別視点。とばり 私だったかもしれない、お前へ
要らぬ煩いで遅れてしまった。屏風のやつは私を子供とでも思っているのか扱いが甘くて、なんだ、あれだ、困る。
腫れぼったい顔を叩いて気合を入れるのも何度目か、だからと言っていちいち心配そうな顔をするな。
雀よりもたらされた話ではこの辺りで赤から出稼ぎに来た物売りがいる。我らが捕らえるべきはその商人だ。
道端での物売りは土地との闘い、陣地合戦場にも似ている。場所取りに負けた者たちは次の候補、また次の候補と追いやられ客足の遠いシケた場所へと転々としていくしかない。多くの『場』では国の教えの下に商人同士で持ち回りを行い、ある程度だが公平になるよう配慮されている。しかし、自国の者達でもそうなのだから、他国から来たものはどうしても割り当てが渋いものになるのもしかたない事だ。
痩せた者、みずぼらしい者、目つきに陰のある者、今の白ノ国ではめっきり少なくなったが、それでもいる所にはいる。外周と中周りの狭間、北町の橋の近くは貧民が寄り添って暮らしている場所。ここにはそんな連中、国に逆らいこそしなかったが変化についてこれなかった者たちの住処。
商売ができるわけでも畑が耕せるわけでもない、言われた力仕事を日銭を貰って請け負う者たちの寝床だ。材木や石材などの大きく嵩張る物の輸出入はそのほとんどが城下の北側から出入りするため、いの一番に仕事に有り付くためである。
こんな所まで流されて小物売りなど碌な稼ぎにならないだろう。どっちを見ても銭が入った端から酒に代えるようなスカンピンばかりだ。酒のつまみでも売ったほうがまだしもだろう。
しかし、それが出来ないことだと赤にいたとばり自身が嫌というほど知っている。赤に庶民が自由になる食い物など無い。それこそ追っている物売りのように倒木なり拾って箸や椀にでもして売るしかないのだ。
口の中に苦い唾を感じて吐き出したくなる。だが己は大恩人、大妖白玉御前様にお仕えする者。主人の品格を貶めるような下品な真似は許されぬ。今の私は白ノ国のとばりなのだから。
「離れるなよ」
周囲から向けられる好奇の目のなかに欲を感じるたび、とばりはそちらに殺気を飛ばして威圧する。ほとんどはそれで萎縮して視線を逸らすが、中には通り過ぎたあたりでねっとりとした視線を向けてくる諦めの悪い輩もいる。そしてその目が追うのはとばりではない。
急を要するとはいえ屏風の恰好は一考すべきだった。着物についた血の臭いのせいで目立って仕方ない。明らかに荒事慣れしていないこともあり屏風はこういった場で特に目立つ。無論、悪い意味で。
屏風は人間といっても国のお抱え、多くは気付かぬフリで済ますだろう。だが、もし質の悪い人喰いに屏風が『温い人間』と知られたら、もしひとりで隙を見せたら、国の役人と知っていても凶行に走る輩が現れるやもしれん。
屏風に何かしたら只では置かぬ。影に潜んで喉を鳴らす下郎どもに、とばりは知らず視線を強めた。
地べたに小汚い茣蓙を敷き、売り物らしい箸や木製の器を並べてぼんやり座っている編み笠の者。衣類、体格、雀の伝えてきた通りの容姿。こいつか。
俯いた顔から窺える痩せこけた頬と窪んだ目元の異様さは、すべての印象を負へと持っていくよう。これは地獄から這い出た餓鬼か、昼に迷い出た幽霊ではないかと。
慢性の飢えは心を病む。食わぬ草を食い、食わぬ虫を食い、正常であれば食い物と思わぬ物さえどうにかして食えぬかと考え出す。音は消え、体温は失せ、最後に残るのは無。空きっ腹のこと以外何も考えられなくなる。
とばりにはそれが嫌というほど分かる。今、この者の魂魄は未だ身体にありながら、この世のどこにもないのだ。何も思わぬことで最後の砕けに耐えている。これが、捕縛すべき赤の物売り。
お役目だ、それ以上考えることは無い。己に何度も言い聞かせる。
この者と同じような輩は赤にはいくらでもいる。白ノ国で得た金銭も赤に戻れば重い税で奪われるというのに、彼らは白へと足繁く通う。税を取られようと、それでも赤ノ国で商いするよりは金になるのだ。
しかし、金を溜めた所で逃げることも出来ない。過去にとばりがいた頃と違い、近年の赤で国抜けは許されなくなった。外で商いをする者は決められた日付に戻らねば『苦しむ呪い』をかけられるという。即、死ぬではない、死ぬほど苦しむものだ。いっそ楽になりたいと思う民たちさえ苦痛という恐怖で国に縛り付けている。
生き地獄だ。
何度かき消しても浮かび上がる、そんな言葉に引き摺られ、同情が頭を鈍らせた。
枯れかけた柳のような姿からの突然の粉の目潰し。刺激物の混じった灰を投げつけられ、わずかに目に入り鼻で吸ってしまった。不覚、石や刃物ならまだ防げたであろう。咄嗟に相手がいた場所目掛けて紐分銅を投げつけたが、跳ね返ってきた硬質の音から肉に当たることも絡め取ることもできなかったと判断する。分銅は茣蓙の上の売り物を跳ね飛ばしたただけ。
【豪風の術】
灰で煙った空気を風で強引に吹き飛ばす。前方に広く目潰しの粉がまき散らされることになるだろうが止むを得ぬ。前にいた民は迷惑だろうがしばらくすれば拡散するだろう。
幸い毒物ではなかったようで、ほとんど防げたこともありとばりは目も呼吸も既に影響はない。だが、屏風は盛大にせき込み目から涙を流していた。どうやら諸に被ったらしい。
悪いと思いながらも周囲の確認を優先する。全方位、こちらに好奇の目を向ける民衆たちの中にヤツはいない。いくらなんでも姿を消すのが早すぎる。術か? 他者の手引きか? 単なる物売りではなかったのか?
