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徒然生きて  作者: 梅野飴
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恋失いと焼き卵

 私は恋を失った。

 うん。これはよい。いやだめだ。これはよいなどと脳みそによぎるその時点でもう、少し、なんか、ちょっと、駄目だろ。しかし、私は失恋した。ではどうにも凡々すぎて独創性に欠けるじゃあないか。やはりここは恋を失ったが正答だ。仕切り直し。


 私は恋を失った。

 2年半という長い年月をかけて育ててきたはずの恋を失った。これはひと月ほど前のことだ。

 彼は私の初恋の人だった。いや、厳密に正せばそれは幼稚園で出会ったまさしくんだったと思うが、19年生きて初めての彼氏だったんだし初恋ということにしていい。いいだろ。切なさを盛りこむ味付けの範疇だ。嘘じゃない。

 

 ともあれ私は彼氏に振られてしまったのだ。そうしてこの六畳一間の畳部屋に越してきた。この小さなボロアパートの201号室。無名だった頃の芥川が住んでいたと紹介されても十秒ほど信じてしまいそうな古部屋。よっこらと窓を開け往来を眺めてみると初夏の生ぬるい風が、先月顎のラインに沿ってずばりと30cmばかり切り落とした私の黒髪を撫でた。そして私はふと思いを馳せる。


「…………あっついわこの部屋」


 あぁいかんいかんまたもやだ。どうしてこうなってしまうのだ。なぜ初恋を苦く終えた女子大生が新天地でふと零すモノローグが室温への不満なのだ。失恋した。引っ越しもした。髪まで切った。ここまでお膳立てしてもまだ足りぬか?まだ足りぬと私は私へ求めるのか?


 白状しよう。私は酔いたかったのだ。失恋のショックで彼の家からなるべく遠くに新居を構え彼の好みに合わせすくすくと伸ばした髪を切り落とし彼の匂いすらしないボロ部屋で一人遠くを眺める女子大生。この状況に酔いたかった。酔っ払いたかった。今ならば己の悲劇を肴に酩酊可能だと、あわよくば涙までも流せるのではと淡く甘くも期待してしまった。


 しかしやはり無理だった。私は幼少の時分からどうにも精神が惰弱でないのだ。言うならメンタルがむやみに強い。私はこれを長所とし20年といくつかの日々を歩いてきた。が、ここ数年これはもしや心が強いのではなく単に集中力の欠如ゆえに起こるくだらない人間性の欠陥に過ぎないのではと私は思い始めた。


 中学3年の吹奏楽コンクール。私は一等オーボエ吹きとしてステージで皆と共に演奏した。結果は銀賞。銀と言えばなんだか聞こえは良いが、参加した時点で銅賞が確定となる吹奏楽コンクールにおいては『よくがんばりました。貴様らは実に平凡でした』とお偉い先生方に評されたようなものである。とはいえとはいえ平凡とはいえ、万年銅賞常連様の弱小校であった我々にしてはなかなかの健闘と言えるのではと私はほどほどに満足していた。横をみると皆泣いていた。それが私にはわからなかった。なぜ泣くのだ?金賞が取れないことがそれほどに悲しいか?問うと、彼女らは「いんや、銀賞が取れて誠に嬉しいのだ」と答えた。

 

 ますますわからなくなった。嬉しいならなぜ泣くのだ。銀賞取れて嬉しいでござるという状況からどれほど複雑な回路を繋げば涙は落ちるのだ。おいお前どうして泣いている。その抱擁はなんだ。お前がいつもあれほど嫌っていた顧問のガチャピンを、なぜ戦地戻りの想い人のごとく抱きしめる。とは流石に口に出さなかった。私は感受性は劣悪でも人並みの社会性は持ち合わせていた15歳であったのでその場はただ静観を吉と読んだ。


 思えばこの辺りから違和感を覚えていたのかもしれない。私は感動を知らない。ドラマも映画も嫌いではない。しかしそれらは涙に繋がらない。なぜだろうか。この疑問に私は心の強さを持って答えとした。そうだ私は心が強いのだ。心強さゆえに愛しさと切なさすら私には無縁なのだ。よいではないか。なんだとてもかっこうがよいではないか。

