伝える
いつの間にか、目からは涙が溢れていた。
床にポタポタと落ちる涙は、小さな水溜りのように塊になっていた。滴る涙が、ふいに足首を冷やした。それが少し、心地良かった。
我ながら、格好が付かないなと思った。
香織に、とっくの昔から俺の存在にバレていたことも。それを今更彼女に告白したことも。言いたかったことも、声が裏返って満足に言えなくて……。
「最期に、君にキチンと伝えたかった」
それは、独白のような、言い訳のような。
「伝えないといけないと思った」
でも、それも本来は少し違う。
「……だけど前までは、時間が足りないと言い訳して君に……伝えることもなく眠りについた。終わりを迎えようとした。そうするべきだと思ったんだ。君のため。そう言い訳をして、そう勝手に決めたんだ」
高山さんに、動物のエゴを説いてもらい、知った答え。
「でも本当は、全部俺のエゴだった。君に向き合うのが怖かった。君に知られるのが怖かった。断罪されるのが怖かった。……それでも、言いたい気持ちもずっとあって。しこりのように違和感がずっと残っていた」
「だから、ようやく話してくれたんだね」
黙って、俺は頷いた。
「……ありがとう」
お礼を口にしたのは、香織だった。
当時のように……当時と少し違い、様々な一面を知った彼女が、微笑みながらそう言った。
心臓が、どきりと跳ねた。
……どうして。
「君が、俺にお礼を言うのはおかしいだろ」
口が、わなわなと震えた。
「俺は君の息子の、一年を奪ったんだ。俺のエゴのために、君の息子の貴重な青春時代を奪ったんだ。許していいはず、ないじゃないか」
「でも、あの子はあなたに恨みなんて持ってない」
香織の言葉に、俺は驚いた。
「……伊織から、聞いていたのか?」
「ううん。何も」
「……なら」
「不満があったら、あの子はあんなに毎日楽しそうに学校に通うかしら。あなたのいた形跡のある学校に、行きたいと思うかしら」
「……それは」
「あの子は、あなたに対する恨みも苦言もない。だからあの子は、学校にも毎日楽しそうに通える。あなただって、それはわかっているんでしょう?」
伊織が俺に恨みを抱いていないこと。
それは、彼が記した交換日記を見ても、明白。
ただ、伊織が許しても親である……血の繋がった親である香織が許せるかどうかは、また別の話だと思った。
「……あたしは、むしろこの一年、向き合う時間をもらえて良かったと思った」
「え?」
「前にも話したでしょう? 元々、あのバス事故は家族三人で行く予定だったところを、あたしだけ仕事でドタキャンしちゃったんだって。……一度や二度じゃなかったの。そんな話は」
いつか、俺の自殺現場に向かう車内で香織が話してくれたことを、俺は思い出していた。
「何度も何度も、あたしは仕事のためって言って、家族をないがしろにしてきた。お金のためだから。最終的にはそれが家族のためだから。そう、内心でずっと言い訳をしていた。……だから、中学二年くらいからかな。あの子と、実は少し距離が出来てたの」
あの時香織は、そのドタキャンを伊織に伝えた時、珍しく彼が反抗的だったと言っていた。それは、積もり積もった経緯があったからこそ出た発言だったのか。
「……情けない話だけど、あの子と向き合うことが怖かった。あたしがドタキャンした最悪の家族旅行で、あの子は父親の死の間際を目の前で見て、あたしを恨んでいても何らおかしくないと思ったの」
伊織に恨まれているかもしれない。
……もし、そうだとしたら。
「あの時、あなたが伊織として目覚めた時……あたしが、伊織じゃなくてあなたが目覚めたと気付いたのは……多分、少し心が壊れていたから」
最愛の夫を失い。
息子も、意識不明となり。
息子が目を覚ました時、自分に対する恨みがあったかもしれないともし思っていたら……。
それは、当時彼女もまた、伊織以外の人に目覚めてほしいと、心の中でほんの僅か……許されざることと思っていても、願っていてなんだ。
だから香織は、俺が伊織として目覚めたことを、瞬時に見抜けたんだ。
「怖かったの。伊織と向き合うことが。咎められるかもしれない。憎まれるかもしれない。そう思うと、耐えられなかったの。あなたと過ごした一年。あたしにとってそれは、旧知を懐かしむ時間であり、伊織との関係を整理するための時間だった」
「……整理は、出来たの?」
「……わからない」
香織は、苦笑していた。目尻には、僅かに光る何かが見えた。
今、香織がどんな感情を抱いているか。
散々、悩みに悩んできた俺は……それを理解できた。
香織は今、怖がっている。
伊織の気持ちを知ることを。
伊織から咎められることを。
香織は……怖がっているのだ。
香織という女性のことを、俺は生真面目で、優しくて、面倒見の良い人だと思っていた。