焦りが募る中、せき込みながらも屏風が私を呼び指で上を指し示した。
「空かッ」
不味い不味い不味い。骸から呼び込む病毒の呪い、あんなものをもし空から町に撒かれたら疫病が国を覆う。
見上げた先にはたしかに物売りがいた。だがそれを見た瞬間、とばりは目を見開いたまま呼吸が止まり体が強張ったのが己でも分かった。
白い雲にかかる黒い翼、それは烏の羽。骨と皮の目立つ背から出されたほろぼろの翼を羽ばたいて空へと昇っていく。己と同じ、天狗。
棒手裏剣、遠い、軽すぎてもう届かん。重さがいる、苦無だ。胴の防具に縫い付けた鞘から抜いたこの苦無、内丹を練り上げて投擲すればまだ届く。
だというのに、呼吸がうまくできない。やはり毒? 違う。おかしい、あの物売りはおかしい。なんだあの目は、まるで生きながらに死んでいる。あれでは木偶ではないか。天狗が、私と同じ木っ端天狗が。
とばりの中で大きな声と小さな声がぶつかり合っては消える。大きな声は絶叫のように体を突き動かそうとし、小さな声は擦り切れるように足を鈍らせる。それがとばりの投擲と跳躍が届く最後の機会を失わせた。
町を守れ!! 哀れだ 町を守れ!! 哀れだ
すでに天高く昇った天狗は弓でも鉄砲でも届かない。戻ってきた正気で怒りと後悔を感じ歯が軋むほど口を結んでも、とばりは空を飛んで追う事が出来ない。そして、他に飛べる者がやってくるまで奴が待っているわけもない。
目の前が揺れる、地面が、足が、溶けて無くなっていくよう。
愚か愚か愚か、なんで私はこうなのだ。何度しくじれば、何度悔めば懲りるのだ。いつもいつもいつもッ!!
「つッ、」
頬を張られた、叩かれた?
目の前に目を充血させた屏風の顔があった。涙、鼻水、なんとひどい顔だ。ああ、地面が分かる、耳が戻ってくる。言葉が聞こえる。
指し示すのはやはり空。空を駆け上がれ、それが屏風の言葉。奴を屏風が見える高さまで叩き落とせと。
いつか見た金色の道が僅かなズレを付けつつ次々と空へ伸びていく。それはまるで巨大な光の梯子、光の階段。人の身で峠を駈けることに助力してくれたあの光が、今度は天空へと諦めかけた烏を導いている。
これなら届く、必ず届く、届いて見せる!! 昇った後など知らぬ、今ここを凌がず生きていけるか!!
呼吸、呼吸、呼吸、心の臓を爆発させるほど血流を押し流し、ただ一点を標的に、とばりのたったひとつの意志で最初の一歩を解き放つ。
減速を感じるより早く、もう一段、躊躇を感じるより早く、もう一段。鳥の翼も持たずに無空の世界を駆け上がる。町も城も遥か下、それを見ることも今は余分。羽を持ってさえ空で自由は儘ならぬ。翼折れれば落ちる、意志挫ければ落ちる、体が、心が、一度でも揺らげば空は許しはしない。
それがどうした、風に脅かされても一段踏めば立て直せる。心揺れても一段踏めば立て直せる。支えがある、屏風が道を作ってくれている。
ついに間合いに捉えた心を失った哀れな木偶、お前はもしかしたら私だったかもしれない。抵抗することも拾われることもなかった『終わった私』だ。
だから私よ、おしまいにしよう。いつかお前も私になれ。でも、今日は、
「お前に出番はない」
垂直の壁を足場に見立て全力で蹴りつけ、陽炎のような木偶の背中目掛けて飛び蹴りを放つ。
一撃で翼を、背骨を、諸共に砕き折った足をそのままに、下駄に食い込む肉を抉って木偶を真下にした落下が始まる。
ここから屏風の壁へは遠い、揺るがぬ壁を蹴りつけた跳躍のような距離はこれでは出ない。分かっていた。後悔などない、後始末は屏風がやってくれる。これで地面に叩きつけられ絶命しても失態の帳消しが出来るなら本望だ。だが
遥か下でしきりに声を張り上げているであろう屏風の姿が見えた。遠すぎて聞こえぬはずの必死の叫び、それがとばりにははっきりと聞こえた気がした。
跳べと。
木偶を足場に最後の跳躍、目指すは眼下に新たに作られた光の壁。
ひとり落ちていった木偶がその下に作られた光の器の中に叩きつけられ、飛び散るより早く蓋がされたのが見えた。その器にはおそらく隙間など無く、屏風が望まぬ限りどんな細い針さえ通るまい。
そして光に到達したとばりは壁に下駄で鉋をかけるようにして減速を試み、落下から徐々に滑走へと移行する。昇りと違いズレのない滑らかな壁は一枚ごと角度が緩くなり、やがてはっきり斜めとなったことで墜落死の無い体勢に落ち着けた。
連なる光壁を静かに滑り降りていく。降りるほどに聞こえてきたのは事情を知らぬ民衆の喝采と熱狂の声。誰もが光を使った大道芸とそこを滑る曲芸師に目を奪われ、帰還を喜びその雄姿に注目する。けれどうるさいほどの歓声も今のとばりには遠い。
その目には両手を目いっぱい振って迎えてくれる、屏風の姿しか見えていなかったから。