言葉
名残惜しさを感じながら、俺は古書店を後にした。高山さんとはもう、会うことは二度とないだろう。彼女と過ごした古書店の入る雑居ビルを目に焼き付けた時、胸中に浮かんだ感情は上手く言葉には出来なかった。
結局、アルバイトをすることはなかったから、橘さんに付いた嘘を解消することは出来なかった。でも、そんな嘘のことはもうどうでも良かった。
高山さんに、最後に会えたことは……きっと、その場の急ごしらえの嘘よりも、大切なことになった。
伝えること。
つなぐこと。
自分より年下の彼女に教えてもらった大切なこと。
やり残し、眠りに付いたせいで消化不良によってこうして目覚めてしまった自分には、試金石になるような言葉だった。
思えば俺の人生は、ずっとそうだった。
時間がない。
勇気がない。
そう思って、きっと上手くいくと楽観的になって成り行きに身を任せて……そうして失敗を重ねてきた。
やり残したことがある内に、全てを諦めて眠りについた行為は、まさしくこれまでの俺の失敗パターン。
それで伊織に迷惑をかけたことが、少し申し訳ない。
ただ、多分……こうして失敗したからこそ、俺は決意をすることが出来たんだと思う。
俺がやり残したこと。
それは、たった一つ。
……あの時。
全ての、始まり。
踏切で自らの生命を絶った時、俺は自らの人生の絶頂期を思い出していた。
あの時に戻りたい。
そう思った。
でも、それが出来ないことはわかっていた。
時間は進むが戻ることはない。それをわかっていたから。
ただ。
……ただ、最期に。
一目で良い。
会いたい人が、俺にはいた。
それはあの時、人生の絶頂期。俺の隣にいてくれた人。
笑って、怒られて、そうして別れた大切な人。
その人と最期に会いたい。
おぼろげな意識の中、俺はそんなことを考えていた。
……別れたいと思ったことはなかった。
ただ、彼女の将来の選択を自分が邪魔をしたくないと思った。別れることが彼女のためになるのなら、別れるべきだと思った。
そういった成り行きの積み重ねで、彼女は別の人と結婚し、手の届かない人となった。
もう二度と、会うことはないと……彼女の婚約を知った時、思った。
……ただ。
もし、再会する日があるのなら。
彼女に何を言おうか。
いつも考えてきた。
二十年、考え続けて……行き着いた答えがある。
彼女と再会を果たした時、言おうと思った言葉がある。
当たり障りのない、照れ隠しのような一言を言おうと思っていた。噛まないようにと練習した言葉があった。
彼女との再会は、超常現象的な要素を含んで果たされた。
伊織の身となった今、香織にその言葉を言えるはずはなかった。
……でも。
でもっ。
……わかっている。
言うべきではない。
このまま黙って、逝くべきだ。
今更……今更、香織にそんな話をするだなんて。
伊織の身に、俺が乗り移っていた話をするだなんて。
伊織は目覚め、もうまもなく俺は消える。
それなのに今更、そんな話をすることは……ただ、波風を立てるだけ。
息子と思って愛してきた人が元カレだった。
息子が一年以上も深い眠りについていた。
俺がする行為は、香織に深い悲しみを生むだけなのだ。
そんなこと、するべきではない。
……わかっている。
でも、知ってもらいたい。
彼女に。
香織に……。
彼女と別れた二十年、俺に何があったのか。
伊織の身に乗り移って一年、俺に何があったのか。
香織に……他でもない、香織に。
それを知ってもらいたかった。
どうしてかはわからない。
知ってもらい、許してもらいたいのか。
知ってもらい、同情を買いたいのか。
知ってもらい、自分の人生に意味があったと思いたいのか。
あるいはそれら全てか。
あるいは、まったく別の理由か。
複雑に絡み合った気持ちはもう、自分でも理解出来なかった。
だからこそ俺は、最期の踏ん切りが付かなかったのだろう。
でも、しこりのように残ったこのわだかまりを解消するにはもう……。
俺が目覚めないようにするには、もう……。
また、言い訳をしている。
だけど今日は、自罰的になるこの感覚が心地よい。
いつまでも思い悩む自分に、進歩のない俺に、最期まで悩まされてきた。
でも、きっとこの性格を進歩させることは難しくなかったのだろう。
この世に生ける動物はエゴで溢れている。
だからきっと……そう。もっと、頼ればよかったのだ。
周りの人を。大切な人を。
頼って、自らの弱さをひけらかして、一緒に泣いて。一緒に笑って……。
そうすれば、俺は女々しいこの自分の性格を、少しは好きになれていたのかもしれない。
気がつけば、俺は苦笑していた。
最期が近い今更になって、こんなことに気付くだなんて。
「……本当、俺は駄目なやつだ」
そうするべきかはわからない。
