田中に生まれて
田中に生まれ思うことがある。
田中は多い。私の生まれ生きるこの九州にはことさら田中が生息している。私のクラスに二人いる。同学年に五人いる。男女割合は男男男女男。田中にはやや男が多い。そんなはずはないがそう感じざるを得ない。それもまた田中の田中たるところ。
かく言う私も田中。雄の田中。中学二年の田中。今現在思春期真っ只中の田中。田中の中の田中。田の中と書いて申しますは田中。繊細な人々はそろそろ田中田中で目を廻す頃合いか。はて田中とはなんだったか。田とはなんだ中とはなんだ。田中という文字は本当にこれで正しいのか、左右反転させてみようか天地を返してみようかなどなどと血迷い田中に対する認識が崩壊していく頃合いか。しかし赦して欲しい私は田中なのだから。
言わずもがな先祖は百姓であったろう。田の中に家を構える百姓であったろう。己に苗字を付す時点に『そうだオイラは田の中に住んでるから田中になろう』と閃いたことだろう田中の始祖。あぁご先祖さまよ。あなたのその素直でまっすぐな感性を心よりお恨みします。なぜもう少し己の名付けに拘りを持てなかったのだ。あなたの周りに存在したのは本当に田だけだったか。川はなかったか?森は、林は、木は、坂は、塚は、村すらもなかったか?犬は飼っていなかったか?猫は歩いていなかったか?なぜ己の存在証明を田にだけ求めたのだ。あぁ羨ましい。同じ状況同じ発想でありながら田中でなく中田と名付けたどこかの中田さんのご先祖さま。彼らのそのウィットに富んだ感性が甚だ羨ましい。仕上げに一捻りを加える遊び心。俺はお前らとは違う。大多数と同じは嫌だと足掻く天邪鬼的ロックスピリット。どれも田中に欠けているものを中田は持っている。
先日は歯科医のロビーにて名を呼ばれた田中が私を含め三人立ち上がった。慌てて下の名を付け足し呼び改める看護師。なにさほど驚くこともない。これは田中の日常。田中に生まれては避けることのできない現象である。だのに世間はくすりくすりと笑う。今この空間に間違いなく田中が三名もいるという現状に。予期せず三名の田中が炙り出された滑稽に。三名の田中が見つめ合い視線に漂うはにかみに。安心することなかれ冷静沈着な第四の田中がまだこの中に潜んでいるかもしれないという恐怖に。世間は肩を震わせ笑う。その様子を悟り恥を感じ慌てる田中達。またそれを見て笑う世間。
勘違いしていただいては困るのが何も世に田中が多いことだけが田中性を恨む由縁ではない。例えば佐藤。例えば鈴木。彼らは田中よりこの国に多く生息している。が、彼らは田中ほどシンプルな生き物ではない。正確に言うならそう認識されていない。通りを歩く佐藤が、鈴木が、高橋が、彼らの始祖が、かつてどのような人間でどのような営みをしていたかは現代に生きる我々には簡単に推し量ることはできない。しかし田中は違う。田中の始祖は割と推し量れる。およそどのような人間であったか。どのような世界に生まれ落ちどのような景色の中で育まれどのように朽ちていったかほどほどに見当がついてしまう。その推測が事実かどうかはこの場合においてあまり意味をなさない。問題なのはこの国の人々は田中と出会ったその瞬間に目の前の田中の数百年向こうにある過去まで見通せた気になってしまうということで、私はそれを軽んじられているように感じてしまう。
ああなんだ、次の対戦相手は、取引先は、私の教育係は、ここの社長は、先輩は、田中か。
緊張して損をした。田中ならまあ大丈夫だろう。これが東郷なら、猪熊なら、鬼塚なら、我那覇ならば、額に汗かいて相手をすることになるだろうが田中ならそこまで気を張る必要もない。と、このように田中は田中というだけで侮られている。と、私は感じている。
