を抱いた。