離れと猫とおかゆ(風量込み、約1.9キロ)
腰辛い。金色の稲穂を刺繍された掛布団の上でうつ伏せのまま、まともに寝返りも打てずにひとり往生している。
昨夜は上司からのお達しで徹夜を覚悟させられたものの、捕り物はどうにかこうにか落着し、遅まきながら離れで眠ることができた。
そして目が覚めて何気なく寝返りを打つため身を捩ったら途端に腰が抜けるような感覚に襲われ、わずかでも動くと腰に激痛を感じて身動きひとつ出来なくなってしまった。筋肉痛って感じではない、本格的に腰のスジなり軟骨なり痛めたらしい。
ギックリ腰の経験はないがこんな感じだろうか。動かなければジクジク日焼けしたような痛みがあるだけで耐えられる程度だが、ちょっとでも腰に力がかかると猛烈に痛い。寝返りを打てないってのも地味に辛いぞコレ。
どうやら昨夜腰に張った無料の湿布程度では屏風覗きの腰痛はカバーし切れなかったようだ。自動防御の恩恵もすでに負っているダメージには無力か。これは解毒の効果もまったくないと判断したほうがいいだろう。薬品の効果などさっぱりだが、あまり持続しない薬とかで、かつ吸った量が少なかったから昏倒しなかっただけと思われる。
あの後、立花様の連れてきた手勢から解毒剤と思われるクッソ臭い液体を飲まされてからというもの、頻尿のおじいちゃんのように何度もトイレに行くことになってとても困った。ほんの数時間の間にあれだけトイレに立ったのは人生初である。たぶん利尿効果による解毒という極めて現実的な解毒剤だったのだろう。
思えば糞尿の臭いのしない新しい厠を立ちションで汚すのもあれかなと、そのたびに立ったりしゃがんだりを繰り返した事も、腰にトドメを差してしまった遠因かもしれない。辛い。
そして朝に目が覚めた人間がとりあえずやる事と言えば、洗顔やシャワーで汗を落としたり、人によっては朝食前に歯も磨くだろう、しかしやっぱり本命はトイレな訳で。いやホント、どうすべえ。
「これで今日一日、安静にしておれば大丈夫でしょう」
行きに15分、座るのに2分、立ち上がるのにも2分、帰りに5分かけて厠に行ってきた。帰りの途中で白頭巾のイケボキャット、白金氏の訪問を受けてお迎え寸前の老人みたいな動きしかできない状態から『一時だけ痛みを失くす』術だか技をかけてもらい帰りだけはちょっと時間を短縮できた。ありがたや、ありがたや。
その後は白金氏が呼んだ他の白頭巾の猫たち(黒一色、茶の赤みが強い三毛、青っぽい灰色)によって治療を受けさせてもらい、どうにか落ち着くことができた。鍼灸初体験です。痛くはないのだけど、ものすごく変な感触だ。
あくまで痛みに鈍くなっているだけなので今日、明日は変に腰を回したりはしないこと、と注意を受けて治療終了。
改めて訪問の要件についての話になると、本日は無理そうなので休んでいい、食事はこちらに持って来させると言われた。夜の事で事情聴取でもあったのなら申し訳ない、こんな格好でもいいなら話せると言ってみたが急を要するものではないので問題ないとのことだった。
ただ、こちらから聞きたい事としてひなわ嬢の容態について聞いたら『怪我らしい怪我はしていない』ので心配は無いという異様な答えが返ってきた。顔面崩壊が怪我に入らないというのはいくらなんでもおかしくないか。
もしかしたら、あの時に聞こえた声はひなわ嬢に生きていてほしいと思った屏風覗きの幻聴だったんじゃないか、死人に身勝手な望みを持ってしがみついていたんじゃないかと悶々と悩んでいたのに。これは隠すほど重傷、あるいはもう手遅れ、ってことじゃないのか。
だとしたら願わなければならない。便利に使うなと叱責されてしまうかもしれないが、白玉御前様のお抱え医師に今一度治療をお願いできれば助かるかもしれない。そのための対価も支払えるはずだ。
「砕けたあれは皮のほうです。中の貉は肉ひとつ抉れずピンピンしておりますよ」
立ち上がろうとしたこちらを肉球のある手でぷにっと押し止め、白金氏は安心させるように目を細めた。
なんでも人に化ける術には色々あり、体そのものを作り変えてしまうB級映画の生物兵器なものや、妖怪談にあるような皮を被って人間を装うもの、幻覚を纏って人のフリをするものなど結構な種類があるそうな。
昨夜の犬の経立などは一番目の体を作り変えるタイプかな、代謝や細胞分裂限界とかどうなっているのだろう。
その中でひなわ嬢は二番目の人の皮を被って人っぽく擬態しているタイプで、個体差はあるが本体は皮に比べて総じて小さく、少なくとも潰れた顔は当人のものではないので、つまり深刻な怪我はしていないとの事だった。
なんだよ、もう。
お大事に、最後にそう言って離れを後にした頭巾猫たちにせめて首だけでも頭を下げてグッタリと脱力した。心配を返せ。
綿のたっぷり詰まった新しい布団の上でうつ伏せのままぼんやりとする。昨日は本当に色々あった。
イタチ、鳥人、犬、一日で三つの死を見てすべてに関わった。どれもまだ深く事情は分からないし、うまく整理出来ていない。前の二妖怪はまだいい、一番分からないのは犬の経立姉妹の事。なぜ彼女たちは裏切ったのか。
所属する組織を変える理由で思いつくのは大きく二通り。損得か、怨恨のような感情的な理由くらいだ。それも住まう国を捨てることになっても、というのは相当の覚悟がいる。特に今回のような国益を大きく損なう裏切りは。死が見せしめを兼ねる可能性が高いとなれば猶更だ。斬首や磔で済めばまだ温情だろう。
