失恋
泣いてしまった香織を慰めるため、俺は彼女を介抱しながらリビングへと向かった。横長のソファに隣同士に座って、俺は香織の背中を擦りながら、彼女を心配そうに眺めていた。
時折、大丈夫、と彼女の様子を心配しながら俺は昔のことを思い出していた。
俺達がまだ高校生だった頃。
俺達がまだ、付き合っていた頃。
今のように、俺は香織を介抱したことがあっただろうか。
あの時の俺達は、恋人同士であったにも関わらず、対等な関係だったかと言えばそうではない。それは、最近になってようやく気付いたこと。
あの時の俺達の関係は、ただ俺が彼女に甘えていただけの……それこそ、無償の愛を一方的に与えてもらえる母子のような間柄だった。
だからだろう。香織の涙一つ、俺が見たことがなかったのは。
対して俺はと言えば……まあ、高校時代には彼女の前で泣いたことはなかった。
ただ先日、俺の自殺現場で……俺はかつて以上に彼女の前で取り乱し、そして慰めてもらった。
あの時俺は多分、彼女が傍にいなければ終わっていただろう。
精神的に、終わっていただろう。
そんな俺を支えてくれた香織に、今この場で慰め一つ出来なければ、俺は本当に今を生きる資格がない。
微笑みながら、いつの間にか俺はそれくらいの意気込みで彼女の介抱していた。
香織は、しばらくポロポロと涙を流していた。嗚咽を漏らす彼女は、やはりかつての姿とは似つかない。
ただ、今の香織の姿が本来の彼女の姿だと言うことは、伊織として生きた一年近くの間に深く知ることが出来た。
以前は、かつてと違う素の香織の姿に戸惑い、落ち込んだ時もあった。
でも今は、少し違う。
素の彼女の姿を知れたこと。俺はただただ、それが嬉しかった。
チーン、と香織は鼻をかんだ。
ティッシュを離した鼻は、少し赤くなっていた。
「落ち着いた?」
俺は尋ねた。心中は、穏やかだった。
悟っていたところがあった。
「うん。ありがとう。恥ずかしい姿を見せちゃった」
「いいよ。俺なんて君に、一体どれだけ恥ずかしい姿を見せたのか、わからない」
「そうだったかな?」
香織は、苦笑を見せた。
「本当、ありがとう。おかげで随分すっきりした。……ありがとう」
「お礼を言われるようなことはしてない。むしろ、伊織に謝らないといけないくらいだ」
「……それは。じゃあこれは、二人だけのナイショ」
「そうしてくれると助かるよ」
俺も、香織に苦笑を見せた。
穏やかな時間だった。
伊織の身に乗り移って、これ程までに穏やかな時間があっただろか。
この身に乗り移って以降、取り乱したり、狼狽えたり、怒鳴ったり、憔悴したり……たくさんのことをしてきた。
自分の身ではなく、他人の身で何かをする。
初めての体験の連続だった。
そんな体験の数々に、俺は理由を求めてきた。
免罪符だったのだろう。伊織の時間を奪うことへの。
これまで。
そして、今日まで。
俺は一度だって、伊織の時間を俺が奪って良かったと思ったことはなかった。
「……お礼を言わないといけないのは、むしろ俺の方だ」
ただ、今日ようやく……初めて、俺は伊織の代わりをすることが出来て良かったと思った。
伊織と香織の橋渡し。
それは多分、伊織の身に乗り移った人……俺にしか出来ないことだったから。
「ありがとう、香織」
「それは、何に対するお礼?」
「……それは」
伊織の身に乗り移らせてくれた理由をくれたことへのお礼。
最初はそう言おうと思ったが、俺は口を閉ざした。
これまでの人生で俺は、香織に感謝を告げなくてはいけないことは、それだけではなかったはずなんだ。
ただ、初めからそれら全てを伝えることは……到底出来ないことだろう。
「……俺と出会ってくれて、ありがとう」
それ以上のお礼は、目頭が熱くなって、嗚咽が漏れそうで、出来そうもなかった。
「……あたしも、あなたと出会えて良かった」
香織は、目尻に涙を蓄えて微笑んだ。
その一言で俺は……救われた気がしたんだ。
「ようやく。これでようやく……俺も、逝けるよ」
やり残したことは、これで……。
