別視点。とばりの景色3
頭巾猫様は白玉御前直属のお傍衆であり、本来は新参の守衛程度ではうっかり頭を上げることも許されない格上である。
どのような雑事でも命じられれば黙々と行うので下っ端のとばりであっても面識程度はあったが、やはり緊張することは避けられない。何かと面通しや申しつけの多い立花様とはまた違った意味で気後れしてしまう。
それこそ無礼を働けば一度顎をしゃくるだけで若輩カラス一羽程度、独断で処断されかねない。少なくともとばりは予防を兼ねてそう思っている。何分己は口を開くと目上を怒らせやすいのだ、気を付け過ぎるということはない
その恐ろしいお傍衆に取り囲まれて文字通り鳥肌を立てている自分は、はたしてお天道様にどのような不敬を犯したのだろう。
もちろん別に断罪されているわけではないのは分かっている。立花様のお計らいにより、白玉御前様の家臣にして高名な医者であるらしいお方に診て頂けることになったのだ。ありがたいことなのだ。とても心細いというだけで。
屏風はどうしただろうか、傷は大事無いようだが顔色が優れなかったのが少々心配だ。いや、気になっているわけではない。あれでも共に戦った仲間、違う、友、じゃない、ともかく多少は気遣うべき者なのだ。幽世で人間ひとりでは不安であろうから。そうだ、現実から逃げたい気持ちがそんな益体ないことを思わせてくるのだ。心配などしていない。
「白玉御前様付き『おうと、どくたあ』様、滞りなくここにお運びいたしました」
幾人もいる頭巾猫様のお一人が先触れとして顔を出したのに合わせ、頭だけをひたすらに下げてお迎えする。袴を脱いだ足をそのままにすることに習慣的な恐怖を感じるが、このままでよいと言われているのだから覚悟してこのままでいるしかない。
命令なのだ。たとえ足が千切れていても座れと言われたら座る、それが命令というものなのだ。幸い白ノ国ではそのような無体を言われることはないのであくまで己の戒めのための覚悟である。しかし、お運びとはどういうことだろう。普通はお連れ、ではないのか。
襖を開けて幾人もの頭巾猫様が入室してくる気配がする。常に新品同然のきつねやの床から軋みが聞こえたことを考えると『おうと、どくたあ』様は恰幅が大変およろしいのかも知れない。
面を上げよとのお言葉に二拍子数えて頭を上げる。早すぎても遅すぎても無礼となるので、このあたりの呼吸は体に叩き込まなければならない。そういえば昨夜の屏風は実に酷かった。いずれ教えねばならない。違う、そんな必要はない。あれは客、客なのだ。
顔を上げたときに見えたのは大きなびいどろの筒。貴人の持ち物にまれにある透明な器、強弁すればあれを大きくしたものが近いだろうか。何度か見たことのある贈答品のびいどろはため息がでるほど綺麗で、あの器ひとつでも住処に飾れたらどれだけよいかと羨む美しい品である。
それに比べてコレは管やら何やらゴチャゴチャついていて、はっきり言ってみてくれが実に悪い。びいどろのところだけ切り取りたいくらいだ。
「これより『おうと、どくたあ』様による治療を始めて頂く。身動ぎなどして『おうと、どくたあ』様のお手を煩わせることなど無きように」
はて『おうと、どくたあ』様は何処におわすのだろう。周りは頭巾猫様だけで他にいない。そんな疑問を口にするわけにもいかず黙っていると、ポーンという聞いたことのない奇妙な音がびいどろから響いてきた。
思わず身構えそうになるも、身じろぎするなと命じられているのだから動くわけにはいかない。そしてとばりは命じられた通り動かなかった。それでもびいどろの背から突如現れた何本もの金属で出来た蛇か長い虫の足か分からぬ何かがとばりの体を掴んだとき、これ以上ないほど情けない悲鳴を上げてしまった。
