二人目
交換日記を読み終えて、俺は人心地付いていた。寝ている間に、色々あったんだな。橘さんの電話を受けた時から思ったことだったが、伊織のおかげで明確に何があったか理解することが出来て、余計にそう思った。
椅子に腰を深く落として、天井を見上げながら目を閉じた。
時計の針の音が、チクタクと聞こえた。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
余韻に浸っている暇がないことを思い出したのだ。伊織のため。俺が繋ぎ、築いた伊織の周りの人のため。
俺は一刻も早く、この体を伊織に返さないといけないのだから。
自室を出ると、家の中はもぬけの殻かと言うくらい静まり返っていた。
リビングに降りて、暑さがたまらなくなって、クーラーを付けて、テレビを点けた。
『○□県で起きたバス脱輪事故を始め、同社の設計したバスにてリコール隠しを行った△△重工本社で、本日家宅捜索が行われました』
テレビでは、俺の死に繋がる原因となったバス事故の続報が報じられていた。
時間が許す限り、この事件の続報は調べていた。二ヶ月前だと、丁度社長が△△重工に名誉毀損を訴える方針を固めるところだったはず。
この二ヶ月、この事件も急速な進展を見せていたらしい。
ただ、今となるとこの事件の続報もあまり俺の興味を唆るものではなくなっていた。
不正を行った人は報いを受けてほしい。その気持ちはあるが、それ以上の感情があるかと言えば、それはなかった。
ただ、このニュースを見てはっきりとした。
香織が今、家にいないのは、遺族の会として記者会見でも開いているか……とにかく、この事故絡みで駆り出されているからなのだろう。
ならば、どこに行くべきか。
橘さんに会うかとも考えたが……伊織との時間を紡ぎ始めた彼女に会うのは、水を差す行為のようで気が引けた。
手持ち無沙汰になった俺は、クーラーが効き始めた部屋で、ソファに腰を落とした。
……まもなく、俺は気付いた。
伊織はまだ、高山さんの経営する古書店でアルバイトをしている。
そして、高山さんと橘さんは親戚関係。
俺はさっき、橘さんにアルバイトを理由に今日のデートを断ったが、それが嘘であることはすぐにバレてしまうことではないか。
「……古書店に行くか」
嘘がバレるなら、嘘を本当にしてしまえばいい。
そう思って俺は、真夏日だろう外に出る決心を固めた。
家の扉を開けると、セミの鳴くやかましい声が耳に届いた。
夏を迎える度、やかましいと思っていたこの鳴き声。俺は後何回、この声を聞くことが出来るのだろうか?
駅までの道。
駅のホーム。
そして、橘さん宅の最寄り駅。
古書店。
「こんにちはー」
古めかしいエアコンの轟音が、店内のBGM代わりだ。
奥の居間から、キーボードを叩く音が聞こえた。ただ、返事はなかった。
「いるならいるって、言ってくださいよ」
「……んー」
高山さんは、呆れる俺を他所に仕事に集中していた。
「どしたの。今日は、バイトの日じゃなかったでしょ」
「……あー」
考えていなかった。
俺は唸って、言い訳を考え始めた。
「……サビ残?」
「何。こんな寂れた古書店を潰す気? あたし、いつの間にか私怨を買ってた?」
「いや、ここを潰す気は更々ないです」
「え、じゃああたし個人への復讐?」
「なんで俺から恨みを買ってる前提で話をするんですか」
俺は苦笑しながら、勝手に居間に上がり込んだ。向かいに置かれたパソコンを開いた。
「……ちょっと、作業の進捗が芳しくなくて、暇だったので来たんです」
「えー。なら美玲とデートでもしてなよ」
「なんでそこで橘さんが出るんです」
「いや、あんた達付き合ってるからでしょ」
「……そうでした」
少し、浦島太郎にでもなった気分だった。感情は吹っ切れたが、現状にはまだ慣れない。
「美玲がな……きはしないね。ただ、両頬は思いっきりつねられるかも」
「あー、想像出来ます」
「弱味、一つ握っちゃったね」
「大したものは引き出せないですよ」
「じゃあ、出世払いだ」
「がめつい人だ」
アハハと笑って、俺はパソコンの画面に集中した。
ここでのバイト、伊織は俺から引き継ぐ形で経理の仕事をしている。交換日記でも度々、その仕事に付いて相談されてきた。
ただ、高校生にこの仕事はさすがに……荷が重いと思っていた。
パソコン作業も高校生レベルとなれば、それも一層辛い要因だと思えた。
伊織もここのバイトを辞めたいと思っていたようだが、仕事振りはそこまで順調そうではなかった。
折角、今日は俺が目覚めたんだ。
彼の分まで働こう。
それからは高山さんを放って、俺はしばらく仕事に向き合った。
「……ねえ、さっきの出世払い、なしにしてもいい?」
「え?」
「今、あなたに聞きたいことが出来ちゃった」
仕事を進めたかったのだが、雇用主の指示であれば仕方ない。
俺はキーボードから手を離して、高山さんを見た。
高山さんは、いつにもまして落ち着いているように見えた。
「あなたは、一体誰?」
ドキリとした。
「何がです?」
「いや……さすがに、仕事振りが違いすぎるよ」
……確かに、そうか。
雇用主として、彼女は二人きりで一年以上、俺の仕事振りを見てきた。そして、この数ヶ月は伊織の仕事振りも見てきた。
さすがに、気付くか。
「今日のあなたは、最初に会ったあなた。昨日のあなたは……また別の人」
「違いますよ」
「いや、さすがに誤魔化せないよ」
「……昨日の彼が、この身の主です。俺が……言うなれば居候」
誤魔化しようはあったと思う。
無能で発信力だけがある政治家よろしく、相手が呆れるまで阿呆になればなんとかなったと思う。
ただ、そこまでしようと思わなかったのは、彼女にならバレても構わないと思ったから。
そして、仕事以外で付き合いの薄かった彼女が俺を見つけてくれたのが、少し嬉しかったから。
「……そっか」
「お久しぶりですね、高山さん」
「うん。久しぶり」
俺達は、優しく微笑みあった。