慰め
翌日、色々な感情が渦巻く中だったが、いつも通りに学校へ向かった。精神が乱れてもいつも通りの行動をこなせるようになったのは、社会人時代になってから。あの時はほぼ毎日、嫌なことが続く日々だったから、明日会社行きたくない。死んだらいくらかマシになるだろうか。そんなことを考えるのは日常茶飯事だった。
そんな中でもいつも通りに会社に通う内に、嫌だったこともなんだかんだ片付くし、俺の人生も思ったよりは悪くないとそう思うことが多かった。だから、結局なあなあで生きてこれたわけだ。
そんなかつての経験則を以て、今日も平穏無事に学校へとやってこれた。
いつも通りに朝のショートホームルームを終えて、午前中の授業も終えて、昼休みの時間はやってきた。
「ねえ」
食堂に行こうと思った時、声をかけてきたのは橘さんだった。
「どうしたの?」
「食堂行こ」
簡素に、いつも通りに、橘さんは俺に言った。
「わかった」
微笑んで同意しながら、そう言えばこうして昼食を彼女と一緒にするのは、いつかの痴漢が遭った日以来だってことを俺は思い出した。
食堂にたどり着くと、弁当持参の橘さんに席を取ってもらっている内にうどんを注文した。それを受け取って、橘さんはどこかとチラホラ探して、まもなく俺は彼女を見つけるのだった。
「ごめん。待った?」
「別に」
隣に座ると、橘さんは風呂敷を開けて弁当を食べ始めた。
それに続いて、俺もうどんをすすり始めた。
「珍しいわね。寝坊だなんて」
「ごめん。以降気をつけます」
今朝、俺は最近はいつも一緒になって橘さんと登校していたのに、それをサボった。理由は寝坊。
一度一緒に登校すると宣言した身、さすがに申し訳なくて俺は謝罪した。
「別に。体調崩したとかじゃなくて、安心した」
「ありがとう」
そう言ってくれるのは、素直に助かったから、俺はお礼を口にした。
それから俺達は黙ってご飯を食べていた。食堂は若さ滾る学生達で騒がしいことこの上なかったが、橘さんが隣にいるこの空間は不思議と居心地は悪くなかった。
「ご馳走さまでした」
俺達は手を合わせてそう言った。
「それで、昼食を誘った理由は何かな?」
そろそろ本題をと思って、俺はそう切り出した。
「……今朝、また優香の嫌いなものを出してみたの。しいたけ」
「うん」
そう言えば、橘さんと優香ちゃんの嫌いな食べ物を克服されるにはどうすればいいか、と昨晩は二人で悩んでいたことを、俺は今更思い出した。あの後、香織に相談を持ちかけて別の話に精神を乱されてしまい、すっかりと頭から飛んでいた。
「何とか食べてほしくてね。あたし、昨晩のあんたとの会話を思い出してたの」
「……うん」
無理難題を吹っかけたことを思い出し、思わず口も重くなった。
「あの子、何とか今朝、しいたけを食べれたの」
「……え」
「え?」
「ああごめん。きっと駄目で、それで今後どうしようかの相談かと勝手に思ってた」
橘さん、深刻そうな顔をしていたから。勝手にそう解釈してしまっていた。思えば橘さんが難しい顔をしているのはいつものことだった。
失礼なことを考えていると悟られたのか、軽く頬を叩かれた。
「ごめん」
素直に俺は謝った。
「ん」
「それにしても、何を言ったの? よく上手く行ったね」
素直な疑問をぶつけると、橘さんは頬を染めて俯いた。どうやら、俺には言い辛いことらしい。
しばらくして、橘さんは口を開いた。
「……しいたけ食べられたら、あんたがまた家に来てくれるよって言った」
「……俺が?」
それが一体、どうして優香ちゃんがしいたけを食べることに繋がるのか?
