アイテムゲー
しばらく俺は、橘さんに勉強を教えてもらいながら時間を過ごした。いつもみたいな口数少ない突き放した言い方ではなく、勉強を教える時の橘さんは丁寧以外で表現出来ないくらい、懇切丁寧に俺の勉強を見てくれた。
中身三十五歳であるものの、二十歳も下の女の子に勉強を教えてもらうことに対する嫌な気持ちとかはなかった。俺に自尊心が欠如しているからとかそういうわけではない。俺にも、三十五年間生きてきた上で培われた自尊心はあるが……こと勉強に関しては、学生時代から不真面目で通してきたので、今更真面目に行うことに対する違和感こそあれ、指南役に対しての文句なんか出るはずもなかったのだ。
「へえなるほど。臆病な自尊心と尊大な羞恥心で李徴はトラになったのか」
「あっさ。書いてあること言ってるだけじゃない」
呆れたように橘さんに言われた。
いやいや、書かれてあること以外に何を読み取れというのか。行間に隠れ文字でも隠れているとでも言うのだろうか。
「あたしが言いたいのは、理解したみたいに語っていることが自分の考察じゃなくて、そのまま書かれている文を読んだだけじゃないってこと」
「つまり……李徴がトラになった理由を考察しろってこと?」
「そうよ。総括して李徴はその二つを挙げたわけだけど、臆病な自尊心でわからないことを放っておいたことがあるかもしれない。尊大な羞恥心で誰にも質問出来なかったかもしれない。そういう怠惰が、李徴をトラにした、とか。そういう考察をして読むの。ふと気付くのよ。李徴の言い分は、自分に当てはまるものがあるなって。それに気付いた時、また違った目線から山月記を読めるようになる」
橘さんは納得できそうなことをまくし立てた。
「ちなみにあたしは、そう思った上で、臆病な自尊心と尊大な羞恥心で人がトラになるとは思えない」
そして橘さんは、教材に載るような小説の前提を一蹴してみせた。
ただ正直、俺も橘さんの言い分には納得だった。
……と思ったが、よくよく考えれば俺も……それこそトラになるレベルの怪奇現象に巻き込まれていたことを思い出して、李徴がトラになったことに納得しかけた。
もしかしたら山月記を読み込めば、俺も伊織という少年に乗り移った理由がわかるかもしれない。
ただ残念ながら俺という人間は、わからないことを前に臆病な自尊心も尊大な羞恥心もありはしない。今、二十歳も年下の橘さんに恥じる様子もなく勉強を教えてもらっているのがその証拠だ。
「山月記は参考にならないな」
「あんた、教科書に載るような小説の話を一蹴できるくらい偉い人だったの?」
「お互い様でしょう」
確かに、と思ったのか、橘さんは何も言わずに勉強に集中し始めた。
それからまたしばらく勉強に取り組んで、橘さんのスマホが鳴った。
「そろそろ夕飯の支度する」
そう言って、橘さんは立ち上がった。
今更ながら、橘さんは自室だからか制服を脱ぎ捨て家着に着替えていた。Tシャツにショートパンツは、来客を前にした格好にしては少し肌色が多い格好だった。気にしていないようだから、敢えてそれを咎めるようなことはしなかったが。
「そう? じゃあ、俺も手伝うよ」
香織には、先程電話で今日の夕飯は不要と伝えた。
勿論理由を聞かれたが、友達の家で勉強していて、その家で夕飯も頂く旨を伝えたら、あれ程自宅に友達を連れてこいと言っていた癖に、迷惑じゃないの、と心配した風な発言をしていた。
まあ、香織の発言の意図も十分理解出来たし、俺も橘さんに対して申し訳なさを抱いていたから……今度、家に連れて行く時、よろしく頼むよと香織には伝えておいた。
嬉しそうな香織の声が電話口から漏れた時、今まで何かと香織に負担を強いていたんだな、と俺は感じていた。あんなに嬉しそうな香織の声は、この体になってから初めて聞いたからだ。
「いい」