 

 だがそれは違った。暮らしの(いとま)ではたと気づいてしまった。私は単に集中力が足りないだけだ。眼前の感動に集中できないのだ。私は映画のキスシーンでポップコーンの残量と映画の残り時間の配分を計算する女だ。コンサートの客席で腕を突き上げながらも電車の時刻表が脳裏に張り付いている女だ。銀賞だと分かった瞬間に『こりゃ受験面接のネタにはならんな』と算段した女だ。先日などはこの一年半を回顧しつつ米を冷凍保存し小瓶に砂糖を補充した女だ。それは長所ではない。人間性の欠陥だ。


 そのような私に恋人は言った。


「なんだか君は人ではないかのようだ」


 そして去った。



 焼き卵を作ろう。たった今思い立った。母は昔から事が起こるたびに焼き卵を作ってそれを私に喰わせた。『事』とは何もろくでもない事件ばかりではない。良きことも悪しきこともひっくるめて『事』が起こると彼女は焼き卵を作った。

 焼き卵とは、生卵をぼうるに開け菜箸等で迅速にかき混ぜフライパンに流し込みこれを熱し固形化していく食物、凡人の言うところの卵焼きである。我が母はこれを焼き卵と呼ぶが故に私も九つの歳まで卵焼きという呼称を知らずにこの荒い世間を生き延びた。これはいささかの奇跡だ。一度母に尋ねたことがある。なぜママは焼き卵と呼ぶの?母はフライパンを前後に揺すりながら「我が一族は先祖代々こう呼ぶのよ。伝統なの。宮田のばあばもそう呼ぶでしょ?」とこともなげに答えた。ほんまかいな。


 ほんまかいな。は、恋人の口癖だった。関西人でもなきくせにどこぞの芸人様の真似事を日々の会話に挟むつまらない男だった。幼き頃は教室の後方右隅でつまらぬことをつまらぬ大声で得意げにほざくようなさぞつまらない餓鬼だったろうと推測できるほどのつまらない男。そんな彼が好きだった。

 

 私は、そのようなことを考えつつも生卵をぼうるに開け菜箸で迅速にかき混ぜフライパンに流し込みこれを熱し固形化していく。手はオートマティックに動いていく。何万回、いや何千回、何百回、まあ多分十数回くらいは作った焼き卵であるので元恋人とのおもひでに浸りながらでもやはり体は機械的能動的に仕事をこなす。こういうところがダメなのだなと己が嫌になる。

 

 つまらない彼が好きだった私が好きだった彼は私の焼き卵も好いてくれた。この上品な甘味が良いと、母から教わった我が一族伝統の焼き卵を褒めて遣わした。それはまるで私を形作る全てを、私の存在そのものを肯定してくれたようで大変に嬉しかった。恋人はよく焼き卵を一口含んでは「卵と砂糖のベストマッチや〜」などとつまらぬことをほざいた。そして「こんな美味いもん作れる君は女神様や〜」などと私を崇めた。後に「君は人ではない」と放つその口で。


 『なるほど女神は人ではない。辻褄は合っている』


 一年と半年を共にした恋人に別れを告げられた女子大生の最初の感想はこのようなものだった。本来であれば泣き、喚き、理由を問い、詰め、ことによっては怒りそれに伴い平手打ち等の暴力も辞さない状況であるにも関わらずこのような感想を抱いてしまう私はやはり人ではないのか。


 焼き卵が上がった。冷めてしまわぬうちにナイフにて切り分け皿に盛る。畳部屋の真ん中に陣取らせたちゃぶ台のそのまた真ん中にちょこんとそれを置く。妙に愛々しいがやや遠いので一度構えた箸で寄せる。脳内にてマナー講師とやらの頬を二、三発張る。手を合わせる。いただきます。


 柔らかく仕上がったその絹織物のような物体をアチアチと一口頬張る。そして驚愕する。


 しょっぱい。

 

