別視点。ひなわの微熱
誤字脱字のご指摘いつもありがとうございます。
梅雨明けも宣言されていないのに猛烈に暑くなってきましたね。日本の四季は昔に比べたらまったく違う物になっている気がします。
過去に運動系の部活で心頭滅却うんぬんと言って、改善できるのに不快な環境を強要した人たちは今もそうやって騒いでいるのでしょうか? たぶん、何かあったら知らぬふりで誰も責任は取らないからなんでしょうけど
やってくれたな犬っころ!!
後ろで薬の粉を被りガクガクと震える人間にひなわは気を割く余裕がない。一匹は仕留めたが目の前には朧車、そして姉だか妹だか知らないが絶叫するもう一匹の糞犬。残された時間は数秒も無い。
『中身』の装填弾数は残り三発、至近の不意玉だからこそ一匹目には当たったが、すばしこい犬に当てるには『中身』の短筒では遠すぎる。
「焼けろぉ!!」
炎を吹き出す車輪を回して突進してきた朧車に大八車が引っかけられて、それだけで片輪が弾き飛ばされる。斜めになった荷台から転がり落ちたひなわはそれでも鉄砲だけは離さない。
同じく落ちた人間の体をもう片方の腕で引っ掴み、先ほどの己の言葉とは正反対に盾にする。
腰に下げた火薬、弾丸を一発分に纏めた早合の口を毟り、火縄銃の銃口へと過たず注ぎ切る。こればかりに明け暮れた動作は何があろうと淀みなどない。
ぶちかまされたらそれで終わりであったのに、あれだけ怒らせてもあえて引っ掛けたに留めた。投げつけてきた薬といい、こいつらの動きには『嘘』がある。銃身に備え付けられた突き棒を引き出し、玉の込められた内部を突き固めようとしたとき、再び婆の車輪が鼻先を掠めていく。
火薬を使っているところに勘弁してほしいものと思いつつも、その目は出来たばかりの轍を見逃さない。直進から不自然に出来たわずかな膨らみは、ひなわ達を『避けて』いる。
確信を得てにんまりと口元を釣り上げて貉が笑う。それを見たのか、走り回る朧車の火勢がさらに増して二度三度とひなわの肌を焼くが致命的な『当たり』はやはりこない。
「いぬぅ!! やらんかぁ!!」
痺れを切らしたのだろう、ついに朧車が決定的な言葉を吐いた。
姉妹の片割れは死にかけた肉親を抱えどうすることもできない苦悩に苛まれている。窒息の苦しみでその身を裂かんばかりにしがみつかれても、それを抱き返してやることしかしかできない。トドメという苦痛からの解放が頭をチラつこうとも。
鎧の無い首元から体内へと撃ち込まれた鉛は呼吸を司る肺の袋を破き、どれだけ息を吸おうとも意味はなくなった。もはや地上にいながら己の胸を満たす血潮で溺れ死ぬ。
最後の痙攣をおこした体が弦を張るようにピーンと張り、くたりと崩れる。同じ組にいてもさして知る者でもない犬が一匹、今黄泉路に向かったようだ。弱々しく名を呼ぶ声が次第に大きくなり、最後には何を言っているのか聞き取れない獣の慟哭へと変わっていく。
ひなわにそのお涙頂戴の寸劇は響かない。裏切者が楽に死にやがった、思ったことはそれだけ。だから、うるさいなかでも胸に抱える人間の呂律の回っていない言葉が聞き取れた。
あの車はどっちだ、と
薬の影響で人間は己がどちらを向いているかどころか、天も地もひっくり返っては混ざり合い。座っていることさえ分からないという。これでは例の術を使っても当たるからどうか分からないと。
頭を掴み前を向けさせると、ひなわは光が分かるかを耳元に問う。分かる、その言葉を聞けばあとは簡単だ。
