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徒然生きて  作者: 梅野飴
6/7

たんぽぽ

 近頃少し長くなった陽が、それでも沈もうとする頃。子供の頃に何度も通った河川敷を私は歩いていた。 夏が近づいてきているとはいえ川沿いの夕暮れはまだ微かに空気が冷たい。体を包む薄手のカーディガンを風が通り抜けて季節を肌に伝える。

 この時間帯の河川敷には多くの人が行き交う。走るおじさん、歩くカップル、跳ねる犬、自転車、遊ぶ子供。そして私は一人歩く女だ。悲しみと後悔に苛まれながら。

 川のほとりに備えられたベンチに腰をかける。ずっと昔にも座ったベンチ。暗めの色の春らしくないカーディガンの袖に何かがひっついていることに気づいてつまみ上げる。たんぽぽの綿毛だった。




 たんぽぽがうちにやってきたのは私が10歳。小学五年の春だった。その年の4月、父が35年のローンで念願の一軒家を建てたおかげで私たち家族は団地のあの狭い部屋から脱することができた。私はせっかく一軒家にきたのだから犬が欲しいと両親にせがんだ。ここぞとばかりにせがみ倒した。なにせ幼い頃から母はいつも『ウチは団地だから飼えない』と言い放ち何度も私の要求を突っぱねてきたのだから、その団地という枷が無くなったこの機を逃してなるものかと私は不退転の決意のもと改めて要求を重ねた。

 

 しかし母の返事は渋かった。やれ世話はどうするだの吠えるのは困るだのありていな理由を並べのらりくらりと私の要求をいなし続けた。10歳の私の交渉力では母には歯が立たず敗色の匂いが漂い始めた5月の土曜の昼、父がこっそりと私の部屋にやってきた。

 

 「今からここに行こう」

 

 父はいつもより少し小さい声でそう言うと、私の前に一枚の手作り広告を差し出した。その広告には『仔犬譲ります』といった旨の文言と連絡先、そして隣町の家の住所が記載されてあった。

 

 「えっ!?ほんとにいいの?お母さんは?」

 

 私は驚きのあまりつい大きな声で尋ねてしまった。父は焦ったように口に人差し指を当てるジェスチャーをする。そして声をひそめ「お母さんには適当に理由をつけて二人で出かけよう。大丈夫。連れてきちゃえばこっちのもんだよ」と言っていたずらっぽく笑って、私の肩をポンポンと叩いた。

 そして、期待と不安の入り混じる瞳で父を見上げる私に父はさらに付け足した。

 

 「お母さんだって本当は動物大好きなんだから」


 車が走り出してからの私にはもはや不安はなかった。今から出会う新しい家族のことで頭がいっぱいで助手席から父を質問攻めにした「何犬かな?」「仔犬ってどれくらい?小さい?」「男の子?女の子?」父はその度適当に返事をしてくれたが、よく考えてみれば父だって広告に記載されている以上の内容など知るわけもないのだ。

 

 「まあ、雑種だとは思うよ」

 

 「雑種かーそうかーかわいいかなー」

 

 「かわいいいよそりゃ。仔犬だもん」

 

 「かわいいよねー仔犬だもんねーえへへへ」

 

 私は顔をだらしなくニマニマ緩ませて父の方を見る。父もそんな私を見て嬉しそうに笑う。そんなだらしない顔の親子を乗せた車はついに念願の仔犬の待つ家へと辿り着いた。

 

 父がチャイムを鳴らす。


 「すいません。先程仔犬の件でお電話したものですが……」


 あっ、はーいちょっと待ってくださいねー。と、インターホン越しに女性の明るい声が響く、そしてその後ろからキャンキャンとたくさんの鳴き声。それを聞いた私の胸は期待でいっぱいで、サンタさんからのプレゼントを開ける瞬間のようだったのを今でも覚えている。

 

 数十秒後、玄関のドアが開いたと同時にたくさんの小さな、それはそれは小さな犬たちが飛び出し父と私を取り囲んだ。かわいい!かわいい!小さい!みんなしっぽ振ってる!しっぽも小さい!1、2、3……6ひきかな?茶色いのも白いのもいる!かわいい!!

