鈍い
数日間、俺は毎朝、同じ時間の電車での通学を続けた。乗り込む号車はいつも決まっていた。自宅の最寄り駅の改札から入って、階段を昇ってホームに出て、少し歩いた先にある業務用の冷房の前の号車だ。
そこから乗り込むと、橘さんは大体いつも角の座席に腰を落として読書をしていた。
「おはよう」
「ん」
簡素な返事を聞きながら、俺は橘さんの隣の席に腰を落とした。そうして、ふと俺は気付いたことがあった。
「橘さん、イヤホンちゃんとしまえてないよ」
カバンから半分だけ姿を見せるイヤホンに見覚えがある気がした。あれは確か……復学の翌日、初めての電車通学の時、橘さんが痴漢されていたその日に……彼女が耳にしていたピンク色の有線イヤホンだ。
それが慌てて仕舞われたようにカバンから飛び出しているのを見ると、俺は苦笑していた。
これじゃあまるで、橘さんが俺がそろそろ来るから、先んじてイヤホンを外して待っていてくれたようではないか。
「笑うな」
「痛い痛い」
頬を染めた橘さんが、額をデコピンしてきた。ヒリヒリと、少しだけ痛かった。
橘さんは額を撫でる俺に呆れたため息を吐くと、視線を手元の参考書に落とした。
「……勉強?」
「そろそろ、期末テストも近いでしょ。あんたはいいの?」
「アハハ。痛いところを突くなあ」
あまり勉強の邪魔をするのも悪いと思ったから、それだけ言って勉強に集中してもらおうと思ったが……橘さんは参考書を閉じて、俺に視線を向けてきた。
「あんた、一学期の中間テストは受けれてなかったけど……。期末テストと、二学期の中間は受けたんだよね?」
「そうだね。よく覚えてるね」
「べ、別に……」
橘さんはそっぽを向いた。
「で、どうだったの?」
「何が?」
「点数」
「……あー」
本当に、痛いところを突く。
俺は天井へと視線を移しながら、曖昧な声を出していた。
「まあ、あんたのことだからあんまり心配する必要はないんでしょうけど」
「な、なんで?」
「この前、あれだけ機転が効いたことが出来たんだから。テストもそつなくこなしてるんでしょってこと」
不機嫌そうに橘さんは言った。
これは、相当過大評価をされてしまったらしい。
俺はなんとも言えない顔で何も言えず、ただ頭を掻いていた。
まもなく、橘さんは気付いたようにこちらに厳しい視線を送ってきた。
「……そう言えばあんた、放課後、赤点の補習に出てなかった?」
「そうだね」
見られていたか。
「そうだなって、成績悪いの?」
「これでも少し前までは、記憶喪失だったから」
「変な冗談言っている場合じゃないんじゃないの」
相変わらず橘さんは、どうやら俺の重要設定を冗談だと認識しているらしい。
紛れもない事実……ではないが、それにも負けるとも劣らないくらいの問題に、俺は巻き込まれているんだけどなあ。
記憶喪失ではないにしろ、高校時代の勉強など二十年前にやったくらい。しかも、当時の記憶など最早多少しか残っていない。そんな程度の俺の頭で、いきなりテストなんてしても、良い結果を得ることなんて当然出来なかった。それ故の赤点。それ故の補習だった。
「勉強、ちゃんとしないと駄目じゃない」
「失礼な。ちゃんとやっているよ」
夏休み。
アルバイト禁止令と勉強をするように香織に言われて以降、これでも毎日予習復習はしっかりやっている。テスト前には追い込みの勉強だってやっている。
前回二回は、単純な時間不足や校外活動との兼ね合いで時間を取られた部分はあるが、二学期の期末テストへの準備は順調だ。
そもそも、俺としても高校生の勉強に対するモチベーションは決して低いものではない。
今自分の身がどうなっているのか。それを探るためにしようとしている地元への調査をするには、まとまった金がいる。なけなしなお小遣いだけではそれをするにも厳しく、やはりアルバイトをして資金繰りをするのは必達事項だった。
だからまずは、なんとしても良い成績を収めて、香織からアルバイトの了承を取り付けないといけないのだ。
「……そう言えば、橘さんの成績ってどんなものなの」
「何よ。藪から棒に。そんなに成績のこと、あたしに突っ込まれたくなかったの?」
「いや別にそういうわけじゃないけど……」
「……十位」
「そっか、クラス十位か」
全体で見たら、上から数えた方が早いくらいか。
妹想いの一面もあり、結構生真面目な性格をしているし、意外だとは思わなかった。
「違う」
ただ、どうやらそうじゃないらしい。
「全国模試、十位」
「全国っ!?」
全国模試といえば、その名の通り全国の学生にて行われる模擬試験のこと。それの学年十位ともなれば、かつての俺なんて箸にも棒にもかからなかったそんなレベルだ。
「そ、そんなに頭良かったんだ……」
「……ウチの家計事情を考えたら、あたしが大学に行くには奨学金を借りるしかないの。だから、勉強頑張るしかなかっただけ」
ともあれ、それくらいになれば……もう還さなくていい奨学金を国からも学校からも借りれるレベルだ。
「凄いね。さすがに驚いた」
「止めて。あなたに褒められるの、ムズムズするの」
そう言われれば、これ以上彼女を褒める言葉も浮かんではこなかった。
「……ねえ」
橘さんは気を取り直したように顔を上げた。
「勉強、教えてあげよっか」
「え、いいの?」
恐らく、中身三十五歳の俺よりも……全国模試十位の橘さんの地頭は良いだろう。そんな少女に教えを請えるだなんて、願ったり叶ったりだった。
「……勘違いしないで。これ、この前のお礼だから」
「お礼?」
そんな恵みを与えられるような恩を、俺は橘さんに与えただろうか。
「……この前の区役所のこと」
「ああ、いやでも、あれくらいのことでそんな……さすがに割に合わない」
「あんたのものさしではそうなんでしょうね。でもあたしの方こそ、この前のことと勉強を教えることは割に合わない」
そう言われれば、俺も反論の言葉は出せそうもなかった。
「決まりね」
そう言って吐いた橘さんのため息は、安堵したようなため息だった。
「じゃあ、今日からウチでテストまで勉強会。それでいいね?」
「……うん。ありがとう」
「ん」
そんなやり取りを経て、電車は俺達を学校最寄りの駅まで運んだ。
電車から降りると、それからもしばらく俺達は雑談に励んだ。
ふと、俺は気付いた。
そう言えば、異性の家にお邪魔する機会を得たのは……かつての、香織との時以来でことにだ。
少しだけ、俺は緊張を抱え始めた。
それにしても、橘さんと同じ時間の電車を乗る約束をしてから今日まで、この時間帯の車両が混んだ試しは一度もないが……一体、いつこの電車は混むのだろうか?
この度日間ジャンル別一位になることが出来ました!
大変嬉しいです。いつも応援してくださる皆さんのおかげです…!
今後ともよろしくお願いいたします!!!