告白
こうして橘さんと一緒に、二人で電車に揺られるのはいつぶりだろうか。伊織が目覚めて以降、俺達が一緒に学校に通うことはなくなったから、今年の五月ぶりだろうか。
かつては毎日、学校に通う時は同じ電車で橘さんと電車に揺られた。彼女はいつも満員電車に乗るのが嫌だから、通勤客で駅が混雑する少し前に電車に乗っていた。それに俺が付き合う形で二人で電車に揺られて、話したことは数知れず。
橘さんと電車で話したこと。
彼女の妹の優香ちゃんのこと。
勉強のこと。
二人で一緒に達成した公園への監視カメラ設置に向けた対策のこと。
色々、彼女と電車の中で言葉を交わした。
ただ今、雑音の多い車内に俺達の声はない。
最期の景色を目に焼き付けたい。心のどこかで俺は、そんなことを考えていたのかもしれない。
ただ彼女が今、俺の隣で黙っているのはどうしてだろう。
「ごめんね。少し遅くなって」
今日、彼女と出会ってからしばらくして、俺は橘さんにそう言った。
「いいわよ。あたしが早く、着いただけ」
「……そっか」
涼し気な顔で言う橘さんに、次の句が浮かんでこなかった。多分、根掘り葉掘り言葉を交わして、俺の存在に気付かれたくなかったというのもあると思う。
いつか俺は、橘さんに俺達の存在を詮索しないでほしいと願い出た。あの日以来、俺はどうしても彼女の前で口数が少なくなる。
自分から願い出たことなのに、自分から存在を明かすような真似、出来ればしたくなかったのだ。
ただ、そのせいで彼女との会話の回数は激減した。
今となれば、少し思う。
あの時、もっと橘さんと話しておけばよかったな、と。
……あの時に、戻りたいな、と。
ただ生憎俺は、その願いが叶うことがないことを知っていた。
最期のデートは、天候に恵まれた。
三十分電車に揺られた後にたどり着いた駅で外の天気を見て、少しだけ俺の気は晴れた。
「行こう」
橘さんが口数少なく言った。
今日向かう先は、特に決めていない。行きあたりばったり。いつも通りの、俺のやり方。
ふふっ。
俺は、小さく微笑んだ。
「どうかした?」
橘さんに尋ねられた。
「いや、何でもない」
変わらない自分に呆れて、嬉しくて、微笑んだ。
そんなこと、橘さんに言う気にはならなかった。
最期のデート。
選んだ先は、海浜公園。最期なのだからもっと小洒落た場所にすれば良かった、だなんてことは、意外にも一切思わなかった。
東京湾の少し茶色い海から、磯の匂いが漂った。
この場にいる海水浴客は、子連れが多かった。活発的な子ども達の楽しそうな声が、あたりに響いていた。
「あっち、何かイベントやっているようだよ」
テレビ局傍から聞こえるここよりも大きな声に、俺はようやく少し、気持ちが乗り出していた。
背後にいる橘さんの気分を放って、少し大きな声で、俺は賑やかな遠くを指差した。
「行ってみようよ」
「……わかった」
穏やかに、橘さんは微笑んだ。
駐車場一体を使った夏のイベント。開催されていたのは、ビアガーデン。真っ昼間だと言うのに、ビールを飲みながら楽しむ人がたくさんいた。
「何か食べる?」
「まだ、お昼って時間じゃないよ?」
「……でも俺、腹減ったよ」
「じゃあ、何か食べなよ」
「君は何を食べたい?」
「……だから」
「もちろん。全部食べてとは言わないよ。ただ、一人で食べるのも気が引ける。だから、俺の分、少し食べなよ。折角、一緒に来たんだからさ」
「……一緒に?」
「うん」
微笑んで頷くと、橘さんは渋々納得したように、唐揚げ棒を指指した。
俺はもう一度頷いて、彼女に席取りをお願いして購入の列に混じった。
……そう言えば、今年の初詣の時も俺は、彼女に甘えて一人屋台に買い物に行ったっけ。あの日はとても寒かった。だから温めるものを買いに行って、戻ってきたらクラスメイトと鉢合わせてひと悶着あったんだ。
懐かしいな。
「おまたせ」
かつての思い出に耽りながら食べた唐揚げ棒は、少しぱさついていたが美味しかった。
ただ、食べ終わった後に、俺は少し困った。行きあたりばったりのデート。次に向かう先はまだ、決まっていない。
特に行きたい場所も、あるわけではない。
「どこか、行きたい場所ある?」
だから俺は、ビアガーデンを後にしながら、少し困り顔で橘さんに尋ねた。
「どこでも良い」
即答だった。
「あなたと一緒なら、どこでも良い」
……あなたと一緒なら、か。
それは一体、どちらに向けた言葉なのか。
俺なのか。
伊織なのか。
いいや、答えはあまりに明白だった。
本来、この身は俺のものではない。
本来、橘さんの彼氏は俺ではない。
彼女の言うあなたは、伊織。
そんなこと、迷うことさえおかしなことだった。
「ありがとう」
嫉妬はない。
むしろ、喜びさえある。
俺が乱した伊織の世界。
ようやく、それが正常に戻りつつある。
それが喜ばしいはず、ないではないか。
ただ一層、思った。
伊織の世界をこれ以上乱さないように、今日は必ずバレるわけにはいかない。
