目覚めた
なんか前話の後書きが終わりっぽくなってるが、まだ終わらん
昔から隙間時間には自分の世界に浸ることが多かった。授業の合間、仕事の合間、出張先へ向かう電車の中。スマホをいじりながら、ふとした拍子に窓から射す眩い陽の光に目を細めがら、目が離せなかった。考えに耽っているせいか。もしくは昔から、姿を変えた後にも、唯一変わらないそれに旧知を見たからか。答えは未だ、わからない。
最近の俺の隣には、いつも橘さんがいた。
可憐で、世話焼きで、時々天邪鬼な少女と二人で、これまで一体何度彼女の家までの道を、アルバイト先までの道を、優香ちゃんを迎えに行くまでの道を、歩いたことだろうか。
俺達の交わした会話は、取り立てて面白いものばかりではなかった。
どちらかと言えば、内輪でしか盛り上がれないような、しょうもない話が多かった気がする。
そんな話をする度、最初は苦笑気味に話を聞いていた橘さんは、俺があまりに冗談ばかり言うから徐々に不機嫌になって、最後は頭を軽く叩かれる。それが、俺達の間ではお決まりの雑談だった。
あの時間が嫌いではなかった。
でも時々、今みたいに一人の世界に入り浸る時、俺は思った。
もし今、俺が伊織でなかったら。
もし今、俺が俺だったら。
もし俺が、佐伯将太として橘さんと出会えていたら。
俺達を取り巻く世界は、どのように変わっていたのだろうか。
考えて、真っ先に思うことは年齢差。二十歳以上離れた俺達が仲睦まじげに話す現場をもし一般人に目撃されたら、事案として警察を呼ばれるだろうと思って、俺は苦笑してしまう。
であれば、もし俺達が出会うとすれば、人目を憚らなくて良い場所か。はたまた自宅か。
どこまで行ってもやはり犯罪臭がして、俺達の出会いは俺が伊織だったからこそ起きたことなのだと再確認させられた。
俺が伊織の身で生活した一年と少し。
神が、一体どういう意図で俺にそんな罰を与えたか。
今では深く、理解をしているつもりだ。
ただ、そんな罰を鑑みても俺は……神の成した運命のイタズラを悪いものだと捉えてはいなかった。
橘さんと出会えたように。
伊織になれたからこそ出会えた人が、たくさんいる。
クラスメイト。
菅生先生。
そうして、香織。
二十年前、俺は成り行きに身を任せて、香織と別れた。上京を理由に別れ話を告げられて、断る言葉が明確に浮かんでこなかったのだ。
漠然と、俺も上京して彼女を追いかけようと思った時期もあった。
彼女の通っている大学は知っていたし、その近場の大学に通って、ひょっこり姿を見せたら、彼女も驚き、喜んでくれるのではと思ったこともあった。
でも、それが瓦解するのは一瞬だった。
もう二度と、香織と会うことはないと思った。
もう一度会った香織は、あの時と同様に美しくて、ただあの時よりも少しおどけて見えた。
あの時、俺は香織と再会を果たしたら言おうと思っていた言葉があった。
当たり障りのない、照れ隠しのような一言を言おうと思っていた。噛まないようにと練習した言葉があった。
でも、事情が事情で、その言葉は結局言えずじまい。
でも、それを悲観的に捉えたことはなかった。
俺は、嬉しかった。
香織と再会を果たせて。
香織と彼の旦那との馴れ初めを聞けて。
そして……。
『あたし達、恋人同士だったんだもん』
未だ、俺のことを信用してくれていて。
ただ、ただ……嬉しかったんだ。
……でも、一つだけ香織との間に……やり残しはあった。
でも、もう時間がなかった。
いつだってそうだ。
やりたいこと。やらなきゃいけないことは矢継ぎ早に思いつくのに、それをこなすには絶対的に時間が足りない。
だから人は、すべきことを取捨選択して時間を過ごす。
大切なことをやり残したことさえ忘れて、後悔さえ忘れて先へ進む。
そうして終わりを迎えた時、後悔してしまうのだ……。
内心、ほんの少しだけ思っていることがある。
ただそれは、口に出すことは到底出来ない。
思ってもいけないとすら思っている。
でも……どうしても、考えてしまうのだ。
口にも出さず、思わず……それでも、それでも。
もう一度、目覚めたいだなんて。
深い深い眠りの中、薄弱な意識の中……俺は確かに、そう思っていた。
瞼の裏、熱いくらいの陽の光に、俺は目を覚ました。
随分と長い間、眠っていた気がする。覚醒しきっていない頭を起こすように、気だるい体をゆっくりと起こした。
そうして俺は……。
「どうしてっ!?」
声を、荒らげた。
脳はすっかり覚醒していた。
ただそんなことより、現状に汗が止まなかった。
どうして。
どうして……。
姿鏡に映った俺は、伊織の姿をしていた。
そんなはずはない。
あの時、あの日……もう俺は、この身で生きる意味をなくしたはず。
もう、俺が伊織として生きる意味はなくなったのだ……!
なのに、どうして俺はまだ伊織の身に乗り移ってる。
現状に、寒気を覚えた。
エアコンの効いていない部屋はまるで真夏のような蒸し暑さだった。
ふいに、枕元にあるスマホに気付いた。
スマホの画面を灯すと、今日の日付が映し出された。
「八月!?」
俺が最後に起きた文化祭前日は、五月の頃。
実に二ヶ月超、俺は眠りについていたようだ。
……だったら。
だったらやはり、間違っていなかった。
もう、俺は目覚める理由がなかった。
もう、俺は伊織として生きる必要はなかった。
神も、それを承知で俺を眠りに付かせたんじゃないのか。
なのに、どうして俺はまだ伊織の身で生きている。
考えがまとまらず、思考は悪い方へと流されつつあった。
丁度その時、スマホが鳴った。
俺は掴んでいたスマホを、思わず宙に放っていた。
ベッドに落ちたスマホの画面が、見えた。
そこには、『橘さん』と表示されていた。どうやらスマホは、橘さんからの電話で鳴ったようだ。
見知った名前に、俺は気付けば電話を取っていた。
「……もしもし」
『あ、伊織?』
心臓がドキリと跳ねた。
橘さんは俺のことを伊織と呼んだことは、一度もなかった。
『今日、暇? 暇なら付き合ってほしいんだけど』
返事は出来なかった。
……俺が知る二人の関係は、険悪なものだったはず。
なのに、目が覚めたら随分と変わったようで、混乱してしまったのだ。
「ごめん。今日はちょっと……」
今は、橘さんとでさえ会うべきではないと思った。
とにかく、現状を整理したいと思ったのだ。
電話越しに、橘さんの不貞腐れる唸り声が聞こえた。
『何よ。彼女の誘い、断るの?』
……驚きは、あまりなかった。
二人の相性は、悪いとは思っていなかったから。
「ごめん。急なバイトが入ってさ」
『……わかった。じゃあ、明日ね』
「あ、明日?」
『だめ?』
「……駄目では、ないよ」
『そう。……じゃあ、今度は遅刻、しないでよ』
電話を切って、俺はベッドに倒れ込んだ。
……俺は、こうなるべきだと思っていたはずなんだ。
二人が、仲睦まじくなることを、俺は願っていたはずなんだ。
なのに、心臓がチクリと痛い。
ため息を吐いて、俺は勉強机に向かった。
机には、五冊目と書かれた交換日記が佇んでいた。
ここに来て脳を破壊しようとする奴