話は戻って、夕飯の手伝いを橘さんに申し出たら断られた。
「いやでも、悪いよ」
「いい。その代わり、優香の面倒、見てくれない?」
丁度その時、そろそろ夕飯を作る頃と気付いたからか、リビングで一人遊ばせていた優香ちゃんが橘さんの部屋の扉を開けて、顔をひょっこりと覗かせた。
「わかった」
「ありがとう。ゆーちゃん、あたしこれから夕飯作るから、お兄ちゃんと遊んでて」
橘さんがそう告げた途端、優香ちゃんの顔がパーっと晴れた。
「じゃあ、リビングで遊ぼうか」
事前に橘さんの家を巡らせてもらった感じ、キッチンはリビングに併設されていたから、そこなら橘さんも優香ちゃんの様子が見れて良いだろうと思ってそう提案した。
「うんっ。じゃあ、ゲームしよ。ゲーム!」
「わかった。負けないぞー」
「あたし、この子に勝てたことないから。気張るのよ」
橘さんは気の抜けた微笑みを見せながら、そんな忠告を俺に寄越した。
俺はと言えば、橘さんのそんな忠告を話半分に聞いていた。日頃、橘さんはゲームをしていそうもないし、それならたまに妹の面倒を見てあげる際に負かされる姿も容易に想像出来たのだ。
「これやろっ」
興奮気味の優香ちゃんが見せたのは、京都に本社を構えるゲーム会社が発売する大人気レースゲーム。
「いいよ。やろうか」
そのゲームは、前々機のハードでの作品をプレイ経験がある。それなりに本気で取り組んでいて、ネット対戦だってこなすくらいにやっていた。
正直、負けない自信があった。
……ただまあ、なんだ。本当に勝ちそうになったら、何かしらをして負けてあげるのがいいのだろう。優香ちゃんの泣き顔なんて、見たくはないしね。
なんて大人ぶった対応を見せようと望んだレースゲーム。
「うっそ」
俺はあっさり、優香ちゃんに敗北を喫するのだった。
「だから言ったでしょ。その子にあたし、勝ったことないって」
「伊織、歯ごたえがないー」
ケラケラ笑う優香ちゃんに、キッチンの方から橘さんの笑い声が聞こえてきた。
「も、もう一回やろうか」
引きつった笑みで、俺は言った。
「いいよ。やろうやろう!」
そうして、俺は優香ちゃんともう一戦交えることになるのだった。
四カウントの二回目が鳴った頃からAボタンを押し込んで、ロケットスタートは成功させた。この時点で数台のCPU機は置き去りにした。
カーブ時のミニターボも決めて、二位にまで上り詰めた。
一位は、優香ちゃんの操るロ○ッタ。
不思議なことに、立ち回りはほとんど変わらないはずなのに、俺達の距離は広がる一方だった。
……しかし、ここで契機が訪れた。
キノコ三つ!
俺はそれを、砂地にめがけて使って、いっきにショートカットして距離を縮めた。
そうして、ファイナルラップのゴール間近、ついに優香ちゃんを追い抜いたのだった。
しかし、違和感があった。最後の最後、優香ちゃんはあっさり俺に首位を明け渡した気がしたのだ。
その時だった。
「青甲羅っ!?」
直撃だった。
俺が青甲羅を食らっている間に、優香ちゃんは一位でゴールを切った。
「あはは。伊織、このゲームはアイテムゲーだよ?」
「青甲羅は警戒しないとー」
橘姉妹からの言葉が、胸に刺さった。
わなわなと俺は震えていた。
その後、俺は夕飯が出来るまでの間ひたすら優香ちゃんに勝負を挑み続けた。しかし、最後まで優香ちゃんから俺は一勝も挙げることは出来なかった。
自尊心などないように勝負を挑み続けた自分を鑑みて、俺はやはり臆病な自尊心なぞ持ち合わせていないんだなと悟った。ただ、負け続けたらそれなりの羞恥心に駆られた。
今俺は、穴があったら入りたい……いや。
トラにでもなってしまいたい気分だった。
マリカー、スイッチのやつは買ってない。今更買うのもなあと思ってしまう。
評価、ブクマ、感想よろしくお願いします!!!