でも、この一年を通して、それが誤りだったことを知った。
香織という女性は、かつて俺が思っていたよりも無邪気で、子供っぽい……そんな人だった。
かつての俺は、彼女に重荷を背負わせていた。彼女に大人になることを強要し、自分はあぐらを掻いていた。
それを、いつか知らしめさせられた。
ただ、今の彼女は……まるで、俺を見ているようだった。
弱く、陰険で、怖がりな俺を見ているようだった。
……今。
ここには、香織と生涯を誓った彼の夫はいない。
彼女と血の繋がった息子である、伊織もいない。
この場で……彼女を慰めることが出来る人は、俺だけだった。
俺は、伊織の香織に対する気持ちを知っている。
彼女は言った。伊織は、自分を恨んでいるかもしれないと。
でも、伊織は香織を恨んでなんかいやしない。
交換日記に綴られてた伊織の香織に対する想いは……支えてくれていることへの、感謝だけだった。
それが、僅かなすれ違いで亀裂に生じつつあるだけ。
それだけなのだ。
でも、香織と伊織の関係性における話で、俺の出る幕はない。それは本来、二人が時間をかけて解決させていく問題なのだ。
……ただ、俺は気付いた。
その二人の問題を解決させる時間を奪ったのは。
一体、誰なのかと。
……二人の問題だから。
そう言って今、俺が彼女を慰めないことは……。
「……香織、付いてきてくれ」
踵を返して、俺は書斎を出た。背後から、香織が立ち上がる音が聞こえた。
廊下を、俺達は歩き出し……向かった先は、自室……いいや、伊織の部屋。
「伊織が目覚めたのは、四月頃。今から大体、四ヶ月前だ」
俺は言った。
「……そう」
「驚きはあまりなかった。この体は伊織の体だから。この体の人生は、伊織の人生だから。本来、彼のものに俺が介入すること自体がおかしなことだったんだ」
香織は、何も言わなかった。
「……もう、目覚めることはないと思っていた。久々に、二ヶ月ぶりに……今日、俺は目覚めた」
「……そう、だったんだ」
「……俺と伊織の移行は、もうほとんど終わっている。多分、もう俺が目覚めることはないんだ。それは恐らく、既定路線だった。ただ、目覚めたばかりの伊織に、彼が寝ている間に何があったのか。俺はそれを彼に伝える必要があると思った」
彼の勉強机に置かれたノートを、俺は香織に差し出した。
香織は最初、戸惑っているように首を傾げた。
「これは、俺達の交換日記だ」
俺がそう言うと、香織は目を見開いた。
「……言うなれば俺達は、同じ体を共有した存在。俺達はここに、他人には言えないような想いをたくさん……紡いできた」
「……それは」
「読んでくれ」
香織は、瞳を揺らした。
「……でも」
「……香織。俺は、あのバス事故について、向き合った。震えるくらい怖かったけど……向き合えたんだ」
香織は、俯いた。
「……教えてくれた人がいたんだ」
「何を?」
「向き合う勇気を」
それは、大切な人が教えてくれた、大切なこと。
「一人で向き合うこと、怖い?」
香織は、ゆっくりと頷いた。
「……大丈夫」
俺は微笑んだ。
「俺がいる」
……俺は、
「君の隣には、俺がいる」
いつか、俺を奮い立たせてくれた彼女のように、微笑んだ。
「あの時は、俺は成り行きに身を任せて……君の隣にいる権利を投げ捨てた。その資格すらないとも思ったんだ。でも今……今だけは、俺は、君の隣にいることが出来る。君を慰めることが出来るんだ」
香織は、まだ躊躇していた。
「これを読んで、もし辛くなったのなら俺が支える。もし苦しくなったのなら俺が慰める。今だけ……いいや、今更、ようやく俺は君を支えられるんだ。重荷じゃない。君のためならそんなこと、重荷でも何でもないんだよ。
だから、読んでくれ」
それが、俺の思い。
この日記を、香織が読み救われるためなら俺は……何でも出来た。
この日記の内容を、俺から伝えることは出来ない。
これは香織と伊織の問題。
だから、伊織の想いをそのまま文字として……香織は知るべきなんだ。
俺が出来るのは、あくまで橋渡しと……そして彼女のサポートだけ。
ただ、俺はそれでも嬉しかった。
あの時、ずっと支えてもらった彼女に俺は……二十年の時を経てようやく、その恩を果たせるのだから。
まっすぐ、俺は香織を見据えていた。
香織は、そんな俺の瞳に気圧され、遂にノートを受け取り、そうして読み始めた。
伊織の想いを……読み始めた。
まもなく。
香織は、嗚咽を漏らしながら、大粒の涙をこぼしていた。
彼女は多分……救われたんだろう。
「……その日記を読んだこと、伊織には黙っていてくれよ?」
「うん。……うん」
「……いやはや、まったく。君の息子は、すごい人だよ」
呆れながら、俺は言った。
彼には一体……俺や、香織も、どれだけ救われたんだろう。