付加価値
優香ちゃんの好き嫌いを改善するにはどうすればいいか。
そんな橘さんの相談に対して、俺がまず思ったことは彼女の境遇のこと。
いつか、区役所職員に橘さんはなじられたことがあった。妹の世話を姉がするだなんて間違っていると。
あの発言が正しいと思ったことは、俺は一度もない。家庭には家庭の事情がある。本人がどう思っているかもわからないのに、そうやって間違った常識を押し付けるその考え方が好きではなかった。
ただ、いざこうやって優香ちゃんの好き嫌いまでも、彼女の悩み事の一つだと言うのなら、彼女は本当に……優香ちゃんの親代わりだなと思わざるを得なかった。
きっと、そのことで俺が何を言っても、橘さんにとっては冷やかしのようなもので、そのことをとやかく言わないのが俺の正解なんだろうと思った。でも、貴重な青春時代を奪われてまで妹のことで悩むだなんて、少しだけ可哀想と思うのも仕方のない話だとも思った。
「ごめん。あんたには関係ないことなのに、深刻そうに質問しちゃって」
「別に構わないさ」
少しでも橘さんの支えになるなら、俺にはそんなこと重荷でも何でもなかった。
「あたし、あの子と十歳くらい離れてるんだけどさ。そんな事情もあってか、親は仕事にかまけて放任主義で。お金を入れてくれているから文句はないけど、それでも親に親らしいことをされない子なんて可哀想だって少し思う。まあ、あたしのことも放って仕事にかまけてた気がするけど、今はこの際そこはどうでもいい」
東京とは、そんなに親が二人して長時間残業をしないと生きていけない地獄のような街なのか。恐ろしい場所に来てしまったと思いつつ、当人が割り切れているようだから口を挟むようなことはしなかった。
「ただ、あの子にはあたしがいるわけだから……少しはあたしが面倒見てあげたいと思ってね。好き嫌いが多いだなんて、将来困りそうじゃない。あたしは小さい頃から大体なんでも食べられたけど、あの子は結構偏食家で。色々工夫をするんだけど、結構目ざとくて」
「どんな工夫をするの?」
「みじん切りにしてハンバーグの中とかコロッケの中に混ぜるの。でも、苦いって。すぐバレる」
橘さんは肩を竦めた。どうやら本当に、親のようなことをして優香ちゃんの偏食に手を焼いているらしい。
「それに、そういう事する度にそれって違うよなって思うの。みじん切りにして隠して食べさせても、それってあの子が嫌いなものを食べたこととは少し違う気がする。ちゃんと、向かい合って食べてほしい」
「向かい合って、ね」
言い方は大げさだが、つまり橘さんは優香ちゃんに成功体験を植え付けたいのだ。
嫌いなものを食べれたという成功体験。それを植え付けさせていくことで、人は出来ないこと、苦手なことに立ち向かう忍耐力を得られる。
言いたいことはよくわかった。
俺も、社会人になってからそういう成功体験を味わう機会には何度も恵まれてきたのだ。
そして、出来なかったことが出来るようになった時の言いようのない喜びは、ひとしおだった。
「橘さんの相談はよくわかった。優香ちゃんには面と向かって、苦手な食べ物を食べられるようになってほしいってわけだ」
そう言えば、今日の野菜炒めのピーマン。あれも野ざらしの状態で置かれていたわけだが、そういう意図があって橘さんはそうしたのだろう。
「……あたし、お節介なのかな?」
珍しくシュンとした様子で、橘さんは項垂れながら言った。
「お節介?」
「今どき、苦手な食べ物がある子なんて珍しくないじゃない。食べられないものを食べられるように。それって、今の親世代が嫌いそうな子への強制だよなって……ちょっと」
屁理屈を言うなら、子ではなく妹への強制だから関係ない。
ただ、そんなことを言っても橘さんは納得しないだろう。
「……嫌いなものを嫌いと再確認することだって、大事なことだと思うけどね」
言いながら、俺の発言も時代錯誤なのかもと思った。
俺は続けた。
「どんなことだって、試してみないと何もわからない。自分には何が出来るのか。何が出来ないのか。自分は何が好きで。嫌いなのか。そうだって高を括っていたことが、実は違いましただなんてことはしょっちゅうある。俺も、そういう機会に何度も巡り合ってきた。その度に思ったよ。ああ、勿体ないことしたなって」
「……うん」
「君が優香ちゃんにすることが間違っていることか正しいことかはわからない。でも、試してみることは間違ったことじゃないよ。だって人は、失敗からしか学ぶことは出来ないんだから」
橘さんは俺の言葉を待っているのか黙っていた。
俺は肩を竦めながら続けた。
「まあ、強制をしたくないならやることは決まってるよ。強制じゃないように、優香ちゃんのやる気を見出しながら嫌いなものに挑んでもらう。そうするのが一番だ」
「でも、どうやって……?」
優香ちゃんの偏食家具合は、恐らく家族である橘さんが相当手を焼くレベル。それなのにどうやって、と橘さんは悩んでいるようだ。
「……逆に考えてみるといいかもしれない」
「逆に?」
「橘さん。君は自分が嫌なことをしなければならない時、どうすればやる気になる?」
そう質問すると、橘さんは顎に手を当てて考え出した。
「別に。嫌々だけど引き受けちゃうから……」
そして導いた答えは何ら参考にならないものだった。
……そう言えば君、クラス委員長引き受ける時も、渋々と嫌そうに引き受けていましたね。
「じゃあさ、将来仕事をすることになった時のことを考えよう。将来、君は仕事をしながらやりたくない仕事を上司から指示された。君は、仕方ないと思いながらそれをやる。どうしてだと思う?」
「上司から指示をされたから?」
「違う。……君、セクハラとか指示されても応じちゃ駄目だよ?」
「そ、そんなことしないっ!」
顔を赤くし否定する彼女には悪いが、端から見ると彼女の考え方は危うくて非常に心配だ。本当に、嫌々ながらなんでも応じそう。
「まあ限度はあるわけだけど、仕事の時君は嫌なことでもこなす。それは何故かと言えば、嫌なことをする代わりにお給料という報酬をもらえるからだ」
「……あぁ」
納得したように、橘さんは頷いた。
「結局、人が人の為に何かをするのって、そういうリスクリターンを考えるからなんだよ。嫌なことをするには相応の報酬をもらう。だから人は、嫌々ながら嫌なことをこなす。勉強だってそうだろう? 嫌いな人は多いけど、それをこなすのは自分の将来をより良くするため。だから将来より今って人は勉強を怠けるし、将来のことを第一にする人は今のかけがえのない時間を投げ売ってでも勉強に身を投じる」
「……全ては、リスクリターン」
「そう。だからさ、優香ちゃんに嫌いなものを食べてもらうためにどうすればいいかと言えば……嫌なものを食べてもいいと思うくらい、良いことを彼女の前にぶら下げてあげればいい。これ食べられたらあれしてあげる。嫌いなものを食べる以上にそれに魅力を感じたなら……優香ちゃんは嫌々でも嫌いなものを食べるよ」
「なるほど」
「つまりは、嫌いなものを食べることへの付加価値を見い出せばいいって、そういうわけだね」
得意げに語った後、俺は中々難しいことを橘さんに語ったな、と思った。