「あたいの合図でお願いしやす。まっすぐドンと、殺しちまってもかまいません」
話を体に聞くのは残った一匹でいい。そもそもひなわの使う鉄砲は『大きい物』の相手が不得手だ。こういった手合いは金棒なり槌なり使って叩き壊すに限る。
間合いを図り、今一度突っ込んでくると見せかけた脅しの突進に合わせて合図を送ろうとした矢先、なりふり構わぬ獣の体当たりがひなわの体を吹き飛ばした。
その突撃は朧車がやりたくても出来なかった威力を存分に乗せ、ひなわの左手足がおかしな方向へと曲がるほど。
大事な者を失い、大事な事を忘れて後先無くなった自棄の一撃。
「おまえがぁ!!」
馬乗りになった犬の拳が幾度もひなわの顔面に叩きつけられる。我を忘れ、腰の得物も忘れ、獣の本能だけに突き動かされて執拗に顔面、顔面、顔面。
涙、涎、血、顔に詰まったあらゆる体液を拳でまき散らしていく。
「貉がぁ!! 汚い貉がぁッ!! 死んじまえッ、死んじまえッ!! あき、あき、あきの敵ぃッ!!」
左はどちらもまったく利かぬ、右手はもう撃った。右足は、こちらは動くが膝が肝心の急所に向かん。一発で仕留めねば次が無い。
「満足ひまひたかひ?」
ぐちゃぐちゃになった顔は十分に口が動かず、言葉がうまく送れない。勝手に間抜けな口調になってしまう。
まだまだ半端でいけない。仕込みが終わるまで、もうちょっと上で頑張って貰わなければならない。呼吸などで頭を冷やされたら困る。
「おまえ、おまえなんかぁッ!!」
再び殴打が行われる。一発一発は激しくも腰が乗っていない、頭に血が上る輩はこれだから助かる。喚けば喚くほど、ただでさえ下手糞な内丹術が乱れて女の拳になっていく。知り合いの烏なら一発で人の頭蓋程度粉砕するだろうに、こいつらときたら己の身さえ守れていない。
犬の拳を濡らしているのはひなわの体液だけではない、砕けた歯で切れた拳から流れた犬の血も混じっているだろう。
トドメ、そう聞こえてくるような振りかぶり。もはやピクリとも動かないひなわの砕けかけの顔面目掛けて血まみれの拳が振り下ろされる。
バン。
この『部位』の発砲音は久方ぶりに聞いた。仕込んでは無駄に終わり、仕込んでは仕込み直すを繰り返す日々を無為に思わなかったと言ったら嘘になる。しかし、弱い己の生涯に『奥の手』はどうしたとて必要なのだ。死なぬために。
【大口鉄砲・塩弾】
絶叫を上げて顔を覆いのた打ち回る犬には、身に受けた激痛の正体を理解できまい。
やったことは単純至極、銃口の大きく開けた特製の短筒に鉛玉の代わりに塩の塊と、知り合いのたたら場でちょいと拝借して貯め込んだ釘やら鋲やら金属片を押し込んで撃っただけ。文字通り傷口に塩を塗り込む一撃だ。死にはしないが金属片の飛び込んだ目や鼻はやられ、死ぬほど痛かろうよ。
他に変わっているところを上げるならせいぜいひとつだけ。『腹』に潜むひなわの『人の皮』の胸から喉、喉から口へ銃身を送り、開いた口から銃口を突き出して撃ったということくらいだ。用意も手間もかかるうえに、何より胸から喉、口にかけて『皮』がとにかく痛む。
『外』から見なくても分かる、もう数十年は使っているお気に入りの『皮』を駄目にしてしまった。
人の皮である以上、同じ見てくれの皮はふたつと無い。苛立ち紛れにもう何発でも同じと短筒を引っ込め装填し直して再び撃つ。
塩は残念ながらもう無いが、この大口の銃口はなんでも受け入れ弾代わりにできる。石でも木片でも砂でも、火薬で打ち出せば肌を傷つけ激痛を与えられる。
