嫉妬深く
未だ遠くを見つめる香織に、俺は何かを言わなければいけない気がしていた。でも、頭の中の整理は付いてないし、口もわなわなと震えるばかりで上手く言葉が発せられなかった。
何かを聞かないと。
そんな強迫観念に囚われて、それでも格好つけるように歯の浮いた言葉を探して、何も言えなかったのだ。
「その人は、どんな人だったの?」
結局俺は、当たり障りもない言葉を口にしていた。
「珍しいね」
香織は、笑っていた。
俺は意味がわからず、首を傾げていた。
「ごめんね。目を覚まして以降のあなたは、あまり自分以外のことを気にしている様子はなかったから」
「そ、そうかな?」
あまりに鋭い香織の指摘に、乾いた笑みしかこぼれなかった。誤魔化すように頭を掻いたが、誤魔化せたかは微妙だった。
「……昔の話よ?」
ただ、珍しく俺が興味を抱いたことだからかは知らないが、香織は思い出話を話してくれる気になっていた。
香織は、昔を懐かしむように遠くを見ながら続けた。
「あの人との出会いは、高校三年の時だったなあ。あたしが三年の時に、あの人は一年。そう、二つ下の男とあたしは恋人になったんだけど……あたし別に、子供が好きだったわけじゃないんだよ? ただ、なんていうのかな……。あの人はどこか抜けていて、端から見たら危なっかしくて、放っておけなかったってのが正しくて、最初の印象だった」
二十年経った今、かつてを思い出した俺でさえも、自分に対して似たような感想を抱く。端から見ていた香織であれば、その危なっかしさはより一層酷く見えたことだろう。
「……あたし、本当はやりたくなかったんだけど……高三の時は生徒会長を務めていたの。嫌々よ? お前なら出来るって先生はゴリ押しするし、クラスメイトもその気になっちゃって応援するってうるさいし。まああたしも、内申に良いよって言われたらその気になっちゃったんだけど。そんな感じで生徒会長を始めたんだけど、あがり症でね。あの人との出会いは、入学式直前の、もう壮絶にあがっている最中での玄関でのことだった。で、緊張を解す意味でもあの人を教室まで送り届けて、その間に抱いた印象がさっき言った通りね」
……当時の俺が知らなかった情報がザクザク出てきた。
俺は、一年近く香織と付き合って、彼女が生徒会長を嫌々していたことも、あがり症だったことも全く知らなかった。
「不思議と、落ち着いたんだ。あの人と一緒にいると」
俺は黙って、香織の言葉を待った。
「居心地は悪くなかったの。でもね、あたしはあの時、自分を偽っていた」
「……偽っていた?」
「あの人は、楽観的でマイペースな人だった。悪いことじゃないのよ? あれはあの人の長所だった。それは間違いない。でもあたし、あの人をリードしなきゃって……いつも、気を張っていた。あたしがリードしなきゃ。あたしが引っ張らなきゃって。でもあたし……本当はさ。臆病で繊細で神経質なの。リードしなきゃ。引っ張らなきゃ。それが、あたしの重荷になってた」
……いつか思ったことがあった。
それは、俺が伊織という少年に乗り移った後のこと。かつて恋仲であった女性と摩訶不思議な形で再会し、そうして親子という偽りの関係を深めていく中で……俺は度々思ったのだ。
香織という女性は、かつて俺が思っていたよりも無邪気で、子供っぽいなと。
かつての俺は、彼女に重荷を背負わせていた。彼女に大人になることを強要し、自分はあぐらを掻いていた。
「お父さんと出会ったのは、上京した年だった」
もう、答えは見えていた。
「お父さんは入ったテニスサークルの四年生だった。頼れる人で、来年から銀行マンになることが決まっていて、そのまま、恋に落ちた」
もう、これ以上聞く必要はなかった。
「……実はあなたには、三歳上のお姉ちゃんがいたの。あたし達は所謂授かり婚だった。でも、流産しちゃったの。あたし、今でこそ笑えるけど……あの時は酷く落ち込んでね。その間ずっと支えてくれたのはお父さんだった」
でもまだ、俺は香織の話に聞き入っていた。
聞かなくてもいいとわかっている。もういいよと言えばそれで済む話。そうわかっているのに、聞かずにはいられなかった。
多分、かつての自分を反面教師にでもしたかったのかもしれない。
今までも散々思ったことだった。
香織はかつての俺のあれを長所だと言ってくれた。でも俺は、あの楽天的でマイペースな男の姿の本質が長所だなんて、そんなことを思えたことは一度もなかった。
直さなければと思って、直したつもりだった。
でも、心の奥底にまだあの時の駄目な俺ははびこっている。
拭っても拭っても。
磨いても磨いても……。
あの時の陰険な俺は、唐突に否応なしに姿を見せてくる。
……今もそうだ。
今も。
今だって……。
わかっていたことなんだ。
何度も何度も……何度もっ!
香織と円満に別れたあの日にも。
香織は結婚したと聞いたあの日にも。
香織の息子に乗り移り、彼女の旦那の仏壇の前で手を合わせたあの日にも。
香織には、夫がいた。
好いて、永久を共にすると誓った相手がいた。
その相手は、俺ではなかった。
何度も何度も、わかっている。わかっているとそう理解してきたつもりだったことなんだ。
なのに、何かある度、俺は……俺は、まだ自分にもチャンスがあると勘違いしていた。
割り込む隙間がないのに、希望を捨て去ることが出来なかった。
希望……いいや、違う。
この甘えを、甘えを許す怠惰な心を。
俺は、良しとしてあぐらを掻いていたんだ。
「あの人には、感謝してもしきれない」
最後、香織は今は亡き夫へ向けて感謝の言葉を並べた。
羨ましかった。
香織にそこまでお礼を言われる彼女の旦那が、羨ましかった。
それが醜い嫉妬心と気付いて、俺は一刻も早く話題をすげ替えたかった。
「……その、かつての恋人って、今は何をしているの?」
そうして俺は困惑するあまり、あまりに不自然なことを尋ねていた。
知りたいことではあった。でもそれは、旦那に対する謝辞を述べた今だと聞くのはあまりにも不自然だった。
香織は、どうしてそんなことを聞くのか、と尋ねてくることはなかった。
ただ……。
「さあ、どうだろう?」
香織は困ったように、そう答えた。
……感情が蠢いて、全身の血が沸騰しかけた。
大概皆が思ってた通りの展開だろ?