すぐに死ねるなら身投げのように飛び込めることもある、だがもしも失敗したうえに捕らえられてしまったら。このリスクを想像したとき、その恐怖は尋常ではないだろうに。
屏風覗きの知る限りで白は赤よりずっと豊かで過ごし易い国のはずだ。ただ『ポイント』という強みのおかげでかなり恵まれた入国ができた自覚はある。もしかしたら、伝え聞いた赤ノ国のように普通の庶民にとっては息苦しくなるような暗部が白ノ国にもあるかもしれない。
所詮は入国から一月と経っていない新参者が見聞きした程度の、一側面だけの情報だ。考察するだけ無駄か。
個人の経済事情などの理由はどうか。詳細は分からないが彼女たちは職もあり、あの日見た限りは裕福ではないかもしれないが貧困の気配は無かったと思う。あるいは困窮からではなく、身の丈以上の欲をかいた可能性はあるだろう。これも情報が少なすぎる、想像しても意味がない。
怨恨はあるだろうか。面従腹背、恭順したフリをしていただけで不満を募らせていたかもしれない。国ができる際に従うか死か、上か下かで悶着があった、とかはありそうだ。負けた側が影で恨んでいても不自然ではない。
ダメか、知らないことが多すぎる。今回の事で潜伏していた赤の工作員とそれに協力していた裏切り者がいたという事。この白の国内部に潜在的な敵対勢力が存在していた、あるいは依然存在しているという現実が浮き彫りになったことだけが、今の屏風覗きの知る現実のすべてだ。
ありきたりな話、光があればどうしたって影もある。様々な理由で正道を行かず暗い道を歩くしかない者もいる。万人が笑える国などありはしないし、もしあったとしたら、それは間違いなく常人の理解からズレた異常な価値観で生まれた世界だろう。
良くも悪くも、優劣が出来てこそ初めて個は存在の意味が出てくるのだ。すべて平等が至高なら、生き物は最初の単細胞生物から変わらなかっただろう。
『ひとつ』じゃ足りないのだ、生き物は。
「これがごはんの良いところですー、おかゆなら寝ていてもスルスル入りますからねー」
ラーメンどんぶり摺り切りで一杯。器の内側が一ミリたりとも見えない、ちょっとでも傾けたら卵入りのおかゆが零れる。ところで別に病気ではないんですけど? たしかに胃腸が疲れ気味なので消化が良いのはありがたい、しかしよろしければ量のほうで調節できませんでしょうか。
開きっぱなしの玄関から『猫々軒』と書かれたおかもちを片手にやってきたのは、勇ましく襷がけをした白雪様。それはそれは勝手知ったるという言葉がふさわしいズケズケムーブで、朱色の下駄を揃える時間も惜しいとばかりにピョンと脱ぎ散らかして入り込んできた。
いやもうね、器も文字もおかもちもツッコミが欲しいとしか思えない。それなのにツッコミの気配をさせるとはぐらかされる。本当、何がしたいのこのネコミミ。
すべてを諦めて用意されたレトロな匙、レンゲを使ってお食事を頂く。解かれた卵が入っているのは見ただけで分かった、しかし持ち上げた匙から引く糸、この米かゆだけでは出せない独特の粘りは、なるほど擦った自然薯か。となると当然とろろをおいしく頂くためのお出汁も入っている。
シンプルな見た目に反して卵、自然薯と栄養満点の食材が優しいおかゆに導かれて、一口毎に胃から腸へとノンストップで流れ込んでいくようだ。そのクセ噛まずに飲み込むのを諫めるように、時折固形の具材が存在を歯に舌に伝えてくる。プリプリでヌルヌルの食感は間違いなくなめこ。角と髭を感じるこれはまさかオクラか? オクラあるんだ、幽世。
付け合わせはちょっぴりの奈良漬け。おいしくてもぼやけがちなおかゆの味が、やたら濃く漬かっている奈良漬けのアルコールの香りで一口で鮮明になる。なるほど、この量で充分だ。
なんとか残らず平らげた姿に満足そうにウンウンと頷いた白雪様は、腹ごなし代わりにと屏風覗きに昨夜の一件とは別にあった出来事について、内緒ですよーと言いつつ教えてくれた。
「粛清されたひとが何人かいたようですねー」
生け捕りにされた者からもたらされた情報を活用し、この騒動に乗じてかねてから怪しんでいた黒に近いグレーな連中の住居や蔵に押し込んでは調べ回ったらしい。
ちなみにそれらは裏切りの件とはほぼ別件で、脱税や違法取引などの捜査だ。ほぼ、と付くのは赤ノ国への輸出が規制されている品を多分に含むから、だそうです。
のらりくらと躱していた相手を国防の名のもと、かなり強引に取り調べることが出来たそうな。燻し出す手間が省けたと、立花様以下数人がほくそ笑んでいたとか。
七転八倒、白ノ国は転ばされても只では起きなかったか。
ある意味、一番聞きたかった裏切った姉妹については取り調べの最中で、まだ詳細は判らないようだ。ただ長女に当たる『秋雨』についてはまだ嫌疑不十分なので、拘束はされたが厳しい追及はされていないという。
白ノ国の法では血縁を理由にした連座は無いので、問答無用で即座に一族皆殺しということはないらしい。
「住み難くは、なっちゃうでしょうねー」
板金のおかもちを胸に抱え、白い耳をヘンニョリとさせて残念そうにため息をひとつ。
真新しい畳の青い香りで満ちた離れに、猫の知る誰かに向けた無念がポロリと零れた。