 なぜだ、私の人生においてそのような焼き卵には出会ったことがない。なんだこれは。何が起こった。

 そこで私は思い出してしまった。幼き時分に見たとあるアニメーションに同じようなシーンがあったのだ。題は『お母ちゃんの卵焼き』だったか。いや違うかもしれない。まあそれはいい。主人公なる歳のころ十五ほどの少年が学徒動員にて実家を離れることになりその最後にお母ちゃんが作ってくれた焼き卵を頬張り「しょっぱい」とこぼす。そして言うのだ「涙の味だ」と。


 さてこれはどう言うことだ。私の作って私の食した焼き卵が何故『涙の味』に侵されるのか。あの少年が食した焼き卵に『涙の味』が混入される可能性は二つ。お母ちゃんの焼き卵製造過程、もしくは少年の焼き卵摂取時。涙を流していたのは一体どちらか、それはわからない。

 

 私の焼き卵に涙が混入する可能性もやはり私の焼き卵製造過程か、私の焼き卵摂取時に限定される。しかし確かなこととして焼き卵に異物を混入した犯人は私であることはどうにも疑いようがない。何故何故この私めがそのような犯行に及ぼうか、垂らした目薬すらもその場で乾くだろうほどに涙と縁遠い私めがどのようにして『お母ちゃんの卵焼き』の味を再現できようか。


 しかし。と、私は一縷の疑惑を見つけ汲む。しかし、それは本当だろうか、と。本当に私はそのようにば冷酷なる乙女なのか、と。そして私は気づいてしまった。唐突にも。

 

 恋人だった人の笑顔、くだらない言葉と笑い、二人で食べた焼き卵の甘味、何するでもなく二人まどろいだ日曜の十四時二十分のころ、川辺で見た魚のカゲ、飛びつくバッタに慌てふためくあの人の顔、冬の道に吐いた息、コンビニの袋、「もし子ができたらどんな名にしようか」、焼きとうもろこしとわための交換、夜の空の下でのくちづけ。


 そう、きっと私は観ていたのだ。先刻、身体はあれほど手際良く焼き卵を製造しながらも私の脳は上記の事柄等をフィルム映像のように流していた。私の意識はそれを観ていた。そうして私の身体は、私の意識は、犯行に及んだ。目ん玉から溢れた異物は安直にも頬をつたい黄身踊るぼうるへと混入した。私の預かり知らぬうちに。これがこの些細な事件の真相だったのだ。


 大好きだった。愛していた。


 なんのこともない。私は凡百にみっともなく恋人が好きだったのだ。世の果てまで隣で歩いていたかったのだ。歩いてくれるものだと思っていたのだ。そしてそのほとんどの恋人達がそうであるように道は違えた。それを受け凡人たる私は人並みに傷ついていたのだ。私は鉄の女などではなかった。ありていに恋をし、ありていに終わり、ありていに悲しむ凡なる女でしかなかったのだ。それをこの焼き卵を食べるまで気付きもできない愚鈍な女だ。

 

 嬉しかった。己のみっともなさが、愚かしさが、ただただ、どうやら君は人であるようだと言ってくれているようで嬉しかった。

 

 そんな安堵の心持ちで頬張る二口目の焼き卵。やはりこれもしょっぱかった。

 しかしも、ここにて私の心にひとつの疑念が生み落ちた。


「おい待てこいつはいくらなんでもしょっぱすぎやしないか?」


 唐突に心に生まれた疑念は疑惑へと形態を変え急速に心を飲み込んでくる。やがてその黒色は私の体を上へ上へと竜の如く登って脳みそへと達し、脳内で言語化されコンマ何秒だかの速度を持って喉へと南下してくる。


 この言葉を口にしてはまずい。直感的に悟り両の手で口を塞ぐ、疑念の言葉はいまや99%の確信へとその姿を変え吐瀉物のように私の口内を充たしている。私は残る1%の綱を頼りに台所へと駆け込む。先日補充したばかりの砂糖小瓶に右手小指を突き刺し少量掬い上げ震えるその指をぺろりと舐め上げる。瞬間、綱は絶たれこのひとときの想いを砕く言葉が唇から溢れてしまう。



 「…………これ塩だわ」

 



 

 

 


 

 


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