アルバイト
期末テストの返却日、柄にもなく緊張しながら俺は時間を過ごしていた。英語の授業から始まって、今日の授業はテストの返却とテスト内容の復習に終止した。つまるところ、学生達の興味関心は一番最初のテストの返却に偏る。
「斎藤」
教壇の先生に呼ばれて、俺はテストを受け取りに向かった。
次の授業。そして次の授業でもテストを受け取って、最終的に俺はテストの点数に視線を落として笑みをこぼした。
「じゃあね、橘さん」
最近では、毎日のように橘さんの家にお邪魔するようになっていたのに、今日は用事があると言って、俺は一人帰路に就いた。
目標としていたのは、五教科合計四百五十点。それくらいの点数を出せれば、香織も勉強に関して文句を言えず、渋々ながらアルバイトの許可をくれるだろうと思っていた。
その目標に対して、今回の俺のテストの結果は、五教科合計四百七十九点。
「橘さんの手腕に感謝だ」
そう呟きながら、そんなめでたい日に彼女の誘いを断ったことに罪悪感を覚えた。明日は、彼女の家にまた遊びに行こう。そう心に誓った。
ただ今日は、一刻も早くこの結果を香織に見せたかった。そして一刻も早く、アルバイトを始めてお金を工面したかった。
「ただいま」
随分と久しぶりに学校帰りに直帰して、俺は僅かな懐かしさを覚えながら帰宅を告げた。
廊下は、明かりが灯っていなかった。
香織はフリーランスの翻訳家を営んでいる。彼女が家を出ることは滅多にない。でも、この時間にはいつも廊下には明かりが灯っていたのに、今日はそれがない。
寝ているのだろうかと思って、書斎に足を運んだ。
しかし、扉を開けるといつもそこにいる住人はおらず、廊下と同様、こちらも明かりが灯っていなかった。
「出掛けたか」
先日、香織から独白混じりの彼女の旦那との馴れ初め。そして、俺との思い出話を語ってもらった。
あれ以来、内心には複雑な感情が宿ったが、特別彼女の前でその気を出すことは一切しなかった。いつも通り。それを心掛けて、生活してきた。
いつも今でも、時々、自分がまだ香織の隣に立つチャンスがあるのでは、と思う時がある。
でも俺はそれと同じだけ、そんなことがないことを知っていると、自罰的に首を振る。
先日の香織の独白は、心にナイフを突き刺されたと思うくらい、迫るものがあった。でもそれは、結局いつもの自罰的な思い出しの延長線でしかなかった。
だから、意外にも俺は、あの日のことを引きずってはいなかった。少なくとも自分では、そう思っているつもりだった。
……そんな理由もありいつも通りに接していたのに、こうして何も言われる間もなく出掛けられるのは、少しだけショックだった。
最近では橘さんの家に寄ってから帰ってくることも多くなった。だから、帰って来ないと高を括られて出掛けられたのか。
とにかく、一念発起したにも関わらずお預けを食らうのは、嫌な気分だった。
とはいえ、当人がいないのでは仕方ない。
俺は夕飯でも作って待っているかとキッチンへと移動した。冷蔵庫の中を覗くと、食材はたくさん敷き詰められていた。
チャーハンでも作ろうと思って、卵とベーコンを冷蔵庫から取り出した。
卵を混ぜてフライパンに油を引いて、卵を注いで、そんな調子で料理をしていたら意外と急いてた気持ちは落ち着いた。
「ただいま」
香織が帰って来たのは、チャーハンが完成してから随分と時間が経った頃だった。小腹が空いてきて、香織もいないが温かい内に食べたいと邪な感情に俺が囚われた、そんな頃だった。
「あ、いい匂い。チャーハンだ」
無邪気に、香織は言った。
「ごめん。先に食べてた」
「いいよー。あたしこそ、帰りが遅くなってごめんね」
尋ねていいものか。
ただ、自分から話題に出している分には大したことではないのだろうと思ったから、俺は尋ねることに決めた。
「珍しいね。こんな時間までお出掛けなんて」
「そうね。さすがにちょっと疲れたよ」
「へー」
ゴクリ、と俺が生唾を飲み込んだ。どうしてこんなに緊張しているのかは、わからなかった。
「どこ行ってたの?」
「んー?」
いつも通りに、香織は少しだけ楽しそうに続けた。
「内緒」
「……そっか」
一瞬、俺は口に含んだチャーハンの味がわからないくらいに取り乱しかけた。邪な感情に囚われかけた。
俺に言えないような場所に行っていたのか。
錯乱して、そんな嫉妬に満ちたことを思っていた。
普通に考えれば、俺ではなく、伊織という少年に向けて言えないような場所に行っていたってことのはずなのに。すぐにそんなことにも気付かないくらい、俺は嫉妬深く、気持ち悪く取り乱しかけた。
さっきは全然、先日のことは引きずっていないと思っていたのに、どうやらそんなことはまったくないらしい。
ため息を吐いて、俺はキッチンに向かった。
「チャーハン、どれくらい食べる?」
「少しでいいよ。最近、食欲が減ってきてね。年かな」
「四十前の癖に何言ってんの」
アハハと香織は笑って、着替えに向かった。
その隙に、俺は自分用にお皿に盛っていたチャーハンを平らげた。そそくさと移動して、テスト用紙を取り出して、香織のチャーハンの隣に置いた。
「あら、なにこれ?」
「テスト結果」
「ああ」
戻ってきた香織は、準備の良い俺に感心しながらテスト用紙を手に取った。ペラペラと紙をめくり、香織は驚いたように目を丸くした。
「あなた、凄い良い成績じゃない」
「そうでしょ? 橘さんに勉強教えてもらった甲斐があったよ」
先日、俺はついうっかり香織に橘さんの名前を出してしまった。あの時は橘さんとの関係に付いて根掘り葉掘り聞かれたものだが、今となれば色々なことの説明を省くために敢えて彼女の名前を、香織に向けて発信するようになった。
「へー。本当、前から何度も言っているけど、今度ちゃんとお礼したいから、ちゃんとウチに連れて来てよ?」
「勿論。俺だってお礼がしたいんだから。……ただ、妹のお世話もあるから、中々都合が合わないんだ」
「若いのに大変ねえ」
話が逸れた。
「それでさ。今回ようやく、高得点を取れたわけなんだけど……」
俺は、そう前置きをしてアルバイトの承認を早速香織に取ろうと思っていた。
ただ、香織にとっては言わずとも俺の意図は通じていたらしかった。
「わかった。アルバイト、許可するわよ」
度々、宛もなくアルバイトをさせてと迫った時があったからか、香織は少し呆れたようにそう口にした。
努力が報われて、俺は香織にバレないように安堵のため息を吐いていた。
「……そう言えば、どんなバイトをするか決めてるの?」
「いや、それはこれから。決まったらちゃんと連絡する」
まずはテストで結果を出すことが第一目標で、アルバイトに何をするかは、時給を見ながら決めようと思っていた。
「そうして。……応援しているから」
「ありがとう」
微笑んで、俺は香織からテスト用紙を受け取った。
「これ、片付けてくる」
「うん」
テスト用紙を片付けに、俺は二階の自室に向かった。
それなりに時間がかかったアルバイトも、ようやく承認を取り付けることが出来た。
いつもなら手放しに喜びそうなのに、気持ちが乗ってこない。
……女々しい自分が、俺は嫌いだ。