資料作り
橘さんと別れて家に着く頃には、外はもう真っ暗になっていた。
「ただいま」
「おっかえりー」
家に入るや否や、香織の楽しそうな声が飛んできた。鼻孔を付いたのは香ばしい香り。
「遅かったね」
ひょこっと、リビングの壁から、香織は顔だけ覗かせた。
幼気な彼女の対応に、心臓がドキリと跳ねた。
「友達? 友達?」
しかし、楽しそうにそんなことを言う香織を見たら、途端に熱も冷めていった。
まったく、香織もしつこい女である。一応、約束したこととはいえ、一月も俺が友達を家に連れて来ないことを考えれば、早々に俺の帰宅が遅くなった理由が友達ではないとわかりそうなものなのに。
呆れて、懇切丁寧に帰りが遅くなった理由を、俺は説明しようと思った。そうすれば、香織も少しは諦めがつくだろう。
俺の帰りが遅くなった理由。
……橘さんと公園に下見に行き、そうして彼女の妹を保育園に迎えに行き、彼女達を家まで送ったため。
夕飯も食べて行ったら、と俺は橘さんに提案された。でも、それは断った。
母を家で待たせているから。そう答えた。
マザコン、と橘さんは俺を見て苦笑した。
何が悪い。家族団らんでの食事を奪う権利が、君にあるのか。一瞬思ったが、茶化すように言った橘さんの顔を見ていたら、彼女の言葉が本心ではないことは明白だった。
「違うし」
そっぽを向いて、俺は香織に否定した。
これはまあ、なんだ。
「仕事だし」
そう、仕事。
橘さんと一緒に公園に監視カメラがあるかの下見をしてきたのは、校外活動のため。俺の中であれば、それ以上でもそれ以下でもなかった。
……その後の優香ちゃんのお迎えは、ただ成り行きだ。俺の中ではあれも、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ帰り際、優香ちゃんに明日も迎えに来てね、だなんて言われたな。橘さんは俺も忙しいから、そんなこと出来ないとお灸を据えてくれていたが、まあ機会があればそうしたい限りだ。
「……はっ!」
気付いたのは、ニヤニヤ俺を見る香織だった。
「そっか。友達じゃないかー」
「おい、今何を思っている?」
「……友達じゃあないんでしょ? 友達じゃあ」
含みのある言い方。
これは……面倒なやつだ。
「彼女さん、今度ウチに連れて来てね」
「いや、彼女じゃねえし!」
アハハ、と家の中に笑い声が漏れた。
思えばこうして家の中に笑い声が絶えないのは、俺が伊織という少年の体になってから初めてかもしれない。色々あって、俺も笑う余裕がなかった。そして香織も……。
不服ながら、こうして香織と再び笑い合える日が来てくれて、良かったと思った。
その日食べた香織の作ったシチューは、野菜が少し焦げた味がした。
……翌日、放課後。
俺は帰りの支度をしていた。
「ねえ」
そんな俺に声をかけてくる少女が一人。橘さんだ。
「どうしたの? 橘さん」
尋ねると、橘さんの顔はみるみる怪訝なものになっていった。
「あんた、今日は随分と帰り支度が早いのね」
「え? ああ」
めざとい橘さんに、俺は時計を見直した。予定の時刻まではまだ、結構時間があった。
「そうだ。ちょっとこれ見てほしいんだけど」
「何を?」
俺はカバンからプリント用紙を取り出し、手渡した。
自宅にプリンターがあって良かった。おかげで、学校で印刷する手間が省けた。
「……何? これ」
「資料」
「それは見ればわかるっ!」
橘さんの声は、怒っていた。ただまもなく、俺への文句もそこそこに資料に魅入り始めた。
俺が作ってきた資料は、公園に監視カメラを設置するに際しての、説明書だった。
一枚目は背景・目的・結論。
二枚目は効果見込み。
三枚目は地図に、公園の位置をポイントした。
そして四枚目は、今回の活動の抱負。
