独白
俺が目覚めなくなって二ヶ月超。
伊織からすれば、もう俺が目覚めないと思ってもおかしくないくらいの時間が経過していたと思う。
ただ彼は、当時と変わらず交換日記を毎日欠かさず書いていた。一冊目は、俺が大半の頁を埋め尽くした。ただそれ以降の日記はほぼ伊織が埋め尽くしてくれた。
最初は、彼が寝ている間に何があったのかを教えるための交換日記だった。ただ、いつの間にかこれは、彼が俺に何があったのかを教える日記に変わり果てていた。
遠くで時計が針を刻む音が聞こえた。
一頁一頁、俺は噛みしめるように伊織のきれいな文字を読み耽った。
そして俺は、文化祭の日、伊織と橘さんが二人で学校を巡ったことを知った。
『橘さんのこと、最初は怖い人だと思っていたんですが、あなたの言う通り、誤解だったみたいです』
伊織の素直な胸中が、日記には書かれていた。
それから、二人はどうやら腐れ縁のような間柄になったらしい。その頃になってようやく、橘さんは俺との約束のためか、伊織との距離を縮めたようだ。
文化祭終わりから一週間程経った頃、業務連絡のような内容が多かった交換日記の内容に、変化が生じていた。
明らかに、日記に橘さんの登場回数が増えたのだ。
『今日、橘さんに誘われて二人でアイスを食べに行きました。ショッピングモールに入った新しいアイス屋です。なんでも、彼女の妹さんが今度そこに行ってみたいと言っているようで、下調べを兼ねてだったみたいです。彼女はストロベリー。俺はチョコミントを頼みました。彼女は、チョコミントは歯磨き粉を食べているみたいで受け付けない、と言っていました。でも、一口食べさせてみたら、意外と美味しいって不服そうにそっぽを向いて、それがとてもおかしかったです』
まるで、普通の学生カップルのデートだ。
それが、率直な俺の感想だった。
微笑ましいやり取りに、俺は苦笑した。
『今日は、アルバイトまでの道を橘さんと二人で歩きました。アルバイトの件は、あなたにも相当お世話になったのですが、未だに高山さんが少し苦手です。帰り道、そのことを橘さんに相談したら、それでも続けるべきだと彼女は言いました。少し、意外でした。彼女はもっと放任主義な人だと思っていたんです。だから、熱意を持って迫られると思っていなくて、結局今でもあそこでバイトを続けています。その代わり、橘さんと一緒に帰るようになった感じです。そう考えれば、意外とアルバイトに対する嫌気も減るだなんて、言ってはいけないんでしょうね』
伊織が高山さんを苦手にしていることは俺もこの日記を通じて知っていた。
一度、伊織にもこの日記越しにそれを相談されたこともあった。
その時俺は、伊織に辞めたいなら辞めても構わないと伝えた。そもそもあそこは、俺が自分に何があったかを確かめるための資金集めの場所だった。
目的が果たされ、それが伊織の重荷になるなら続けてほしいとも思っていなかった。
ただ、橘さんが頑なだったのは、彼の言う通り少し意外だった。
いやでも、立ち向かう勇気を俺に説いた彼女なら、向き合う間もなく放り捨てる選択を取ろうとした伊織が許せなかったのかもしれない。
俺は交換日記を読み進めた。
そして……。
『今日、橘さんに告白しました』
三冊目の最後、日付は一ヶ月前。
俺は、伊織の独白を見つけた。
『彼女のことを好きになるだなんて、最初は一切思っていなかった。堅物で、口数が少なくて、何を考えているのかまったくわからなかったんです。多分、その認識が更新されることはありませんでした。彼女はやっぱり、堅物で口数が少なくて、時々、何を考えているかわからない。第一印象で人の性格がわからないなんて、嘘だったんだってその時は思いました。でも、好きになることがないと思った人を、好きになる日が来るだなんて思ってもいなかった。彼女は堅物だけど、恩義に厚かった。彼女は口数は少ないけど、いつだって正しいことを言っていた。彼女は、何を考えているかわからないけど、とても優しかった。そんな彼女に、いつの間にか俺、惹かれてしまったんです。
ただ、結果は振られました』
振られた。
さっき橘さんは、電話で伊織との恋仲を示唆した。
交換日記の内容と、話が噛み合わない。
『でも、諦めることはないと思います』
ただ、頁の最後に書かれたその一文を見て、納得した。
諦めない。向き合う勇気を彼女に示された結果、伊織もまた、意中の人と付き合うことが出来たわけだ。
交換日記四冊目の、早い頁のことだった。
『今日は、何を書いていいかわからないです。思考がまだまとまっていないんです』
それが書かれた頁は、伊織の浮足立つ感情を示すかのように、しばらく黒塗りで文字が潰されていた。
ああでもない、こうでもないと書き直したのだろう。
