無自覚
朝、いつも通り香織よりも一足先に早く起きて、朝食の準備を進めていた。
「おはよう」
寝癖を直すように髪の毛をいじりながら、薄着一枚で、香織は寝床から出てきた。
「そんな格好で、風邪引くよ?」
呆れたように、薄着の香織に俺は言った。
「エヘヘ。ごめんねー」
「いいから。早く着替えて来なって」
「はーい」
諭すようにそう言うと、香織は素直に一度寝床に戻って着替えてくるようだった。
俺はもう一度呆れて、ため息を吐いた。伊織という少年の体に乗り移るずっと前、高校時代の彼女はもっと生真面目だった気がするが、この体になって以降の彼女は当時から比べても無邪気で幼気だった。
それが悪いというわけではない。
ただやはり、香織の無邪気な姿、というのは未だ慣れなかった。
しばらくして着替えてきた香織と二人で、朝食を食べ始めた。
「伊織、最近学校はどう?」
「楽しいよ」
香織の質問の意図は、ずっと言っているように伊織という少年に友達が出来てほしい、とそういう理由だ。未だ友達が出来ていない俺だが、ここでつまらない、だとかマイナスイメージなことを言うことは、自分の首を締めかねないので止めた。
香織は、しばらくの間昏睡状態になった我が子の容態を相当心配しているようで、学校に対する箝口令やバイト禁止令、そして菅生先生経由での俺の関係作りの介入など、結構重めの束縛を見せている。
だから本当に、余計な失言はすべきではない。
「最近は、随分と帰りも遅かったし。友達と買い食いとか?」
この辺のやり取りは、前から随分と根掘り葉掘り聞かれて、その度校外活動だよと答えているのに、しつこい。
「だからそれは……」
「校外活動って言っても、買い食いとかする機会はあったんじゃないの?」
「それはまあ……」
「それに、最近家計簿アプリの出費に交通費ってあるんだけど。一駅分。これ何かなあ?」
香織は無邪気に、されど確信を突く質問を俺に投げかけた。
俺は苦虫を噛み潰した顔でそっぽを向いた。数度、日頃のお小遣いからの出費となっている一駅分の交通費は今一番クラスで仲の良い橘さんの妹を、二人で迎えに行くために使用した費用である。
アルバイトの申請を香織にしたその日、俺は香織にアルバイトの申請の棄却と家計簿アプリをおすすめされた。あの後、香織の家計簿アプリのインストールのゴリ押しは凄まじく、渋々俺はスマホにそれを入れたのだが、結果俺の財布事情は全て、香織に筒抜けの状態になっていた。
まあ、面倒なことにはならないと思っていたが、まさかこんな形で詰問される要因にされるとは。
「何かなあ? 何かなあ? 隣駅は住宅街だし、買い食いとかじゃなさそうだなあ」
「なんでこんな時だけ鋭いんだよ」
ニシシ、と香織は笑っていた。
「まあ、これ以上の詰問は止めてあげる」
「そうしてくれると助かります……」
「ただ、あたしに紹介出来るくらいの仲になったら、ちゃんと紹介してよね。お母さん、笑顔で迎えてあげるから」
「……うん」
そう言って止めてくれて助かったのは事実。だけど、満面の笑みで期待を込めてそう言われると……胸が締め付けられる想いがある。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺は、いつもより早めに家を出た。今この雰囲気の家にこれ以上残っているのは、何だか嫌だった。
最寄り駅に着いて電車に乗り込むと、電車の中の人はいつもよりだいぶ少なかった。いつもならおしくらまんじゅうをしないと入れないのに、たった三十分早くなるだけでこうなるのか。だったら、いつもこれくらい早く家を出るのは全然ありだった。
車内の横長のシートは、チラホラ空席が見えた。ただ、空席状況的に必ず隣には誰か座ることになるから、自動ドアにもたれかかって、俺はスマホを覗き始めた。
ただ、その態勢になってすぐ、俺は肘をちょんちょんと突かれた。座席の方からだった。
突かれた方を怪訝な顔で覗くと、そこには橘さんがいた。
「あ」
おはよう、とか、そういう言葉は口から出なかった。向こうから呼び止めてくれたらから、何か言ってくると思ったのだ。
しかし、橘さんは何も喋らず、ただ俺を見つけてきた。
え、何も言わないの? と戸惑いながら、しばらく俺達は見つめ合った。
「な、何か言いなさいよっ」
車内。少しだけ小さな声で怒りながら、橘さんはそっぽを向いて言った。
「ごめん。おはよう」
何か言ってくれると思ってたんだと言えば余計神経を逆なでする気がしたので、俺は頭を掻いて苦笑した。
「橘さん、そう言えば最近満員電車の中で会わないと思ってたけど、この時間に登校してるんだ」
「ま、まあ……痴漢はされたくないから。それより……」
それより?
首を傾げていると、橘さんは自分の隣の座席をポンポンと叩いた。
俺は、逆側に首を傾げた。
「……こっち空いてるし、座ったら?」
言った後、橘さんは顔を赤くしていた。
「か、勘違いしないでよね。ただそこに突っ立っていられると、電車に乗降する人の邪魔になるから……それだけよ?」
「あーうん。でも大丈夫」
「え……?」
「学校前の駅まで、こっち側の扉は開かないから」
橘さんは面食らった顔をした後、不服そうに俯いた。
「……でも、席だって空いてるじゃない。学校着くまで疲れるんじゃないの」
「色々あってね。リハビリの一環だよ」
伊織という少年が昏睡状態だった後、筋力を取り戻すためのリハビリに結構時間を費やした。あれ以来、日頃の日常生活でも筋トレの一環になることを知って、俺は角の席が空いてない時はいつもこうして立っているようになった。
「……いいから」
「ん?」
「いいからっ、座りなさいよっ! 話しかけづらいじゃない」
車内に響く大きな声で、橘さんは言った。俺は思わず面食らっていたが、どうやら周りの乗客も同じだったらしい。
しばらくして橘さんは、自分が大声を出したことに気付いて、ハッとした後、顔を真っ赤にして俯いた。
「……じゃあ、失礼しようかな」
色々居た堪れなくなって、俺は仕方なく橘さんの隣に腰をおろした。
リュックサックを膝の上に抱えながら、俺達は再び何も喋らずにいた。
「……それにしても、この時間はいいね。たった三十分違うだけなのに、全然人の混み具合が違う」
「そうね。あたしもちょっとずつ前倒しにして、この時間が穴場だってわかったの」
「そっか。それじゃあ最近は、あんな嫌な目に遭うこともないんだ。良かった」
そう言うが、橘さんは顔に陰を落とした。
「……実は、まだたまにある」
「え、そうなの?」
「うん。この時間でもまだ、時々混む時があるの」
「えー、それは」
それは、大変だなあ。
「これ以上早く起きるのは、正直辛いから仕方なくこの時間に登校してるの」
「……じゃあ、これからは俺もこの時間に登校するようにしようかな」
「え?」
「男が傍にいたら、痴漢だってしづらくなるだろう?」
それに、俺の起きる時間はいつも早いし、家でのんびりする時間を減らせば、この時間に登校すること自体は大変なことでもなんでもない。
「……ありがと」
言葉短く、橘さんはお礼を言った。
「いいよ。そんな。お礼を言ってほしいから言ったわけじゃない」
「……でも。……そう。わかった」
納得したように、橘さんは目を伏せた。
それからは、しばらく橘さんと雑談をして、気付いたら学校の最寄り駅にたどり着いていた。
俺達は電車を降りて、学校へと向かった。