連想
橘さんの家から自宅までの道を、俺は歩いて帰っていた。衣替えも終わった頃のこの季節の夜は、少しだけひんやりとした空気が残暑の終わりを告げているようで心地良かった。
橘さんの家からの帰り際、駅まで送ると彼女に言われた。でも俺はそれを断った。駅からの帰り道、彼女が一人でいることの方が不安だったし、家に優香ちゃん一人を放っておくのも可哀想だと思ったからだ。
橘さんはわかったと言って、今晩、俺が言った話を熟考すると言っていた。
優香ちゃんが嫌いなものを食べられるように、嫌いなものを食べることに対する何かしらのメリットを生み出すべき。
俺が長々とまとまりのない話の中で彼女に伝えたのは、つまりそういうことだった。
それを言い終えた当たりから、俺は思っていた。
俺は随分と……簡単そうにものを話すなって。
多分、あの時の俺は随分とそれを簡単そうに話したけれど、それは簡単なことではない。そもそも俺の提案は、優香ちゃんが嫌いなものを食べてでもほしがる、それくらい好きなことを見つけないと、成り立たない話なのだ。
例えば、優香ちゃんの物欲が著しく低かったらこの提案は成り立たないし、物でつるにしても……例えばゲームを買い与えるだとか、そういう負担が大きいことでは割が合わない。
優香ちゃんの中での秤を正確に熟知しないと、それは容易ではないのだ。
残念ながら、まだ優香ちゃん達との付き合いが短い俺では、提案しておいてなんだが相談に乗れそうもないことだった。
だからこそ思うわけだ。
得意げに提案しておいて、それ以降は任せっきりにするだなんて、ロクな奴のすることではないなって。
我ながら適当なやり方に、申し訳なさを抱かずにはいられなかった。しかし、中々相談に乗れることでもないし、それもまた仕方ない。
……いいや、違う。
相談に乗れないなら、相談に乗れる人を探す。
出来ないことを出来ないと棚上げにするのではなく、出来る人を探してあげる。
それこそ、乗りかかった船を解決させるべく俺が取るべき対処なのではないだろうか。
誰か、相談出来る人はいないだろうか。
例えばそう。
子持ちで、同じような悩みを抱いたことがありそうで、橘さんよりも長く生きている人生の先輩が適任な話ではないだろうか。
ただ、そんな適役、都合よく俺の傍にいるわけ……。
「……いる」
ふと思い出した俺は、歩調を速めて家に急いだ。
……一連の茶番を挟んだが、本当は初めから俺は、香織にこの件を相談するつもりだった。今の茶番は全て、香織に事情を説明することを煙たがる内心に対する理論武装。自分の中で、香織にその件を話すことを正当化するためだけの無駄作業だった。
何故そこまで香織に橘家の事情を説明することを煙たく思ったか。
……そんなの、彼女と俺の関係を邪推されたくなかったから以外に理由は必要なかった。
「ただいま」
「おかえり」
書斎から、香織の声が聞こえた。
どうやらまだ仕事に執心しているらしい。
邪魔をするべきではないか。
いいや、邪魔をするべきだろう。
高校時代の一年間。そして、伊織という少年に乗り移ってからの数ヶ月。
香織は、基本的には他人の世話を焼くのが好きな人だから。
「ねえ、今少しいい?」
書斎の扉を開けて、俺は香織に尋ねた。
「んー、何?」
「……相談がある」
真面目な俺の顔を見て、香織は優しく微笑んでいた。
「珍しい。あなたがあたしに相談だなんて」
「……それは」
目を覚まして以降は、昔の記憶は失った設定だったから、俺は言葉に詰まった。伊織という少年は、香織にそんなに相談を持ちかけるような人ではなかったようだ。
「ごめんね。無理に思い出してほしいわけではないの。……忘れて?」
言葉の端から、思い出してほしい気持ちもある、と香織は告げていた。ただそれは、腹を痛めてまでこの少年を産んだ香織にとって当然の話だった。
「それで、相談って?」
感傷的な気持ちになりつつあったのを、香織の声で目覚めさせられた。
俺は唸った。相談を持ちかけておいて、何から話すべきか。一切、決めていなかったのだ。
「……俺って、昔、嫌いなものとかあった?」
いっそ、自分と重ねて笑い話のように尋ねよう。
そう思って尋ねると、香織はわかりやすく目を丸くしていた。
「ああ、あった。たくさんあったわよー」
「へえ、例えば?」
「あたしとか」
「……へ?」
「あなた、昔っからお父さんっ子だったの」
回転椅子でクルクル回りながら、香織は口を尖らせて続けた。
「本当に、お父さんお父さんって、そんなことばかりな子だった。寝る時もお父さんとじゃなきゃ嫌だって言うし、旅行に出掛けても手を繋ぐのはお父さんとが良いって。お母さんは嫌って。そんなことばっかりだった」
「……へー」
「あたし、嫉妬深かったから、色々なことしてあなたに構ってもらおうって必死だった。一番効果的だったのは、お母さんと一緒に寝ないとお父さんとはもう寝れないよって言ったことだったかな。あの時はあなた、泣きながらあたしと一緒に寝てくれた」
アハハと笑う香織を見ながら、それでいいのか、と疑問に駆られた。ただ、楽しそうな香織を見ていると、それで良いんだろうと思わされた。
彼女にとって、この伊織という少年との思い出は、全てが笑って済ませられる良い思い出なのだろう。
香織は言っていた。
『記憶障害でも、戻って来てくれただけ嬉しいです』
立ちはだかる高い障害を前にも、息子との再会が嬉しいと、そう言ったのだ。
多分、香織は思っているんだ。
いつか、記憶障害さえも乗り越えて、また伊織という少年と笑って過ごせる日が来ると。だから彼女は、明るいんだ。
「まあ、それもしょうがないんだけどね。お父さん、大体なんでも出来たもの。頼りたくなるのもわかるよ」
「……そうなんだ」
「うん。こんなことなら、もう少し世話のかかる人と結婚しても良かったかもね。お父さんには、絶対言えないけどね」
香織がそう言った途端、心臓がどきりと大きく跳ねた。
今……今、香織の遠くを見る瞳を見て、俺は悟った。
もう少し世話のかかる人。
香織は今間違いなく、その言葉に当てはまる誰かを連想しながらその言葉を言った。
一人。
俺も一人、香織の知り合いにその条件に合致する男を知っていた。
唐突に事情を知るきっかけが、俺の前に転がってきたのだ。
「そんな人と、知り合いだったの?」
逸る心臓を抑えながら、言葉を一つも間違えられないと思いながら、俺は……乾く口内を鬱陶しく思いながら、そう尋ねた。
「……うん。いた。一人だけ。……たった、一人だけね」
香織は、かつてを懐かしむように目を細めて続けた。
「あまり大きな声では言えないけど、高校時代のあたしの恋人がそんな人だった」
一日三話も投稿出来て、体力も戻ってきたなと思いました。明日から一話ずつ投稿します。
評価、ブクマ、感想よろしくお願いします!!!