権利
久しぶりの高山さんとの再会は、感動の再会というわけではなかった。いつも通り。言うなれば、俺が眠りに付く前の雰囲気と、何ら違いはなかった。
「失礼だけど、あなた実年齢はいくつだったの?」
高山さんに聞かれた。
「三十五」
恥じらいながら、俺は答えた。
「あらー、年上だったの。それは……敬語、使った方がいい?」
「いりません。そうやって態度を改められると、胸に来るものがあるから。今まで通りでいてください」
「あらそう。じゃあそうする」
「居直りが早い人だ」
俺が望んだことだが、その柔軟性には少し呆れてしまう。
「三十五、か。道理で、仕事が出来るわけだ。本当、いつもすごい助かったよ」
「いいえ、自分で言うのも何だけど、考えが浅かったなあって思うところは至るところにありましたよ。もう少し、経営安定させられたんじゃないかって、時たま悩んでました」
「そこまで悩んでいる風には見えなかったけど?」
「あ、わかります?」
俺達は笑い合った。こうして伊織の身で軽口を言える人も、気付けば随分と少なくなった。
伊織が目覚めて以降、目の前に広がる世界は大きな変貌を遂げた。
クラスメイトは友好的になり。
橘さんは恋人になり。
昔と、世界は変わってしまった。そこを惜しいと思ったことはない。ただ、少し居心地が悪いと思わないわけではなかった。
「……もう目覚めることはないと思ったんですけどね。あなたにお礼を言う機会も、謝罪を言う機会ももうないと思っていた。この機会に、俺は感謝しないといけないんでしょうね」
この軽口の調子で、俺はそんなことを言った。言う気はなかった。口が勝手に動いたのだ。
途端、高山さんは目を細めた。何を言っていいのか。少し、困っているようにも見えた。
「伊織は、この職場に馴染めていますか?」
色々と、高山さんに聞きたいことは山程あった。俺が寝ている間、何があったのか。伊織以外の視点から知りたいと思った。
積もり積もる疑問から、俺は取捨選択をして、選択肢は溢れて、そうして口から漏れ出たのは、嫉妬を抱いた相手の心配だった。
「どうだろう? あたしのこと、忌避しているのはわかる」
高山さんは、少し寂しそうに呟いた。
「……忌避、ですか」
「うん。真面目なんだけどさ。やっぱりあなたと比べてしまう。あなたのおかげであたしも経理の仕事を少しかじれて、そうすると彼の仕事ぶりが少し目についてしまうの。元々、あなたと彼の事情も知らなかったからさ。前は出来てたことなんで出来ないのって、ヤキモキした部分もあった。……腹の居所が悪い時は、少し怒りそうになる時もあった。というか、怒った……かも」
「そうですか」
「本当、今更事情に気付けたら……辞めないのがびっくりだね、彼」
困り顔で、少し寂しそうに高山さんは言った。
「……俺達は、互いが寝ている間何があったかを知るべく、交換日記を書いていました。度々、俺にも……伊織はバイトを辞めたいって相談していた」
「あなたは、それになんて答えたの?」
「辛いなら、辞めてもいいと思うって」
「……じゃあ、なんで続けているんだろうね?」
「……彼、橘さんにも相談したみたいです。そして橘さんは、続けるべきだって。多分、それが理由でしょうね」
冗談めかして、俺は言った。
恐らく高山さんも、橘さんと伊織が付き合い始めたことは知っているはずだから。恋仲に相談し、それに準ずる彼はお茶目だなって笑い合いたかった。
……ただ、高山さんは悲痛そうに俯いた。
「酷いことするね。美玲も」
そして、呟いた。
「何がです?」
「……多分、あなたが知るべきじゃないこと」
「そうですか」
高山さんが気付いたことが大層気になった。ただ今の俺は、高山さんが口を割る気がないのなら、それ以上詰問する気はなかった。それよりもたくさん、聞きたいことが山程あったから。興味関心がそこに向かなかったところが大きかった。
「それよりさ。さっきあなた……もう目覚めることはないと思うって言ったよね」
ただ、聞きたいことも聞くことは出来ず、俺は聞き手に徹していてくれた高山さんの唐突な割り込みにより口を閉ざした。
「あれって、どういうこと?」
それは、今俺が最も悩んでいること。
俺は、顔に陰を落とした。
「……そのままの意味です。この体は伊織の体。俺は、あくまでこの体を借りていた身。彼はある事件がきっかけで長い眠りに付いていた。一年以上の……長い眠りです。その間……彼が眠る間、神様のイタズラか、俺はこの体を借りることが出来た。その間、色々探しました。どうしてこの身に乗り移ったのか、とか、彼に何をしてあげるべきか、とか。答えは見つかったし、彼への移行も無事済んだ。だから俺は、もう用無しのはずなんです」
用無し、という言葉が引っかかったのか、高山さんは同情したような瞳を俺に向けた。
「なのに俺はまた、今日……目覚めてしまった」
高山さんは、何も言わなかった。
「……もう、俺は目覚めるべきではないと思っていた。この身は伊織の体。この身の人生は、伊織のもの。彼が目覚めた以上、彼の人生は彼が築いていくもの」
それが俺の考えだ。
「彼の時間を奪う権利は、俺にはない」
意思でもある。
「彼の時間を奪う理由が、俺にはもうない」
……願いでもある。
「なのに、この期に及んで俺は、どうして目を覚ましてしまったのでしょうか……?」
さっきまでの雑談の雰囲気は、もうこの古書店に流れていなかった。
自罰的な俺と。
そして、悲痛そうに俯く高山さん。
無言の時間は、酷く居心地が悪かった。
「……二月振りって言ったっけ。目を覚ました時、あなたは何を思ったの?」
高山さんが、無言の時間を振り払うように尋ねてきた。
今朝目を覚ました時、俺は何を思ったのか。
「……彼の時間を奪って、申し訳ないと思った」
「本当に……」
食い気味に、高山さんは言った。
「本当に、それだけ……?」
高山さんの言葉に、俺は瞳を揺らした。