旅行で全身に分散してでも現金を持っていくタイプ
貨幣の説明が解り難いかと思いマーク表示で枚数を表してみました。余計に解かり難かったらごめんなさい
「待て、どこに行く」
せっかく来た金物屋だというのに何も買わずに外に出ようとした事を問い質され、店の端でヒソヒソと懐具合を聞かれた屏風覗きは観念して高い買い物過ぎると告白した。物価が現代と違うので正確には判らないが、たぶん包丁一本でそこそこの大型家電製品くらいのお値段である。気軽に買うには躊躇する金額だ。
安い物でも『一分銀(ひとつ1000文)』1枚に『一朱銀(ひとつ250文)』2枚と200文、文銭にして1700文。蒲焼1人前で10文だったのを現代の千円とすると、包丁一本で17万円。プロ仕様の包丁でもなかなか無いお値段ではないだろうか。
ちなみに価値の高い貨幣順から『両』→『二分』→『一分』→『二朱』→『一朱』→『文』で、時代劇でお馴染みの『小判』一両は『文銭』8000文の価値がある。もう少し詳しく掘り下げると
『小判О』 =『二分金の2枚分の価値』『О』→『金□□(4000×2)』
『二分金□(4000文)』=『一分金◇or一分銀◆2枚分の価値』
『金□』→『金◇◇(2000×2)』か『銀◆◆(2000×2)』
『一分金◇(1000文)』=『一朱金が4枚分の価値』『金◇』→『金▽▽▽▽(250×4)』
『一分銀◆(1000文)』=『一朱銀が4分枚の価値』『銀◆』→『銀▼▼▼▼(250×4)』
『一朱金▽(250文)』=『文銭250枚分の価値』『金▽』→『◎×250』
『一朱銀▼(250文)』=『文銭250枚分の価値』『銀▼』→『◎×250』
といった感じだ。枚数上は金と銀の価値が同列になるので変な感じだが、現物を見れば納得できる。大きさと重量で帳尻を合わせているのだ。同じ一分金、一分銀でも金のほうが一回り小さく作られている。
貨幣は他にもあるようだが屏風覗きの袖には今のところないので割愛。
買い食いの時に揚げ物が油の中を泳ぐさまをジーっと凝視しつつ教えてくれた、講師のとばり先生に感謝。
予算を聞かれたので袖に収まっている金子の入った袋と、紐で通した文銭の束を取り出して見せた途端、とばり殿は呆れた顔で袖を掴み中身を周りから隠した。
「全部持ってきたのか馬鹿者」
道理で袖が膨らんどるわけだ、と掴んだ袖をグニグニ揉みつつ小声で叱ってくる。しかたないでしょう。自前の金庫とか持っていないし、幽世の銀行口座も持っていないのだ。銀行など金融機関に関しては幽世にあるかどうかもまだ知らない。お金関連だと城下に入った時に両替商と、ジャンルとしてグレーゾーンだが質屋は確認している。
「流しの屋台はともかく、店舗のある店なら城勤めはツケが効くんだぞ」
どのみち安全な保管場所が無い。昨日今日お借りした住まいは箪笥ひとつ無いのだ。城の敷地内とはいえ金銭を床にむき出しで置いておくというのはいくらなんでも不用心すぎる。壺にでも入れて床下に埋める方がまだしも精神的に楽だろう。大事な物は持てる限り手元に置くべきだ。
ちなみに袖の袋の中身だけで二分金が3枚(1枚2000文×3=6000文)、一分金と一分銀が5枚づつ(1枚1000文、5+5=10.000文)、一朱銀が20枚(250×20=5000文)入っている。文にして総額2万1千文也。一両小判なら5枚分ちょいだ。
他の職業の給料が分からないので支度金として多いか少ないかは分からない。しかし田舎者がヂャラヂャラ持ち歩いていい金額でない事くらいは判る。蒲焼き計算なら210万円。通帳で単位こそ見たことがあっても現物で握ったことなど無い金額だ。
なんだ、これなら包丁の一本程度軽く購入できるだろう。と安易に考えてはいけない。『全財産で』これだけなのだ。
これは当面の給金であって次のおかわりがいつ来るか、どの程度の金額なのかまだ聞かされていなかったりする。出来高制なのか定額なのか、月なのか年単位なのかも分からない。
もちろん聞けばいいだけの話だ。ただ目の前でアホの子を見る目で新米を見上げる小さな先輩に、給料の事なんて明け透けな事情を聞くの、うーんなんとなく心情的に憚られる。安いプライドとも言う。
まだ下界行脚まで数日あるし、今日のところは店を冷やかして金銭感覚を養おうというのが屏風覗きの結論です。
「次は付き合ってやれるか分からんぞ」
それを言われると弱い。安いほうがいいなら中古でもよかろ、と言われたが口に入れる物を扱う道具で中古は抵抗が大きい。
現代で中古の包丁販売なんてまず見ないし、家庭用程度なら1万しないものがいくらでも売ってるからな。一方で幽世、もしくは白ノ国は金属製品が高いので中古も普通に扱っているようだ。