ここからはやや暴論とも言えるが。私の推測では田中は容姿にまでも悪しき影響を及ぼしている。一条や風張や桜庭や上杉は現実よりも二割増でその容姿を世間から、とりわけ異性から認識されている。対して田中は三割減だ。ただ、田中というだけで三割減だ。今後、道ゆく田中を目にした際には、彼は彼女は田中ではなく二階堂であると強く暗示をかけてよくよく容姿を見てやってほしい。貴方は己の認識の脆さに慄くことなるだろう。その差異こそが田中が生まれながらに背負う十字架だ。どうか貴方が次に出会う田中に慈悲あらんことを。
さて、何故私がこのように己の苗字の分析し日暮れどきの犬の如く嘆いているかというと暇だからである。侮ることなかれ暇には莫大なエネルギーが眠っている。これは至極有名な話ではあるが、かつてローマ帝国にて哲学が栄えた背景にはローマ市民に与えられた膨大な暇がある。人は暇を与えられると途方もない思案を巡らせる生き物だ。その暇をかつてのローマ市民は『人生とはなんぞや』と哲学に割き二千年後の現代を生きる田中は『田中とはなんぞや』と田中学に割いている。
では何故私が暇かというと今この夕刻の教室にて孤独だからである。精神的にではない。物理的に孤独状態である。この東岡中学二年三組の教室には今、この田中意外誰もいない。クラスメイト達はとうの昔にやれ部活動だやれ帰宅動だのとぬかし、田中を一人残しこの場所から去っていった。故に孤独の田中は教室の窓際前方2列目に位置する指定席にひとり座って補習執行の時を待っている。時刻はもうじき16時半を回ろうとしている。数学の世良はまだやってこない。田中は補習があるから残るようにと我がクラスの担任に託けておいて自分は現れない。なんという不届者だ。やはり田中を侮っているのか。己が世良であるが故、必然田中を目下に見て侮っているのではないか。世良性の傲慢。
ああそうだ補習は仕方がない。先日行われた一学期中間考査にて恐らくばクラス唯一の赤点範囲内である数学科目36点を叩き出したこの田中に非があるのは認めよう。だとしてもこのようにぞんざいな仕打ちを受ける謂れはないはずだ。人を30分以上も待たせるとはどういう了見だ。大方『田中には放課後に予定などないだろうなにせ田中なのだから』とでも思っているのだろう腹立たしい。
その時教室の戸がガラリと音を立てて開いた。ようやくお出ましかインキンタムシの世良公が。私は睨むように教室右前方の戸へ目を向ける。しかしそこに立っていたのは恨めし世良ではなく。息を切らした瑠璃ちゃんだった。
「あれ?田中君だけ?世良先生は?」
瑠璃ちゃんが教室をぐるりと見渡して言う。あれっ、これ俺に言っているのか。言ってるよな。うん。きっとそうだ。だって今この場には田中しかいないし。よ、よし返事をするぞ。
「う、うん。まだ来てなくて」
「なんだー。さっき麻里に『田中は補習って世良が言ってたよ』って言われたから慌てて帰ってきたのにー。じゃあ急がなくてよかったな」
「る……田中さん、数学赤点だったの?」
「え?ううん。84点だったよ?」
「じゃあその補習の田中って、多分俺のことだと思うよ」
「…………?」
瑠璃ちゃんは不可思議そうにその大きな瞳でこちらを見つめる。なぜかそれだけでしどろもどろになってしまう。
「えっと、だから、補習を受けなきゃいけない田中ってのは多分俺のことで……その、田中さんは赤点じゃないんだから補習を受けなくていいんじゃないかな…………」
「…………………あっ」
口をぽかんと開いて素頓狂な声をあげる瑠璃ちゃん。何それかわいい。
「あーーー!!じゃあ私そのまま部活行ってよかったんじゃん!!うわあアホだ私アホだー!」
「はは……」
田中瑠璃。このクラスに籍を置くもう一人の田中。少し小柄で髪はショートより少し長くボブと言うには幾分短い。目は小動物のようにくりりとし、黒目が大きい。女子バレーボール部所属。快活な性格で肌は少し褐色がかっている。成績は優秀だが時々信じられないほどアホウな行動を起こし、アホウな言葉を散らす。らしい。けれどもこの噂はどうやら本物だったようだと私は今しがた行われた会話と今現在のうなだれる彼女の姿を見て察する。
