やり残したこと
……文化祭前日。それが、今日目覚めるより前、最後に俺が目覚めた日。もう、二度と目覚めることがないと思った日。
あの日から二ヶ月超。俺は、長い長い夢を見ていた気がする。
色んなことを見た気がする。
色んなことを、考えていた気がする。
ただ、二ヶ月超の眠りの間、俺の中の考えが改まる機会があったかと言えばそんなことはない。
俺は確かに、ひたすらに……願っていた。
俺がいなくなった世界で、伊織が……香織が、高山さんが。そうして、橘さんが。
末永く幸せに生きていければいいなって。
そう、思っていた。
伊織の時間を奪うことは望んでいなかった。それもまた事実。
この身の人生は伊織のもの。よそ者である俺が、彼の時間を奪うことはあってはならない。
ただ、邪な感情がなかったかと言えばそれも嘘なのだろう。
……でも、その邪な感情を封殺出来るくらい、俺の中の意思は固かった。
だから、二ヶ月超もの間眠りに付いた。
彼の邪魔をしないよう。
彼の人生が幸せなものになるよう。
部外者である自分は、一刻も早くこの場から消えるべきだと思っていた。
……目を覚ました時、真っ先に浮かんだ感情は罪悪感だった。
姿鏡を見て、血色が悪くなった青ざめた伊織の顔を、確かに俺は見たのだ。あれは、寝起きだからとかそんな顔色の悪さではなかった。
あれは、失態を犯した時、その罪の深さから来る罪悪感に耐えきれなかったから生じた顔だった。
……ただ。
仄かに。
僅かに。
……喜びがなかったと言えば、嘘になる。
「……追い詰めたかったわけじゃないんだ」
申し訳なさそうな声で、高山さんに言われた。
いつの間にか俺は、苦虫を噛み潰したような……渋面をしていた。
「……あたしは、他人の体に乗り移ったことはない。だから、あなたの立場になってものを考えることは多分出来ない。俺の気持ちなんて、わかるわけない。そう言われてしまったら、そうだと思う、としか言えない。でも……あたしは疑問に思うんだ」
「……何を?」
「さっきのあなたの話」
どれのことを言っているか、俺は思い当たらなかった。
「伊織のために、あなたはその体で生きてきたって話」
そんな俺の意を汲んでか、高山さんは付け加えた。
「……じゃあ、どうして俺はこの身に乗り移ったって言うんですか?」
神は、どうして俺をこの身に乗り移らせたのか。
俺の考えではその答えが、伊織のために生きるという答えだった。
「わからない」
高山さんは、わからないと答えつつ、その言葉には似合わないまっすぐな瞳を俺に向けていた。
「……でも、思う」
そのまっすぐな瞳に、俺は囚われていた。
「あなたがその体でしたことは全て、本当に伊織のためだったの?」
俺がこの体でしてきたこと。
色んなことを、この体でやってきた。
公園に監視カメラを設置した。
勉強を頑張った。
自分の生死を知るため、バイトをした。
そうして、自分が死んだことを知り、自分が犯した罪を知り。それが潔白であることを知り……。
伊織に、生きてほしいと思った。
それらは……確かに、伊織のためにしてきたことだけではない。
俺が、俺のために……してきたことだ。
あの交換日記に、伊織は書いていた。
また、俺に会いたいと。
消えたい。
伊織のために、早く消えたいとそう願ったことさえ……。
「あなたは、あなたのために、その体で生きてきたんじゃないの?」
……俺の自殺現場。
踏切の中。
おぼろげな意識の中、俺は思っていた。
死んだら、人生をやり直せるのではないかって。
そう考えて無意識に……楽しかった頃を連想した。
俺の人生は、楽しかった時間が長くはなかった。
俺の人生の絶頂期。
それは……。
……神様が、全て仕組んだことだと思っていた。
人智では成し得ない超常現象を前に、自分の力で成しえるはずのない現象を前に。
……いいや、違う。
認めたくなかっただけなのかもしれない。
神の仕組んだこと。
そう思わないと……耐えられなかったのかもしれない。
自らの業の深さに。
自らのエゴに……。
あの日……自殺の直前。
俺は……あの時、人生一番の絶頂期を思い出していた。
そして思ったのだ。
もう一度……。
もう一度……っ!