 私はしゃがんで仔犬たちに挨拶をする。そのうちの1匹が私の顔を目掛けて飛びついてくる。勢いに負けて思わず尻餅をつく。その様子を見て父と、犬たちに続いて玄関から出てきたおばさんが笑う。

 

 「7匹も生まれちゃってどうしようかと思ってたんですよー。よかったわ貰ってくれる方がいて」


 「いやうちも家を建てたばかりでちょうどよかったですほんとに」


 父とおばさんが色々と会話をしている間。私はその家の庭で仔犬達とじゃれながらどの子にしようかと観察していた。とびきり元気な子、毛が茶色い子、まだら模様の子、人懐っこい子、どこか明後日の方向を見ている子、どうしようみんなかわいい。みんな連れて帰りたい。でも流石にお母さん怒るだろうな。どうしよう。うーん。


 「どうする?どの犬にするか決めたかい?」


 「うーん。一匹だけ……だよね?」


 「何匹も連れて帰ったら父さん、母さんに殴られちゃうから」


 「パパごめんね」


 「いやだめだぞ。謝ってもだめだぞ。一匹だけだ」


 「くそっ」


 そんな冗談を言いながら私が首を捻っていると、家の中の方から女の子の声がした。


 「お母さんこの子もおるよー」


 そう言いながら玄関から庭に出てきたのは私より少し年上の中学生くらいの子だった。両手で小さなわたあめを抱えていた。

 いや、わたあめじゃない。犬だ。仔犬だ。目がとろんとして今にも眠りそうなのか今起きたのかわからないがとにかくぼーっとしている。もはや犬というより真っ白でふわふわの毛のかたまり。そういう生き物に見える。


 「その子にする」


 なぜかはわからないが考える間も無く言葉にしていた。おそらく人生で初めての一目惚れだった。


 「じゃあどうぞ。抱っこしてみて。優しくね」


 私より少しだけお姉さんのその子から仔犬を受け取る。初めて腕に抱いたその子は、想像よりずっとふわふわで今にも飛んでいってしまいそうに儚くて、たんぽぽみたいだった。



 たんぽぽがやってきてからの我が家は以前に増して賑やかだった。お母さんは私に抱かれたたんぽぽの顔を見たら驚きながらもあっという間にメロメロになった。お父さんは叱られていた。仔犬のうちはリビングでケージに入れて飼っていた。夜泣きがひどく、毎晩私がケージの隣に布団を敷いて寝てあげた。


 学校から帰るといつも真っ白な短い尻尾をぷりぷりと振り回し私を待っていた。ランドセルを放り出したんぽぽを連れて公園に行った。田んぼの間を走った。河川敷でボール遊びをした。たんぽぽは平均的な犬よりボール遊びがずっと下手で、すぐにボールを見失っては困ったように私を見た。たまに上手くキャッチできてもなぜかボールをその場に置いて、私の元へと嬉しそうに駆けてきた。多分あまり賢い子ではなかった。雨の日も、風の日もたんぽぽと遊んだ。台風の日に学校が休みになったのをいいことに、お昼にたんぽぽと外に行こうとしてお母さんに叱られた。


 一度だけ河川敷でたんぽぽを見失ったことがあった。私が投げたボールが背の高い雑草の茂みに入り、探しに行ったたんぽぽがそのまま戻って来なくなった。私は慌てて茂みをかき分け何度も大声で名前を呼んだが見つからず、パニックになった。

 家に戻ってお母さんに言って一緒に探してもらわなきゃ、でも家に戻る時間があったらたんぽぽを探したい。あと多分リード外して遊んでたことを怒られる。どうしよう。もうすぐ辺りは暗くなる。夜になったら本当にもう見つけられないかもしれない。もう二度と、たんぽぽに会えないかもしれない。そんなことを考えていたら悲しくなった。とてもとても悲しくなって歩けなくなった。幼い私は道の途中にあるベンチに座り泣いた。そんな私を夕日は残酷なほど綺麗な橙色で照らしていた。

 