俺は首を傾げた。
「優香、すっかりあなたのこと気に入ったみたい」
「それは……」
素直に、喜んでいいことなのだろうか。
俺は正直、困惑していた。
「……勝手なこと言ってごめん。でも、あの子の嫌いなもの克服のためにも、これからもウチに来てくれないかな?」
恥ずかしそうに、橘さんはまくし立ててそういった。
……正直に言えば、悪い話ではなかった。橘さんには勉強を教えてもらっているし、優香ちゃんと一緒にゲームをしているのだってつまらない時間ではなかった。
むしろ、少し家に居づらくなったことも鑑みて、その話は非常に魅力的に思えた。
そう思えた。
なのに、二つ返事を出来なかったのは……俺はまだ、自分の奥底にある醜い気持ちに整理が付いていなかったからだった。
「……迷惑だった?」
橘さんの今にも消えそうな声が、心を揺さぶった。
「迷惑だなんて、とんでもない」
だからか、俺の声は荒れていた。
しばらくして、心を落ち着かせて、俺は続けた。
「……むしろ、俺に入り浸られて困るんじゃなかって。そんなことばかり考えていた」
それが、俺が二つ返事を出来なかった理由。
醜く、かつての思い一つ清算出来ていない俺に関わるのは、彼女達にとっても利はないと思えて仕方なかった。
ゆっくりと橘さんを見た。
気持ちは変わっただろうか、とそう思って、ゆっくりと……彼女の顔を確認した。
橘さんは、目を丸くしていた。
思わずこちらが恥ずかしくなるくらい、何を言っているんだ、と顔に書いて、俺を見ていた。
「……あたし、高校辞めようかなって、一時期本気で悩んでた」
「え?」
それは、あまりに突拍子もない話だった。
「毎日がつまらないし、クラスでは浮いた存在になるし、女の子から目の敵にされるし。良いことなんてひとっつもなかった」
橘さんは、柄にもなく熱い口調で続けた。
「でも、最近ではもう少しくらい、続けてもいいかなって思い始めてる」
「……それは、どうして?」
「あんたがいるから」
俺は、何も言えなかった。
「……したくもない校外活動で、区役所で説明することになった時、不安げな前日にあんた、あたしに言ったよね。『俺がいる』って。格好つけすぎって内心思った。でも不思議と、あれ聞いたら安心出来たの。で、区役所の説明もなんだかんだまとまったのを見て、あんたと良い結果を出せたことを分かち合えて、悪くないって思えた」
あの時は、打算的な意図を持って橘さんにそんなことを言った。褒められることでは決してない。他のことだってそうだ。物事にはリスクリターンがあると昨日言ったが、それは俺の今までの行動だって全部そうだった。
俺に利があるからそうしただけなんだ。
「あんたと会ってから、色々なことが良い方向に向かってる。それは紛れもない、あんたのおかげ」
なのに橘さんは、そんなことにも気が付かずにそんなことを言っている。
「だから、あんたもあんまり自分を卑下しないで」
いや多分……橘さんはそれさえ気付いて、俺にそんなことを言ってくれているのだろう。
「これからもあんたを頼らせてよ」
「……うん」
「……それから」
橘さんは途端、二カッと笑った。
「もし何かあったなら、あたしにもキチンと報告して。力になる」
優香ちゃんに対する態度だったり、生活態度を見て知っていたつもりだった。
でも、本当に……橘さんは、本当に姉御肌な人だな。
俺は苦笑した。
苦笑したら、憑き物が落ちた気がした。
昨晩から色々あって、絡まり始めていた糸がスーッと解けた気がしたんだ。
「橘さん、今日も君の家に勉強に行ってもいいかい?」
「当たり前じゃん。優香にあんたが来るって言ってるのに。むしろ、来てもらわないと困る」
再び、俺は苦笑した。
……橘さんのおかげで、乱れていた心が元に戻った気がした。
昨晩は色々あった。自分のことが余計嫌いになったし、醜い気持ちに囚われそうになったこともあった。
でも、あの一件を経て……そうして今、橘さんのおかげで、俺は当面まずは何をするかを決めることが出来た。
まず、俺がすべきこと。
それは、勉強。
ただそれは、学生の本文である学力向上が理由ではない。
全てはアルバイト解禁を香織から引き出すため。そのために俺は、今回の期末テストで好成績を収めるつもりだった。それこそ、香織がアルバイトもやむなしと言わざるを得ないそんな成績だ。
……昨晩聞いてから気になった言葉があった。香織の言葉だ。
それは昨日、最後の最後、俺がした今の俺がどうなっているか、という質問に対する香織の答え。
『さあ、どうだろう?』
香織は、そう答えた。
わからない、ではなく、はぐらかしてきたのだ。
俺はそれを聞いて確信した。
香織は今、俺の身がどうなっているかを知っている。
だってそうだろう?
二十年近く前に円満に別れた男の近況を答えるのに、はぐらかす必要なんて一切ないではないか。わからない。そう言って話を打ち切ってしまえばいい話なのだ。
仮にあの場で俺が、じゃあ調べてよ、なんて言い出すことを考えれば、香織はわからないと一蹴してしまうのが一番だったはずなのだ。
なのに香織は、そうしなかった。
つまり香織は、俺の身が今どういう状況に置かれているかを知っているのだ。
それは多分、吉報なんかではない。
二十年近く前に円満に別れた男の近況を知っているだなんて、むしろ悲報に近い何かがあったとしか考えられない。
……それでも、俺はそれを知らないといけない。
そうしないと多分、俺は先に進めないから。
また昨晩のように、醜い気持ちに囚われてしまうことになるはずだから。
だから俺は、俺がどうなったかを知らないといけないんだ。
「ビシバシ教えるから、覚悟して」
「それはノーサンキュー」
ただ、鬼軍曹は勘弁してほしい限りである。
二章完結です。謎が謎を呼び謎しかない展開になってきた。果たして作者に収集をつけることは出来るのか!?
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