ただ俺は、そうしたいからそうしようと思った。
残された時間。
やり残したと思ったその行為。
それを、伝えて、つなぐ。
その果てにある事象を俺が確認することは出来ないだろう。
誰かが泣いて。誰かが悲しんで。誰かは笑って喜ぶかもしれない。
でも、そんな自分の手のひらの上に乗らない事象で思い悩み、臆することは勿体ないと思った。
それはもしかしたら、ただの開き直りなのかもしれない。
でも、開き直った果てに俺がいた証が残せるのなら……。
ああ、そうか。
俺は多分、伝えたいのだ。
……この世界に。
ここに。
俺は、いたんだぞって。
二十年、思い悩み続けた彼女に……香織に。
それを、知ってもらいたいのだ。
……それは、エゴと呼ぶに相応しい答えだった。
家に戻ると、書斎の方から物音が聞こえた。
どうやら香織は、帰宅してきたようだ。
ただいま、も言わずに。
俺は靴を脱いで。
手も洗わずに。
俺は、書斎へ向かった。
扉をノックし、扉を開けた。
「どうしたの?」
こちらに振り向かず、香織はパソコンに向かって尋ねてきた。
今更になって俺は、香織になんて声をかけて良いのかわからなくなった。
口を開くが、声が出ない。
唇を噛み締めながら、頭の中を一生懸命整理して、言葉を紡ごうとした。
「どうしたの?」
もう一度そう言って、香織は苦笑気味にこちらを振り返った。
……少しだけ、皺が増えた。
髪も、当時は黒かったのに茶色になった。
でも、当時のまま、綺麗で、優しくて、面倒見の良いままだった。
彼女は何も、変わっていなかった。
「話したいことが……ある」
「……それは」
香織は、少し躊躇したが、続けた。
「あなたが、伊織ではないこと?」
……いつの間にか床を見ていた俺は、視線を上げた。
「……将太なんでしょ?」
……思っていなかった。
気付かれているだなんて……。
気付いていてくれているだなんて……っ!
俺はまるで……思っていなかったのだ。
「……いつから?」
「病室で、あなたが目を覚ました時から」
つまり、初めから。
「最初は確信はなかったんだけどね。……ただ、目を覚まして以降の伊織は、あなたにそっくりに見えたから。そしてその後、あなたと話す内にわかった」
香織と旦那の馴れ初めを聞いて凹んだり。
自らの自殺現場に連れられ、激昂したり。
思えば確かに、香織の行動は……俺を伊織と思ってした行為とは思えなかった。
そうだ。
今更、俺は気付いた。
……バス事故の件で香織が異常とも言える箝口令を敷いた時、おかしいと思ったのだ。
伊織にとって、眠りについたバス事故は切っても切り離せない問題。そして、いつかそれは必ず向き合わなければならない問題。
辛い現実ではあるだろう。自らの父を亡くした凄惨な事故、というものは。
でも、果たしてそれは、徹底的な箝口令を敷く程、彼に知られてはまずい話だったのだろうか。
乗っていたバスが崖から転落して乗客。……そして父が死んだ事故、というのはショッキングには間違いないが、彼女なら伊織がそれを乗り越えられることは容易に想像が出来たはずなんだ。
事実伊織は、俺が交換日記でそれを書いた時、あっさりとそれを受け入れられた。フラッシュバックは度々していると言っていた。でも、それさえも彼は受け入れられるのだ。
彼はそれくらい、強い男なんだ。
別の理由があったんだ。
あの箝口令には、別の理由があったんだ。
……その別の理由は、まさしく弱い俺のため。
俺が、あのバス事故で責任追及されている会社に所属していたことを香織は知っていたから。
そして俺の自殺の原因も、香織は知っていたから。
だから香織は、俺にあのバス事故をひた隠しにするために……あの箝口令を敷いたんだ。
事実を知った後の橘さんと同様、俺からバス事故を遠ざけたのだ。
「……ごめん」
「それは、何に対する謝罪?」
香織は、穏やかな声で微笑んでいた。
「……全てだ」
「……あたしは、あなたとまた会えて嬉しかったよ。例えそれが、息子の姿であったとしても。だから、謝罪なんてしないで。あたし達の再会が間違いだっただなんて、言わないで」
穏やかな口調ながら、香織の意思は伝わった。
そうだ。
俺だって、そうだ。
二十年引きずった恋を。
あの日の別れを。
……伊織に乗り移ってしまったことを。
俺はそれらを失敗だったと嘆いたが、香織と再会を果たせたこと自体には……喜びさえも覚えていた。
……成り行きで香織と別れて以降、俺はずっと考えてきた。
彼女と再会を果たした時、何を言おうか、考えてきた。
そして、決めたんだ。
当たり障りのない、照れ隠しのような一言を言おうと……決めたんだ。
「まさかこんな形で再会出来るだなんて、思っていなかった」
噛まないように練習していたのに、感情が高ぶって、俺の声は裏返っていた。