昔は一本の包丁を大事に研いで使い続け、祖母から母親、そして孫の手に渡る頃には果物ナイフみたいなサイズになっていたりしたらしいね。思い出もあるだろうが、単純に金属製品がそれだけ高価だったということだろう。
目利きが出来て店の信頼もあるとばり殿がいるうちに、ひとまず高価な買い物だけでも済ませてしまった方がいいんじゃないか。そんな考えが頭をよぎる。
しかしだ、よくよく考えたら買ったとしてどの程度の頻度で使うだろうか。自炊自体は過去にしていた、していたが文明の利器に頼り切った家事スキルしか持っていない。
具材を炒めるガス台もIHレンジも無ければ電子レンジもオーブンも無い。食材を保存する冷蔵庫も飯を炊く炊飯器も無い。
ガスと電気の恩恵に甘やかされた現代っこが、今さらキャンプでもないのに毎日火を熾して飯を炊けるか? アウトドア大好き人間なら嬉々としてやれるかもしれないけど、屏風覗きは生憎インドア大好き人間である。
そして日々の暮らしとお片付けはワンセット。鉄の包丁は手入れを怠るとあっという間に錆びる。
毎回使い終わったら洗うだけじゃ足りない、うすく油を引いて包丁の鉄と空気中の酸素との結合をシャットアウトしてやる必要がある。ステンレスやセラミックの包丁は現代の忙しい家事事情を助ける強い味方なのだ。
朝夕の食事の用意にお弁当、もちろんレトルトや冷凍食品なんて使えない、ちょっと厳しいか。最悪飯だけ炊いておかずは屋台あたりから毎日買い付けるとかならできるか?
面倒だが自炊に対しては結構前向きだったりする。何といってもごはんの量を自由に調整できますから。
最終的に金物店で購入したのは飯炊き用のお釜。とばり先生が交渉してくれて1900文ほどが1600文で買えた。
見た目わりときれいだし火を通すのでこれは中古でいいかなと思ってのチョイス。店主であるひとつ目のご老人が脂汗を流していてたように見えたので、さらに切り込んでいきそうな先生をお諫めしてのお値段です。
こういう値切りを愉しむのも店と客に許された買い物の醍醐味なんだろうけど、屏風覗きとしては普通にお値段分払ってサッと帰りたい。無人レジ推奨派であります。
風呂敷に包まれた重量感のある釜を抱えて店を出る。とにかく昔の道具は大きくて固くて重くてかなわん。
下駄を裏返したみたいな木製の蓋はサービスという形で(とばり殿が棚から毟って)頂いた。駅の釜飯弁当とかで見る見かけだけのスカスカの蓋と違って、純木製の蓋なので地味に重い。昔の人が現代人に比べてやたら力持ちだった理由は、生活の何気ない動作でインナーマッスルが鍛えられていたからだろうな。
外に出ると太陽はすでに真上、どうやらぼちぼちお昼らしい。食べまくっているせいで腹時計がまったく機能していない。こういうメリハリの無い食い方が一番よくないというのに。
炊事の煙と暖められた食事のにおいが店や民家を問わずあちこちから漂ってくる。もちろん道に連なる屋台は今こそ稼ぎ時と、威勢のいい声で訴える店もあれば香ばしい香りで引き寄せる店もある。
客は客で己の懐と胃袋に楽しく、あるいは悲しく翻弄されている。懐事情と相談しながら屋台を吟味する客もいれば、早々にお高そうな店に入っていく客もいて、城下の妖怪たちの暮らしぶりがこれだけで見えるようだ。
「屏風、城に戻れば雑炊くらいは食えるぞ」
そう言いつつとばり殿の鋭い眼光は通り向かいのうどん屋に釘付けである。今回はとても長くお付き合いをしてもらったし、この機会にかねてから計画していたお礼が出来ないかと思案する。怪我の治療は勝手なお節介でしかないし、やはり感謝は形を伴うものを送らないと座りが悪い。
幽世で初めてのうどんを食べながら、贈り物の相手が喜びそうな物を思案するのもいいだろう。
そう思って相方を追いかけうどん屋に歩き出したとき、不意に向き直ったとばり殿の腕が音も無くブレた。
バチィッ、という水っぽい破裂音と共に、熱い液体が下の方から顔にまでかかる。何気なく屏風覗きのすぐ横を通り過ぎようとした着物ケモが、苦痛の叫びを上げて蹲っていた。
激痛にワナワナと震える手はもう一方の血まみれの手を押さえ、そして地面には袖に入れていたはずの金子の入った袋が、着物ケモの血まみれの手からボタリと零れた。
「イタチの類か? 切り剥がしのスリが」
いつの間に持ったのか、小さな守衛の手には紐に下がった無骨な重りが揺れている。鈍い青に輝く分銅には付いたばかりの血と肉片が張り付いていた。
<実績解除 なこ廻り捕物帳 3000ポイント>