「……調べたら、監視カメラの設置の申請は地方公共団体、つまりは区役所に話を通せば良いらしい」
勿論、場合によっては個人管理者に聞くそうだが、橘さんが設置したい公園が区管理であることを踏まえれば、それで問題はない。
「……あんた、いつの間にこんなもの」
「昨日の夜、ちょこっとね」
「ちょこっとって……」
まあ、腐っても中身は三十五歳。両手では数えられないくらいの社会人経験もあるし、これくらい朝飯前だ。
「それを、今日企業に持っていこうとしている」
「き、企業?」
「そう。防災カメラを取り扱うメーカー」
メーカー名を教えると、聞いたことのある会社の名前が含まれているからか、橘さんは唸った。
「そ、そんなところにアポなしで行くの?」
「まさか。事前にちゃんと、連絡したよ」
企業のホームページには大体、問い合わせの項目があるから、そこに高校名と実名を書いて、今回やりたいことを送ったら、すぐに返事は返ってきた。
「アポは取ってある。今日の十九時から、近くのオフィスに伺うことになっている」
「……向こうは、よくオッケーしたわね」
「当たり前だよ」
驚く橘さんに対して、俺はそんなに意外なことはなかった。
「高校生が何かしたい、とそう思うことに対して、大人は基本寛容的だよ。ただそれは、子供のやることを叶えたいから、とかそういう理由じゃあない。子供がこんなことを考えてこんなことをしましたって言うのは、企業としては結構見過ごせない宣伝ポイントなんだよ」
高校生と協力してこんなことをしました。
企業のホームページにあるブログとかを見ると、そういうことはごまんと書かれている。
「近隣の高校と絡めるのは、企業としては地域密着にも繋がるわけだしね」
「……本当、あんた高校生には見えないわよ」
俺はそっぽを向いて静かになった。
「……で、でだ。そういうわけで今日は、俺と菅生先生と二人で、これからそこの企業にお邪魔して、この資料を見せて概要を説明しようと思っている」
「……でも、まだ監視カメラを設置する公園はまとまってないわよ」
「その辺は伝えてある。その上で会うアポは取り付けた。こっちが監視カメラを設置する公園を絞ってから協力を仰ぐんじゃ、時間がもったいないって判断だ」
企業側だって、高校生と監視カメラ設置の申請を市役所にします、と取り決めても、すぐに上役の判断は降りないはず。金が動くことは、決まって下っ端が決めたことから二週間は平気で遅れてスタートすると言っても過言ではない。
二学期中に結果を出さなければならない俺達に、二週間の時間は死活問題だった。
「……ち、ちょっと待って。今あんた、あんたと菅生先生と二人で行くって言った?」
「え、うん」
本当は俺一人で行こうと思っていたが、菅生先生に電話している場所を見られてしまい、嫌々な彼も交えて二人で行くことになった。
「あたしも行く」
「……え」
「何驚いた顔しているのよ」
橘さんは、目を細めていた。
「いやだって、昨日は色んなところを巻き込むのに否定的だったから」
「それは……もう、いいのよ」
何がいいのだろうか?
ただまあ確かに、クラス副委員長の俺が出向いて、委員長の彼女が出向かないのはおかしな話かもしれない。
「わかった。行こうか」
「……うん」
「あ、でも一応、企業側との調整が俺がやるから」
「うん」
橘さんの顔から、不安の色が消えた。彼女も立場上、行くのを決めたようで、どうやら企業との話し合い自体は嫌らしい。
「じゃあ、行こうか」
そうして、俺達は校門で待たせていた菅生先生の車に乗り込んで、三人で企業へと向かった。
企業との調整は、そもそも連絡してから一日で返信が来た時点でわかりきっていたことだが、好意的に話は進み……無事、協力を取り付けることに成功したのだった。
熱が出た。あと一話書いたけどしばらく投稿出来なくなるかもしれん。