あの人に。
香織に。
香織に、会いたいって……。
そう、思ったのだ。
「……その通りだ」
震えながら、俺は呟いた。
「俺は、俺のためにこの身で生きてきた」
認めるのが怖かった。
自分のエゴを、業の深さを……愚かさを。
認めたくなくて、神を言い訳にした。神秘主義の片棒を担ぎ、中世時代のような言い訳をし、許されようと思ったのだ。
「……でも、伊織のためにこの身を明け渡したい。そう考えているのは事実。……事実なんだ」
こんな男のセリフ、一体誰が信じようか。
震える体で、俺はうわ言のように呟いた。
……高山さんは、
「わかってる」
微笑んでいた。
「……誰も、そこは疑っていない。どんな形であれ、あなたは眠っている間の伊織の代わりに、彼の人生を歩んだ。彼の人生の地盤を築いた。……誰も、伊織でさえ……あなたのことを恨んでいる人はいない。あなたに皆、感謝している」
両目から、涙が溢れた。
「……人なんて、エゴの塊だよ。というか、この世に生きる動物全部がそう。生命を奪い肉を食らう。植物を殺して消化する。生きるためにそれらがエゴでなくて何だって言うの。……エゴに溢れたこの世界で、エゴを咎められる人は本来いない。その上で、生命が成り立っているんだから」
高山さんは、苦笑した。
「あたしだってそう。……この古書店を続けるの、親族からやめろってたくさん言われた。それでも続けたの。おかげで、頑固だなんだってすごい言われるよ。
ただ、それでもあたしは自分のしたことを間違いだとは思わなかった。あなたも……伊織のためにしてあげたこと。……ううん。あたし達のためにしてくれた数々は、誇っていいんだよ」
「……ありがとう」
「……お礼を言うのは、こっちだよ」
もう一度、俺は心の中で高山さんにお礼を言った。
これまでのことでのお礼ではない。
彼女のおかげで俺は……ようやく、正しい道標を見つけた気がしたのだ。
俺が、この身に宿ったのは……神なんかではなく、自分のせい。
そうだとわかれば途端、どうして……どうして、自分が再び、この体で目を覚ましたのか、わかるのだ。
長い長い夢を見ていた。
色んなことを考えた。
二度と、目覚めるべきではないとも思った。
それでも俺は、もう一度……。
もし、もう一度目覚めたら何をするか。
誰に会うか。
何を言うか。
そんなことを、考えていた。
どうしてそんなことを考えたのか。
最期を迎えたとあの時は思っていた。だから、もう一度を夢見て思うことなんて時間の無駄なんだ。
なのに俺は……待ち望んでいたんだ。
……それは。
それは、伝えたいことがあったから。
やり残したことがあったから。
……伊織の人生の邪魔をしたかったわけではない。
ただ俺は、自分のやり残したことをしたくて、もう一度目を覚ましたのだ。
……今度こそ、笑って逝けるように。
俺はまだ……やり残したことがあるのだ。
でも、迷いもある。
それを伝えて良いのか。
そんな迷いだ。
「……動物ってどうして生きていると思う?」
高山さんが尋ねてきた。
「あたしはさ、動物は……つなぐために生きていると思うの。生命をつなぐ。子孫を残すことが、まさしくそれでしょ?
そして、人間もそれは同じだと思うの。つなぐことこそ、人の生きる使命だよ」
俺は、ただ黙って高山さんの言葉を聞いていた。
「でも……人のつなぐは、動物のそれとは少し違う。だってさ、動物は生命しかつなぐことは出来ないけど……人は、色んなことをつなぐことが出来るでしょ? 二千年前は衣食住さえ潤沢じゃなかったのに、色んな文明が進歩したのがその証拠。人類史の発展は、人がつないだ結果の現れだよ。今あたし達が持つスマホも、あなたが伊織としてきた交換日記も、それ。
……どうして人が、他の動物と異なるつなぐを出来るのか。
それは、人が伝えることが出来るからだよ。
文化を伝える。
文明を伝える。
そして、想いを伝えることが出来る。
時として、それは武器にもなるし、争いの火種にもなる。
でも、それにより救われた人だってたくさんいる。
……それが、人だよ。
あたしがこの古書店をお父さんからつながれたように。
あなたも、伝えて……つなぐべきなんだよ」
最後に高山さんは、少し照れくさそうににかっとわかった。
そんな高山さんの言葉が、ゆっくりと俺に……つながった。
「高山さん」
「何?」
「……どうやら俺は、やり残したことがあるから、もう一度目を覚ましたみたいです」
「そう」
「……そして、今。もう一つやり残したことが増えました。それはまさしく、あなたの言う伝えるべきことだ」
「……何?」
「ありがとう。……さようなら」