 わん。と、聞こえた気がした。わん。もう一度、いや気のせいじゃない。私はハッと顔を上げた。どこ?慌てて左右を見渡すと、泣いている私の3メートル右にたんぽぽがいた。顔を泥だらけにして、白い毛にいっぱいひっつき草をつけたたんぽぽが私を見つめていた。足元にはボールがあった。

 

 「たんぽぽ!!」私が叫ぶと口でボールを拾って、なぜかまた足元に置いて、私の方へ駆けてきた。夢じゃない。たんぽぽだ。また会えた。泥と草で汚れたたんぽぽを抱き上げる。顔をぺろぺろと舐められた。臭い。間違いない。たんぽぽだ。私を見つけてくれたんだ。

 

 その日私たちは汚れたまま家に帰って結局お母さんに叱られた。


 ほとんどポメラニアンだと思っていたたんぽぽが中型犬くらいのサイズになって、鼻が少し伸び柴犬のような顔になってきた頃、私は中学生になっていた。テニス部に入って帰りが遅くなったこともあり夕方の散歩は母が担当になった。朝は最初からずっと父が担当だった。

 放課後は部室にカバンを放りただただテニスに明け暮れた。玄関先にお父さん(こしら)えた小屋が定位置となったたんぽぽは、どれだけ夜遅くても、私が疲れていようともお構いなしに尻尾を振って飛びついた。私は段々とそれを適当にあしらうようになっていった。制服に犬の毛がひっついていることを友人に指摘されて恥ずかしかった。受験前の大事な時期に外の何かに向かって吠えたぐるたんぽぽを二階から怒鳴りつけた。いつの間にもう一緒に散歩に行くことはなくなっていた。


 県外の大学へと進学したことを機に私は実家を出た。引っ越し当日、玄関を出ようとする私に母が「最後なんだしたんぽぽと散歩してきたら」と言ってくれたが、その日のために新調した春物のスカートに毛がつくのが嫌で断った。散歩という単語に反応して無邪気に尻尾を振るたんぽぽの頭をひと撫でし、また今度ね。と小さく呟いて私は家を出た。たんぽぽはその日までと同じようにずっとずっと尻尾を振って私を見送っていた。

 

 それから実家へ帰省したのは年に何度くらいだっただろう。大学の長期休暇には義務的に帰っていたが、県外での生活に馴染むにつれちょっとした連休くらいでは帰らなくなった。その度にたんぽぽは変わらずその白い尻尾をぶんぶんと振り回し私を出迎えた。母曰く、私が到着する数分前にはもう私の匂いを見つけて尻尾を振って玄関先でおすわりをしていたそうだ。


 卒業後、私はそのまま大学のあった県で仕事に就いた。実家にはますます帰らなくなっていった。別に両親と仲が悪いわけでもない、大人とはそういうものだろう。

 

 23くらいの頃か、正月に帰ると出迎えたたんぽぽが少しだけ小さくなっているような気がした。

 

 「その子ももう歳なのよ」

 

 本人も少し背が丸くなった母が、たんぽぽの頭を撫でる私にそう言った。そうか、もうそんなに経ったのか。あんなに小さかったのに。不思議な気持ちだった。赤ん坊のようだったたんぽぽがいつの間にか私を追い越している。とはいえ、その日もたんぽぽは誰よりも早く私を見つけ、大好きなジャーキーを齧り、子供の頃学校へ登校するときと同じように、私がこの家を出たあの日と同じように、無邪気に尻尾を振って私を見送った。まだまだあの様子じゃ十年は生きるんじゃないかなと感じた。


 たんぽぽの具合が良くない。と母から知らせを受けたのは去年の春だった。私は、例年と同じく盆に帰る予定だったがGWに帰省した。15歳になったたんぽぽは私が帰ってきたことに気がつかなかった。でも古びた犬小屋の前で屈んで名前を呼ぶとのそのそと出てきて嬉しそうに尻尾を振っておわりをした。私は頭を撫で、顎を撫で毛をわしゃわしゃとした。たんぽぽの白い毛は私の記憶より少し汚れていた。両親への挨拶もそこそこに私はくたびれたリードをたんぽぽの首輪に繋ぎ散歩に出た。こうして一緒に出かけるのはいつ以来だろう、思い出せない。

 