橘さんに、俺の身がバレるわけには、いかないんだ。
東京のビル群が望める海沿いの遊歩道を歩きながら、俺達はまた黙ってしまった。
また俺は考えていた。ボロを出してはいけない、と。
……次に口を開いたのは。
「ねえ、何を隠しているの?」
核心を突く、橘さんの言葉だった。
いきなり、崖の目の前に繰り出された気分だった。ただ、切羽詰まった感覚はない。
「今日、あなた変よ」
「どうして、そう思う?」
「……わかるから」
……この一年、俺の隣には彼女がいた。
橘さんがいた。
そう言えば、最後に寝た日の朝に気付いたことがあった。
……それは、一年以上俺の隣にいて、俺を見てくれていた彼女にとって。
俺と伊織の正体なんて、一目瞭然だってことだ。
今俺がしている隠し事。
それは、橘さんが容易に見抜ける隠し事。隠し事ですらない隠し事。
……どうして彼女は、今日に限って答えを導かないのか。
俺が中々喋らないから見抜けないのか。
二ヶ月の眠りの内に、勘が鈍ったのか。
……それとも。
わかっていて。
わかっていて、待っているのか。
俺から告げてくれるのを、待っているのか。
俺から教えてくれるのを、待っているのか。
今の橘さんの言葉は、最後通告なのではないのだろか。
……ただ、それでも。
それでも、俺は……言おうと思わなかった。
正直な気持ちを、伝えること。
後悔しないようにするために、それを行うことが必要であることはわかっている。
それでも、踏ん切りが付かなかった。
伊織のため。
彼の世界を、壊さないため。
……本当に、そうなのだろうか。
だったらこう言えばいいだけなんだ。
俺のことなんて、忘れてくれ、と。
あの時みたいに、伊織の面倒を見てやってくれ、と言えばいいだけなんだ。
橘さんに、託せばいいだけなんだ。
……どうして、そう出来ないのか。
それは俺が、あの時の選択を悔いているから。
あの時、橘さんに伊織を託したことを後悔しているから。
二人の幸福を妬んでいるわけではない。
彼女への想いに、未練があるわけでもない。
……あの時伊織は結局、一人で立ち直ることが出来た。
俺の助力など必要とせず。
橘さんの手も借りる必要もなく。
彼は、強かに一人で立ち上がって見せたのだ。
……俺は、怖いんだ。
また間違えることが。
『あたし達の再会が間違いだっただなんて、言わないで』
いいや、違う。
橘さんと出会えたこと。
橘さんと友達になれたこと。
秘めたる想いを紡げたこと。
それらは全て、間違いではなかった。
香織との成り行き同様、間違いなんかではなかったんだ。
なら、俺は一体何を恐れているのか。
それは……。
俺は……。
橘さんをまた傷つけることが、怖かった。
高山さんでも。
香織でも。
……伊織でもなく。
橘さんを……もう二度と、傷つけたくなかった。
これまで何度、彼女を傷つけたのかわからない。
酷い言葉を投げつけたり。
突き飛ばしたり。
エゴに振り回したり。
……当時だって、自らの言動、行動に自罰的になったことはあった。
ただ、それ以上に今は恐れている。
それは……気付かされてしまったからなんだ。
高山さんに。
伊織に。
香織に。
俺の橘さんへの気持ちを、気付かされてしまったからなんだ。
到底話せるはずがなかった。
……だって。
だってっ!
今、ようやく前に進み始めた橘さんにそんなことを言うことは……。
この想いを、告げることは……っ!
「……伊織」
橘さんが、名前を呼んだ。
「……あなたのことが、好き」
彼女の恋人への、想いを告げた。
……あまのじゃくだった彼女の告白に、俺は気付いた。
気付かされた……。
彼女は、気付いている。
彼女は……気付いていてくれている。
気付いた上で彼女は……一歩を踏み出せない俺のため。
俺なんかのために、俺を恋人の名前で呼んでくれたんだ。
俺に、伊織という仮初の名前を与えてくれたんだ。
「あなたは、あたしのことどう思っている?」
橘さんは、優しく微笑んでいた。
「……好きだ」
癇癪を起こした子供のように。
「大好きだ……」
溢れる思いが、止まらなかった。
「君が隣にいてくれて、嬉しかった。大好きだったんだ……っ!」
目から涙が溢れた。
滴る涙のせいで、視界はぼやけた。
涙を脱ぐった時に見えた橘さんの顔は……。
「ありがとう」
俺よりも大粒の涙で、歪んでいた。
「ありがとう。……嬉しいよ」
橘さんは、優しく微笑んだ。
ここ数話はいつ終わってもいいような書き方をしてた気がする。
本当はあと一、二話続ける気でいたが、帰ってきたドラえ○んの嘘エイトオーオー的な終わらせ方もええやんと思ってしまった。
恋愛小説を謳いながら、主人公に何があったのかと円満な別れ方を探す作品になっていた不思議。
BSSとかNTRとか超越したわ。しらんけど。
最後に、感想、ブクマ、評価もらえると嬉しいです。
後日談は……書くかもしれないし、書かないかもしれない。