安らかに微笑む俺を他所に、香織の顔つきは晴れなかった。当然だろう。かつての恋人との別れの示唆なんて、つい先日最愛の人を失った彼女には、酷な話だった。
「……二ヶ月ぶりに、目を覚ましたって……あなた、さっき言ってたよね?」
「うん」
「……そうなんだ」
香織の顔は、晴れなかった。
「二ヶ月ぶりに目覚めた世界は、変わっていた?」
「変わっていたさ。目まぐるしくね」
ただ、そう答えながら俺は思っていた。
この世界が変わり始めたのは、何も俺がずっと寝ていた二ヶ月の間の話ではない。この体の主である伊織が目覚めて以降、この世界はずっと……ずっと、目まぐるしく変わっていた。
「もう、この世界に俺の居場所はないと実感できた。おかしな話ではない。あの時俺は、自ら生命を捨てたんだ。なのに、伊織の身を借りて自らの意思を伝える機会を得ることが出来た。俺は、幸福者だ」
「……伝えたかったもの」
「……うん」
「それは、あたしに自らの正体を告げること?」
「そうだ」
「……それだけ?」
俺は香織の問いかけに返事もせず、ゆっくりと彼女の顔を見た。
香織は、自らはおかしなことを何も言っていないとでも言うように、俺の嘘を咎めるように……目を丸くしていた。
「それだけだよ。それだけが、心残りだった」
香織の言いたいことは、わかった。
わかってしまった。
伝えること。
つなぐこと。
高山さんから教えてもらったその教訓。
俺はそれを聞いて、行動を起こした。
あの時、俺の頭の中にはやり残したと思ったことが途端に浮かんだんだ。
高山さんへのお礼。
香織に、自らの正体を告げ、俺の存在を覚えてもらうこと。
……そして。
そして。
「……あたし、わかってたよ」
香織の声は、辛そうだった。
「いつかも言った。あなたはあたしの恋人だった。……だから、あなたがあのバス事故と無関係であることもわかっていた。そして、伊織の身にあなたが入っていることも」
もしかしたら彼女は今……人生初めての失恋をしたのかもしれない。
「あなたが、美玲ちゃんに惹かれていたことも」
いつか、橘さんに思ったことがあった。
あれは文化祭前日。
俺が最後に眠った日。
あの時、橘さんは明らかに俺の正体に気付いていた。
多分、一目瞭然だったのだろう。
……一年近く隣にいてくれた彼女には、筒抜けだったんだろう。
そして、香織もまた……俺の隣を一年近く歩んでくれた人。
だから……彼女にもまた、筒抜けだった。一目瞭然だった。
俺の、気持ちなんて……。
「……俺は三十五歳。彼女は十五歳。年の差は二十歳もある。ことがことなら事案で警察沙汰だ。駄目だろ、そりゃあ」
今の俺の乾いた笑みは、一体どこへ向けたものだったのか。自分でもわからなかった。
「それに、彼女は最近、伊織と付き合ったんだ。俺がここでしゃしゃり出ることは、二人の関係に水を差すことにもなりかねない。止めるべきだ、そんなこと」
自分でもわかっていた。
子供のような言い訳だって。
「……わかるよ、あなたの言い分」
香織は、同意してくれた。
「そうだろ?」
「自分のしていることは正しい。自分のしていることは間違っていない。そう思って、成り行きに身を任せる」
俺は、黙って俯いた。
「……あたしもそれ、よくしたもの。最たる例が、伊織との関係。仕事が忙しいからって伊織との関係にあぐらを掻いて、その結果大切なものを失って、後悔して……あたしはあたしを許せなくなった」
頷けない。
同意出来ない。
……何故なら。
だって。
だって……っ。
成り行きに身を任せて、後悔して……。
その行き着く先を俺は……何度も何度も……。
何度も、目の当たりにしてきたのだから。
その最たる例は……目の前にいる女性との関係だった。
……また。
また、俺は繰り返そうとしている。
嫌いだった自分。
変わろうと思う前の自分。
あの時に、戻ろうとしているのだ。
「……これくらいの後悔なら、背負って逝くよ。そうするべきなんだ」
ただ、今回ばかりは譲れなかった。
今回ばかりは、これ以上……だって、だって……っ。
橘さんを傷つけたくないから。
これ以上、俺のせいで傷つけたくないから……っ!