 たんぽぽは時折私の顔を見つめて尻尾を振っていた。あの公園へ、あの河川敷へ、あの田んぼへ行こうと思った。でも行けなかった。老いたたんぽぽの体では家の周りをぐるりと一周するだけで疲れてしまうと母は言っていた。


 その日から私は月に一度帰省した。そしてたんぽぽと散歩をした。小雨が降る中、入道雲の下、銀杏の落ちる道、移ろう季節の中を老いたたんぽぽと共に歩いた。実家の周りほんの数メートル四方の小さな世界を。二月の終わりに降り積もった雪の上を一緒に歩くことはもうできなかった。年明けからたんぽぽは足を悪くしていたから。たんぽぽの世界は終わりが近づくにつれさらに狭くなっていた。


 昨日、携帯電話が鳴った。着信の母の名前を見たときに私は覚悟を決めた。水曜の夜だったが、職場に無理矢理休みの連絡を入れてその日のうちに実家へ向かった。

  

 最後にもう一度、たんぽぽに会いたい。それだけだった。


 もう少しだけ、私が帰り着くまでもう少し連れて行かないでください。と初めて神様に祈った。


 

 間に合わなかった。私が到着したときにはもう、たんぽぽは実家の暖かいリビングで毛布の中に眠っていた。その体を優しく撫でながらお父さんは泣いていた。最後は呻き声もあげずに本当に静かに眠るように目を閉じたのよとお母さんが震える声で教えてくれた。触れたたんぽぽの体は冷たく、固かった。もうこの尻尾は揺れないんだと知った。


 今日の昼に霊園の車が来てたんぽぽを連れていった。段ボールにたんぽぽと大好きだったおもちゃとリードを入れて車に載せた。パパと、ママと、私と、三人でたんぽぽとお別れをした。パパが私の肩に手を乗せてくれた。ずっと昔みたいに。


 

 今、私は、ひとり夕暮れの河川敷を歩いている。

 

 たんぽぽと何度も通った道、たくさんボール遊びをした道、あの永遠に続くと思えるほどの当たり前にあった時間。でも永遠じゃなかった。


 永遠にしなかったのは私かもしれない。

 

 どうして私はもっとたんぽぽに触れてあげなかったのだろう。大好きだった。あんなに大好きだったのにどうして。短いとわかっていたたんぽぽとの時間をどうしてもっと大切にできなかった。たんぽぽは何も変わらなかった。私が部活を始めても彼氏を作ってもこの家を出てもただ、ただ、尻尾を振って私を待っていた。ここで遊んだあの頃のように、私を待ってくれていたのに。


 悲しみに暮れた私は歩くことができなくなって川のほとりに置かれたベンチへと座る。両手で顔を覆い伏せる。

 

 そんな私を夕日は残酷なほど綺麗な橙色で照らしていた。

 

 カーディガンの袖に何かがひっついていることに気づいてつまみ上げる。 

  

 それは、真っ白な、大好きな、たんぽぽの綿毛だった。

 

 16年前のあの日、まだ子供だった私が出会った小さな生命。あの大好きな白くて柔らかい、今にも飛んでいってしまいそうなほど儚いたんぽぽ。


 今日の夜にはきっと家に戻らなければならない。そして明日の朝は7時に目覚めて電車に揺られ出社する。日々の営みは止まってくれない。何も変わらない。世界は嫌でも私を前向きにさせる。前を向かないと人は生きてはいけない。

 

 ならばせめて今日だけ、今この時だけは下を向いていたい。少しだけ時間を止めて歩みを止めて下を向いていたい。ただ後悔と悲しみの底で子供のように泣いていたい。

 

 ずっと昔にも座ったこのベンチ、この場所に座って私はたんぽぽの綿毛を握りしめて涙を流す。

 

 日が暮れて辺りが暗くなってきても私は泣くのをやめない。


 たんぽぽが、また私を見つけてくれる気がして。

 


 

 


 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 優しくて、温かくて、切なくていっぱい泣きました。感動して胸が一杯であまり言葉が出てきませんが、素敵な物語をありがとうございます。 たんぽぽっていう名前とても可愛いです。
2022/02/27 15:29 退会済み
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