『今日、いきなり橘さんに放課後呼ばれたんです。そして、色々言われました。悪い話ではなかったんです。基本的には謝罪で、あとはお礼。あたしのことなんかを好きになってくれてありがとう。いつもの彼女らしくなく、儚げに頭を下げる彼女の姿が、未だに脳裏の裏に焼き付いています。それから俺達は、しばらく体育館の裏で話をしました。取り留めて特別な話はなかったです。本当です。
それで、いきなりでした。
あたしと付き合ってくれませんかって、彼女から逆告白されたんです。
それから先のことは、正直あまり記憶にないです。舞い上がっていたんです。と言うか、今でもそうです。
何を言っていいかわからなかったです。聞きたいことはたくさんあったけど、とにかく、言葉に詰まったんです。
ただ唯一、俺、彼女の告白に承諾していました。
これは、俺達は恋人になれたってことでいいんでしょうか? 未だに半信半疑で、わからないです。どうすれば、いいんでしょうか?』
伊織のそんな質問に答えてくれる大人は、多分いなかっただろう。
それに答えをくれる人は、橘さんしかいないのだから。
次の頁、伊織はまだ舞い上がりながらも、橘さんに再度確認をしたらしい。
喜びの感情が滲む彼の字を見ていると、俺は優しい微笑みを浮かべていた。
彼の身を借り、彼として一時俺は生きた。
二十歳差あるそんな彼のことを、心のどこかで我が子のように思っていた部分もあるのだ。
そんな彼が意中の人と結ばれて、嬉しくないはずがない。
ただ……彼の意中の人が、橘さんになってしまったことは、どうしてか少し喜べなかった。
さすがに、今自分がどんな感情を伊織に抱いているかは、わかる。
二十歳も下の我が子のようだと思った彼に、俺は今、嫉妬の感情を抱いていた。
交換日記四冊目の最終頁を、俺は捲った。
『この交換日記も四冊目が終わりました。母さんに似て、あまり継続性がない人間だったので、まさか自分がここまでこの日記を欠かさず書き続けることになるとは思いませんでした。もう、これが交換日記と呼べるのか、わかりません。ただの日記なのではないかと思うところも、少しあります。でも、俺はいつもこの日記を誰かに宛てて書き続けている。
それは多分、もう一度、あなたと交流をしたいと思っているからです。
あの日、俺はバス事故で父を失いました。一年以上の歳月を経て目覚めて、自分の置かれた状況を呪いました。
最初目覚めた時、ベッドの上で毛布にくるまりながら何度も思ったんです。バス事故の光景がフラッシュバックしていたんです。
どうして俺がこんな目に遭わないといけない。
こんな悪夢、早く覚めてくれ。
もう、二度と目覚めたくない。
そんなことばかり、考えていました。次に目を覚ました時、俺は机に置かれたノートを見つけた。
未だに、あの日のことがフラッシュバックすることはあります。そんな時、俺を支えてくれるのは、母さんであり、クラスメイトであり、橘さんです。
あなたが俺に代わり、繋ぎ、築いてくれた人達なんです。
あなたともう一度会いたい。
会って、この日記を通じて交流したい。
お礼が言いたい。
俺はいつまでも……多分、おじいさんになっても、この日記を書き続けると思います。
だから、どうか、もう一度、あなたに会いたいです』
「……アハハ」
我ながら、俺は最低な奴だと思った。自嘲気味に俺は、笑った。
俺のしてきたことなんて、自分のための行いばかり。独りよがりな行動ばかり。
それのせいで、彼に迷惑をかけた部分だって多大にある。
なのに彼は、こんなにも……こんなにも、俺を慕ってくれた。
そんな彼に嫉妬の感情を向けた自分が、酷く情けない。
俺よりも断然、彼の方が……ふさわしいではないか。
また俺は、後悔を繰り返している。
……息子同然に思った相手を裏切り、後悔をしていた人を俺は知っている。
『……悔やんでも、醜い感情を抱いても、先には進むことは出来ないですよ』
そんな人に俺は、そんな言葉をかけていた。
俺は知っているはずなんだ。
悔やんでも、先には進めないことを。
醜い感情を抱いても、良いことなんてないことを。
繰り返す自分が情けないと思う。
ただそれと同時に、これ以上それで悩もうと思う気持ちはなかった。
もう、大丈夫だ。
俺は再確認した。
もう、大丈夫。
伊織も、香織も……そして、橘さんも。
きっと、伊織がなんとかしてくれる。
俺よりも断然、大人で優しくて、頼れる彼がなんとかしてくれる。
後、俺がすべきこと。
それは、少しでも早く、彼にこの身を返すこと。
……ただ、困った。
文化祭の前の日。
最後に俺が眠った日でさえ俺は、もう俺の役目なんて失くなったと思っていた。
生きる意味がなくなったと思っていた。
……後、俺は一体、この身で何をすればいいのだろう?
日記を通じて語り合う。こういうのが書きたかった。なんで書かなかった?と聞かれると答えられない。
じゃあ言うなって話である。
強いて言えば、テンポが悪いってことくらいか。