「駄目」
駄々をこねる子供のようなことを言ったのは、香織だった。
「いいや、こればかりは譲れない」
「駄目だよ」
「……君が決めることではない」
そう言いながら、俺もまた駄々をこねるガキのようだってことに気付いた。
子供の喧嘩。意地の張り合い。
アラフォー目前の二人がするものでは決してなかった。
「駄目だよ」
優しい声色の香織の声を聞いた途端、俺の体は温もりに包まれた。それが、香織に抱き締められたことにより生じたものだと気付くのに、時間はかからなかった。
「……だから、君が決めることではない」
「そうだね。これはあたしのエゴ」
エゴ。
ただ、香織のエゴを聞くかどうかは、俺が判断することだ。
「……なんで、そこまで話してほしいんだ」
「笑って逝って、ほしいから」
香織が俺を抱き締める腕が震えていることに、俺は気付いた。
「……あの人は、凄惨な最期を迎えてしまった。辛くて、痛くて……片腕ももげて……酷い最期だった」
あの人、が誰なのか、それは聞くまでもなかった。
「愛した人に笑って逝ってほしい。そう思うのは、当然のことだよ。例えそれが、エゴであろうと。例えそれが、他人にとっては苦しいことであろうと」
「……間違っているよ、そんなこと」
「間違っているのかもしれない」
「……俺だって、苦しむ」
「あたしがその苦しみ、一緒に背負うよ」
「……なんで、そこまで」
「あの時、高校の時……あたしは本当に毎日が楽しかった。初めてだった。人生ってものは、親から強く束縛されて、同級生から期待という重荷を背負わされる罰ゲームだと思っていた。あたしの価値観を変えてくれたのは、あなたなの。あなたがいたからあたしは、今がある。今のあたしがあるのは、あなたがいたから。あたしを形成してくれたあなたのためならあたしは、何だってやる」
震える香織の言葉には、確かな覚悟が伝わった。
率直に今の胸中を言えば、嬉しかった。
あの日、香織の婚約を知った日、俺は……香織に裏切られたと思ったのだ。
当然、あれは裏切り行為でもなんでもない。あの時には俺達は別れていた。ただ、あの時心身ともに落ち込んだ俺にそんな正常な判断をすることは出来なかった。
頭ではわかっていた。
恨んではいけない。憎んではいけない。
ただ、心のどこかで俺は……彼女との再会を夢見ていたのに比べれば随分と小さなものだったが、邪な感情を抱いていた。
そんな俺を、もう彼女は見てくれることはないと思っていた。
なのに彼女は……。
香織は……。
エゴ。
香織はそう言って、俺を諭した。それが、彼女の優しさだった。言葉通りだ。彼女は……背負う必要のない重荷を、俺のために背負ってくれようとしてくれた。
「……その言葉は、君の夫と伊織のために使ってくれよ」
俺に。
香織ともう恋仲ではない俺に。
……橘さんを愛した俺に。
香織のエゴは、受け取れなかった。
「……明日、橘さんと会う予定がある」
香織は、不安そうに瞳を揺らしていた。
「もう、遅刻は出来ないんだ……」
朝の橘さんとの電話のやり取りが、脳裏に蘇った。
「……言うかどうか、正直まだ決められていない」
頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。
「でも、成り行きに身を任せるようなことはしない」
それが、香織のため。
「選んで、決める」
そして、俺のため。
「……どんな選択をしても後悔しない。それは、俺のためであり、橘さんのためなんだと思う」
俺の意思表示を、香織はどう思ったのか。恐る恐る俺は香織の顔を覗き、ぎょっとした。
「頑張ってね」
香織は、微笑みながら泣いていた。
俺は気付いた。
今俺は、自らの意思で初めて橘さんへの想いを仄めかした。
つまり今、この瞬間が本当の……香織の失恋だったんだ。