あれからのことはよく覚えていない。持ち上げられて、びいどろの中に押し込まれて、気が付けば両足の治療は終わっていた。色が抜けそうなほど白い包帯が巻かれいる患部は、もはや痛みがきれいに無くなっている。
すでにびいどろは部屋から持ち帰られており、お一人だけ残っていた頭巾猫様より、もう傷は完治しているが跡が残らぬよう大事を取って本日は包帯を取らぬようにと言われた。すべてがなんとも言えない奇妙な体験であった。
アレは『おうと、どくたあ』様の術。そう納得して黙しておくことが、とばりにできる唯一の処世術であろう。
治ったとはいえ勝負の役目を果たし、怪我を負ったとばりは本日の勤めを免除された。さりとて若輩にあてがわれた脇本陣の数人部屋はこの時間は誰もいない。
遠くから流れてくる窯の炭と料理の香りと下人たちの喧噪は、きつねやにて本日の祝勝会の準備が進んでいるからだ。普段ならそこに己の姿もあるだろう。もっとも、お役目は守衛なので参られる客人たちに目を光らせ案内人に引き継ぐくらいだ。お役目の合間にいつもとは違う珍しい賄いが出るのを期待しているかもしれない。
しかし、治療後に見舞ってくれた立花様より今後の予定を聞いて仰天した。主賓来客差し置いて、恐れ多くも本日の主役の一人がとばり自身だと言う。併せてもう一方の主役、屏風のヤツは替え玉を使うので伝えておくとも言われた。
「おまえが一番顔を会わせておるわけだし、今回の勝負の同士でもある。ある程度は話しておこう」
人が幽世に居続けることは好ましくない。過去多くの人外が幾度も言ってきた言葉から始まったお話は、意外にもとばりの予想とは違う方向に進んでいく。
「幽世は現世と隔てられた国であり人の世ではないが、同時に人の世が無ければ滞りなく進めない国でもある。この意味が分かるか」
素直に解りませぬと言う他はない。現世から渡ってきたとはいえ所詮は齢百年足らずの若輩でしかない。目の前の付喪神が同じく現世から幽世に渡ったうえ、己の十倍は下らぬ時を過ごした大妖であることからも自身が未熟者であることは自覚している。
実力実績申し分なく、人となりも公正であり尊敬できるお方なのでヒネたカラスであっても素直に頭を下げて教えを乞うことができる。それでもとばりは少し苦手だが。
「まあなんだ、人の知恵が無くば発展せんのよ。幽世は」
他のどんな生き物より悪知恵が働く上にどこまでも欲深い人間と違い、幽世にいるような妖怪は今で満足していられるので百年経とうと千年経とうと変わらない。それ自体は悪くないことだが下の者たちが延々と飢えるような国では地獄だ。白玉御前はそれを変えていきたいと仰ったという。
過去に己のいた山を思い出してとばりは深く頷いた。まさにあれは地獄だ、食えぬほど苦しく惨めなことは無い。
「白ノ国にアレを取り込む。詳しくは言えんが、今回はそのための仕込みよ。分かっていると思うが誰であっても口外は禁ずる、御前の仕込みが終わるまで待て」
それはとばりに是非もない。政の話など雲の上過ぎるし、下っ端は言われたことをこなすだけだ。ただ、なぜ替え玉を使う必要があるのだろうと要らぬ疑問が湧いてくる。屏風とて術で勝負に貢献したし、最後は傷を押して山車を引いた。あと一手、とばりと屏風のどちらかでも手を抜いていたら赤の卑怯者共に負けていただろう。
何より最後はとばりのほうが心が折れていた。あの勝ちは諦めなかった屏風が引き寄せた勝ちだと思っている。その立役者が替え玉。
何か胸に、おかしな淀みが浮かんだ。
疑問が顔に出てしまったのだろうか、立花様は足、顔とこちらを見定めるように眺めた後、ひとり納得して予想外の言葉を紡いだ。
「屏風覗きは、どうも心の病にかかったらしい」