別視点。とばりは信じたかった2
「珍しい! とばりが牡丹に来るとはねえ、こっちは熱いから嫌いじゃなかったっけ? もちろんどっちに入るのも好きにすりゃいいけどさあ、髭は勘弁ってのも分かる。ありゃ間違いなく出汁が出てるって。かけ湯も一度頭から引っ被っておしまいだ。湯船にフケでも浮かんでるんじゃないかねえ、ただでさえ毛むくじゃらの連中だ。湯を掬ったら手に毛が何本かかるか分かったもんじゃない。こういうときだよ人の体がありがたいのはさあ、それでも残る頭の毛はちいと面倒くさいけどね。まさか狸じゃあるまいし、坊さんなんぞにゃ拝まれたってなりたくない。なんで人の坊主は勝手に禿になりたがるんだかねえ」
前を隠しもしないで無防備に近づいてくる貉にとばりの警戒心は増していく。今どこに注視すべきか今どこが危いか、日々の知識と経験が教えてくれる。
まず自然を装い頭を掻く右の腕。後ろ髪に隠れたアレの掌には雑な縫い目がある。そこから伸びる鉄の棒があるとすれば、装填済みの短筒の口だ。この人の皮を被った長命の獣、経立はおぞましくも体中に火砲を仕込んでいる。
両手両足、最低でも四丁の短筒がこの貉の奥の手だ。隠そうとも日々のわずかな偶然が一度、二度と手足の縫い目を晒してはとばりに縫い目の疑問を与えてくれた。
ほんの一度だけの事だが、とばりはその奥の手をひなわに知られず目にする機会があった。見回りでこれみよがしに持っている銃を下ろし、相手に笑顔を向け、気さくに話しかけ、何気なく手を上げてズドン。火縄の燃える臭いさえさせない秘匿の一撃。
とばりは気配を殺しひなわが去るまでその場を動かなかった。知らぬふりでやり過ごしたのは至極当然の事。
己であったら殺す。仲間であっても奥の手を見られたら殺すしかないからだ。秘技や奥の手とは一種の奇襲、誰にも知られていないことが最大の武器なのだから。
「屏風が世話になったな」
意図せず声が低くなってしまったことに内心舌打ちする。この間合いで警戒させるわけにはいかない。策に嵌めようとする輩はうまくいっている間は無防備だ。反面、わずかな疑念で全てを疑い出す。できることならあと二歩、正確には二歩と爪一枚分だけ間抜けであってくれ。そうすれば手持ちで、とばりが一度の踏み込みで必殺できる間合いに入る。
【握り物】
手の中に握り込むだけで隠せるこの無骨な暗器を、とばりは入浴の時であろうと必ず持ち込んでいる。既に中指にはめこんだ鉄の輪と共に後ろ手で拳を握る。この暗器唯一の殺意は角度の浅い突起があることだ。
とばりはこの暗器の使い方が本来の使用意図と異なると知っている。これを使っていた人間の多くは女の間者であり、殴るのではなく突起を手の内側に向け隙を見て男の急所を握るという形で使っていた。そこは非力な女でも男を必倒できる急所であり、殺傷ではなく逃走するため使われていたという違いもある。
もちろんとばりの仕込む握り物は突起を拳側に向けている。内丹を込めた鉄の一撃は牛の頭蓋であろうと打ち砕ける威力を持っているのだから向けない理由は無い。
「うはっ、もう知ってましたかい。雛にしちゃでかいですなぁ。ピーピー鳴いて恐い怖いと泣きついてきましたかい? 親離れできないのか子離れできねえのか、いやはや困ったもんだ。ちょいと突き放すくらいでないとおしめが取れないんじゃねえんですか」
聞くに堪えない。風呂で茹っていた頭が冷えていく。そのクセ胸から煮立った血流が全身を駆け巡り、重心が勝手に沈んでいくのを感じる。足の親指にいたっては、すでに滑る心配のない板の隙間に食い込ませていた。
あいつは隠していた、泣きついてなどいない。死ぬような目にあっても強がっていたぞ。
「まあ驚いたのは本当ですわ、小指一本足長様に喰われなかった。いやあつまらんつまらん、なんぞ見覚えのあるヤツが丼持ってウロウロしてるから覗いていたってのに。まったくの無駄足だってんだから。それが小便のひとつも漏らしゃしない」
もはや奇襲もクソもない、貉にもこちらの怒気は感づかれただろう。無防備だった姿勢が、重心が、悟られぬよう密かに変わっていく。見抜いているぞ獣、だが認めてやる。こちらも湧き上がる怒りで爪一枚分しくじった。だがそれがなんだ、こいつの言葉が耳を通るたびに足に込めた力は爪一枚をはるかに超え、いよいよ増していく。蛇足だ、だが最後の確認をする。
「最初から見ていたと?」
頭を掻く手が止まるがもう遅い。おまえがその手を向けるより早く、こちらの拳を土手っ腹に捻じ込ん
「適当なところで助けてやりゃ、恩のひとつも売」
撃発。それはおそらく双方が思ったこと。思考が、言葉が、最後まで続くことなく走り出す。
洗い場の板を踏み切り突撃したとばり、その拳はまさしく粉砕の威力を持つ砲弾のよう。
右と見せかけ左手を向けたひなわ。縫い目を破いて突き出た銃口が狙うは、過たず必殺の眉間。
「うはっ、すげえ」
瞬きひとつの時間の中、撃ち出された鉄と鉛は狙った標的を捉えることがなかった。鉄は鉛に叩きつけられ、鉛は鉄に張り付いたのみ。
出し抜かれた。咄嗟に拳の軌道を変えて銃撃を防がなければ指の骨折程度では済まなかった。ひなわが右手を隠したのはそれ自体が欺瞞。無造作にぶら下げていた左手こそ準備万端、殺意の塊であった。
だがどちらがより収穫を手にしたか言えばこちらだ。喉から手が出るほど欲しかった、とばりの矮躯で届く間合いがここにある。
即座に腹を狙って振るわれた左拳を、突き出したままだったひなわの腕が咄嗟に防ぐ。くたびれた竹を折ったような、ミシリという感触が伝わり目に見えて歪んだ。
逡巡なく右拳も振るう、指が折れても握れていれば打撃にさして問題は無い。軌道は腹、に見せて無音で顔目掛けて伸びてきたひなわの右手の甲を打ち上げる。強い痛みと、こちら以上の激痛を感じる貉の苦悶の歯軋りが聞こえた。
膝の縫い目から爪ほどの黒光りが覗いた瞬間に足の内側を蹴飛ばし強引に引き倒す。うつ伏せで馬乗りになれば足の短筒で撃てはしない。この姿勢で完全な拘束など不可能だが、後は右手の短筒に気を付け動かなくなるまで殴りまくれば同じだ。
「参った!! 参りました!! 勘弁ッ!! ご勘弁ッ!!」
悪いが馬乗りを解く気は無いぞ貉。殺しは御法度だが喧嘩は禁じられていないのだ。湯治の臨時編成で同室となった気安さもあって流されがちだったが、見回り組の平隊員であるひなわは守衛組隊長格のとばりより下位。他所の組だからと今まで甘くなれ合っていたことは己の不明、貴様のためにもここで上下を教えてやるぞ。
最悪、半死半生にすればそれを罰の代わりとして助命もなんとか通るだろう。
「何をしておる貴様らァッ!!」
思わず拳を振り上げたまま体が硬直した。同じく足の下で組み敷いた貉も竦み上がったのが分かる。幾人かがこちらを伺う脱衣所を抜けて、烈火を纏った恐怖の権化がとばりたちの前に現れた。