筒が喉を通るたびに『皮』からビリビリ、肉からゴリゴリ聞こえてくるのが『皮』の断末魔にも聞こえ、犬の汚い悲鳴よりもよほど悲しかった。
「なんで、なんでぇッ、こんなぁ」
馬鹿が。裏切者には今受けた痛みが生温く感じるほどの時間が待っているだろう。先に死んだ姉妹が恨めしくなるほどに。
『皮の目』はもう完全に利かないが、あちこちに開いた『穴』から周りを覗けば巨大な金の箱と、その近くで片方の車輪を根元から削がれて腹を擦り呻く朧車がいた。
人間は羨ましくも体当たりを免れたか、さして怪我もないのだろう。犬の殺意はひなわだけに向かっていたし、犬も血の昇った頭のどこかで屏風覗きは殺してはならぬと覚えていたのやもしれん。
そして朧車の惨状から分かる通り、ひなわの求めた仕事も合図無しで出来たようだ。ぶつかられた衝撃を合図と思ったのかもしれん。
やるじゃないか。裏切者の犬っころより、まだしも人間のほうが上等か。
『皮の目』と違って『穴』からの視界は狭い。これならおそらく無事であろうがと、ひなわは見当たらぬ人間を探す。気を失っていれば『皮』から這い出て『狼煙棒』を炊けば近くの仲間がやってくるだろう。獣の片方しかない前足では難儀しそうだが。
目を覚ましているなら人間に『狼煙棒』を使わせればいい。話はもう通してあるのだ、よもや忘れてはおらんだろう。できれば『皮の口』が使えん時に喋りたくない。
割に合わん。見つけた裏切者が三人、あるいは四人と、手引きをした赤の下手人がひとり。一匹殺したがまだ三匹いるのでこちらはいいが、下手人挙げの手柄は人間のものだろう。これでお気に入りの姿と諸々の道具がパァになった。本当に割に合わん。
ひなわが『腹の中』で沈んでいると人間の声が聞こえてきた。イカれた『皮の耳』は聞こえないので、しばらく『腹』に伝わってくる音が何なのか分からず気付くが遅れた。どうやら人間がひなわに向けて安否を確認するために叫んでいるらしい。
「旦那、狼煙」
そんな無駄なことをしていないでさっさと『狼煙棒』を使え。そう思っていても一向に煙の臭いがしてこないことに苛立ったひなわは、溜まった鬱憤もあって思わず喋ってしまった。せめて、なるべく少ない言葉で。しかし『腹の中』でひなわが聞き取れなかったように、人間もひなわの声が聞き取れなかったらしい。
「うるせえ!! 大丈夫だよっ!! ジロジロ見てんじゃねぇ!!」
あまりにも続く悲痛な声に、いい加減に我慢の限界がきた貉は我を忘れて思い切り叫んだ。
普段の可愛らしい人間の童の声とはほど遠い、獣の濁った声。一皮剥けば現れる己の声、聴きたくなかった嫌な声で。
散々だ。人間の声は止んだが腹が立って仕方がない。
『狼煙棒』は伸びている紐を強く引っ張れば種火無しで簡単に着火する作りになっている。ようやく焼ける硝煙のにおいがしてきたこと知り、『腹の中』でひとり丸まりため息をついた。ああ、散々だと。
そこに来て、浮遊感。体を持ち上げられたことに気付く。『皮』に出来たあちこちの穴に目を向ければ人間の着ていた着物の柄が張り付いていた。
見るんじゃない、その答えに着ていた着物でひなわを包み込んだというのか。ご丁寧に胸に掻き抱いて。
空虚な時間が流れていく。時折、頭の中に思い浮かぶものはどれも形を作る前に泡と消えて、それが何なのか貉には答えが分からない。
ただ、『皮』を通して伝わってくる他人の熱は『悪くないな』と思った。