会話をしたことはなかった。いや、正確には幾度かあったがそれは漏れなく連絡事項のようなものでしかなくおよそ会話と呼べる代物ではなかった。そして、私たちはお互いを田中君田中さんと呼び合う。当然だ。同じ田中だからといって瑠璃ちゃんなどと気安く呼べるほどの女たらしではない。平均的中学二年男子の田中なのだわかってほしい。
「まあでも、ちょっとラッキーかも」
瑠璃ちゃんは顔を上げイタズラぽくにまっとする。
「……え?」
『田中くんとおしゃべりできたから……』とは言ってくれなかったが、かわりに彼女はこちらに歩み寄ってくる。必然鼓動が早まる。しかし彼女はそのまま窓に張り付き外を眺める。そして校庭の方を指差してまたイタズラぽい顔でこちらを向く。
「今日、女バレは体育館使えるの5時からだからさ。最初の1時間は外周とか筋トレなんだ」
彼女の指さした方に視線を移す。なるほど確かに女子バレー部らしき皆々様はこのクソ暑い中、イチニイチニと大声を出して走っていらっしゃる。
「へへへ……」
校庭で汗を流す先輩、同期、後輩たちを見下ろした彼女が悪ガキのように笑う。なんていかん娘だ。かわいい。
「でも補習なかったのバレちゃったらやばいし。そろそろ行ったほうがいいかな」
『そんな!部活なんてサボってここにいなよ!もっと俺とお喋りしてよ!』とは言えない。なにせこちとらただの田中である。それどころか臆病風に吹かれた弱田中だ。結局絞り出した返事は「うん……そうしたほうがいいよ」というクソ味噌に情けない言葉のみでさらに言えばそのセリフすら妙ちくりんに甲高い声で発してしまい己の女免疫のなさに死にたくなる。もうダメだ。つかの間訪れた青春らしいワンシーンは本当にワンシーンのみで終わってしまう。
しかし、彼女は帰るそぶりを見せず教室内をウロウロと歩き始めた。あわわわわ。このような時、中二男子はどう対応するのが正解なのだ。彼女を目で追って良いのか。えっとあれか。プロポーズすべきか。いや待て早まるなお前はただの田中だ。あわわわわ。
「…………そういえば、田中くんって下の名前なんだっけ」
彼女はこちらを見ないまま黒板を眺め尋ねる。
「……幸太郎」
「へー」
あっ、知らなかったんだ瑠璃ちゃん。同じクラス同じ田中なのに。瑠璃ちゃん。
「おおやけ太郎?」
「しあわせ太郎」
「あーそっちか。そっかそっかなるほど幸太郎くんか。うん。いい名前だね」
今度はこちらを見てにかっと笑う。えっ、なにこの時間。すごい。幸せ。いま田中すごく幸せ太郎。
「じゃあ今度から私、田中くんじゃなくて幸太郎くんって呼ぶね」
「へっ」
「だって同じ田中なのにお互い苗字で呼び合うってなんか変じゃん」
「うん……そうかも」
「たなか……じゃなかった幸太郎くんは私の下の名前知ってる?」
知ってる。超知ってる。
「えっと……」
「あーひどーい。瑠璃だよ。瑠璃色の瑠璃。覚えといてよー」
「あっ、そっか。うん……覚えた」
「じゃあ幸太郎くんも私のこと瑠璃って呼んでね」
田中に生まれて思うことがある。
「うん。わかった。えっと……瑠璃……ちゃん」
「そう!よくできました!よろしくね幸太郎くん!!」
田中も捨てたもんじゃないかもしれない。
「あーそろそろ5時になっちゃうなあ。流石に行かなきゃな」
「うん……」
否。
「じゃあまた明日ねー幸太郎くん!」
「うんまた明日。瑠璃ちゃん」
田中に生まれて……。
「あ、いますごいこと気づいちゃったんだけどさ」
「なに?」
田中に生まれて…………。
「もし私と幸太郎くんが結婚したらどっちも田中のまんまじゃん!すごくない!?」
「……そりゃあそうだね」
本当によかった。