別視点。とばりの景色2
とばりが屏風覗き殿の相談事に耳を傾けて思い至ったことは、素直に言って耄碌した老人あたりの荒唐無稽な寓話という結論だった。
たたでさえ痛みを堪えて走るのに忙しい己に妄言をぶつけてくるとはと、憤怒の気持ちさえ浮かぶほどである。どうも先ほど無理やり山車を避けたさい、少々右の足首を痛めたらしい。ジクジクと痛む感じから折れてはいないようだが、勝負が終わるのを待たずに腫れ上がってしまうだろう。内丹で痛みを誤魔化そうにも休む間が無いのでは限界がある。
それでも痛みには慣れている。この足が砕け散っても走るのを止めるつもりはない。ただ、どれだけ決意を固めても今のこの状況が手詰まりなのは事実だ。
だから止むを得ぬ。このとんちきを信じるのではない、取り立てたあの御方の見立てこそ信じて話に乗る。偽りであったらたとえ御前にご不興を買おうと獅子身中の虫として殺してくれる。それが拾われたカラスの最後のご奉公になろうともだ。
それにしても目障りなのは下郎が先ほどから忙しなく弄っている代物。袖から取り出した奇妙な金板だ。驚くほど透明な美しいびいどろが被せてあるのだが、金板のほうは色こそ曇りのない銀のクセに余り金を切り落としただけのようなちぐはぐな造りをしている。そしてどういう絡繰りか知らぬが光を出しているようだった。
はたして価値があるのか無いのか、学の無いとばりには分からない。いやいや今はどうでもよいことだ。このような大事なときに気が散ったのは、カラスの目の前で光物をこれ見よがしに弄っている下賤の者が悪い。目が行ってしかたない。
屏風覗きの策でとばりに要求されるのは足と度胸。足はすでに壊れかけだが片足だろうと走り抜けて見せる。問題は度胸、というよりこの未だ得体のしれない人間を最後まで信用できるかどうかだ。
「それは黄でよいのだな?」
下が駄目なら上から行けばいい。要は地面から宙に伸びる橋を屏風覗きが作るという。
橋の入口は黄金色であるらしい。山車が通れるだけの十分な幅はあるが、できるだけまっすぐ行くようにと求められる。ただし色があるのは最初の坂の二丈のみ。そこから鳥居を潜れるギリギリの高さまで上がり、あとは見えない平地を飛ぶが如く走れるとの事。
二度聞いても信じられん。たしかに壁や橋を作る術はとばりでも聞いたことはあるものの、そこまで変幻自在な術理となれば腕利きの術師でも使えるか怪しいものだ。だからと言ってとばりに代案も無い。伸るか反るかなら乗るしかない。後はどの機会に空を行くか、これが難しい。
早すぎれば唐墨あたりにまた妨害されかねない。かと言って遅いと失敗したときに取り返しがつかぬ。屏風覗き殿は合図があれば瞬時に術を使えると言うが、初見となる機をお互い捉え切れるかどうか。
ぼちぼち大鳥居というところでとばりは決断した。九段折り返し後に仕掛けると。
折り返し前に抜く場合、早仕掛けは妨害の機会を多く与えてしまう。できれば相手の意表を突いて意識の空白を少しでも利用し、持ち直す時間を与えたくない。一方遅いと距離を取り切れず折り返し直後に正面から入ってくる赤の山車にぶちかましを受けかねない。向こうは抜かれたら避ける気など起きないだろう。それこそわざと通り道に立ちはだかると思ったほうがいい。
作戦は決まった。九段峠の折り返しから八段、あるいは七段の鳥居までに最高速に乗り、六段で仕掛ける。あとは五段の平地から大鳥居を曲がり、そのまま終着まで駆け抜ける。完全に抜いてしまえば唐墨の風の術も初歩程度ではこちらを捉えきれまい。加えて稲荷神社の間際で大きな術を使えば黄ノ国の不況を買う。赤ノ国の馬鹿天狗ならいざ知らず、他国が双子に忖度する理由などまるで無いのだから。
大鳥居の横を走り抜け六段へ。鳥居は必ず潜らねばならないが大鳥居は最初と最後のみなので両者そのまま通り過ぎる。先ほどの巻き直しのように追走するなか、いよいよ九段峠側の鳥居が近づいてきた。仕掛けはこの後、まずは凶鳥どもの戯れをあしらわねばならない。
手口は先ほどと同じ、一段の折り返し同様に赤の山車がすぐさま停止してその場で回転した。予め知っていれば避けるのは難しくない。加えて疑心を持って注視したカラスの目には、わずかに宙に浮く車輪が見て取れた。
卑怯者どもめ、この場で唾を吐きかけてやりたいほど黒い気持ちが沸き上がる。あの頃と何も変わっていない。
「ハッ、終わりだ!」
非常に残念ながら二度目は転ばず耐えた大渡の勝ち誇った捨て台詞が吐き掛けられる。たしかに何も出来ねばこちらが負けで終わりだろうよ。ああ、この場限りは是非その慢心を続けてくれ。
「仕込みはよいか?」
悠々遠ざかる赤の山車を睨み、屏風覗きに最後の確認をする。距離が開くのは困るが今はこれでいい。わずかでも足を休ませたかったし、連中に声を聴かせたくない。気取られるわけにはいかぬ。
神おわす峠の空気をこの身いっぱいに吸い上げる。途端、右足から熱と悲鳴が届いたが黙殺するのみだ。
いざ駆ける。吹き出た脂汗で手を滑らせても持ち手を離すことはない。横の視界が消え失せ、ただ一点、忌々しい赤の山車だけが眼を支配する。八段、届かぬ。七段、今少し。六段
「ゆくぞッ、屏風!!」
音も無く表れた黄金色の坂道を躊躇わず踏みつけ、駆け上がる。蹴りつける足場は一歩ですぐ何も見えなくなった。しかし跳ね返ってくる感触は硬く平たい岩のよう。ここからどれだけ透明な橋が続こうと、とばりが踏み外すことはない。カラスは生まれて初めて人の姿で空を駆ける。
空中から赤の山車と同時に六段終わりの鳥居を潜ってそのまま追い抜く。遅れて下から何やら大きな音と悲鳴が聞こえた気がしたが今のとばりには埒外のこと。改めて下りの形で黄金色の坂が現れる機を見逃すわけにはいかない。
危なげなく坂を下りてここから五段、あとひとっ走りして大鳥居を潜ればこちらの勝ちに、
衝撃。左の足がバチリと弾けた。ゆっくり流れる時間のなかで、強く蹴り飛ばされたように広がった己の左足と、血と、そこに食い込んだ石が見えた。
石礫の術。大抵の天狗がもっとも得意とする術のひとつで、小石を風に巻いて打ち出す、それだけの代物。それだけの、それだけの術でも己は使えないのだけど。
体勢が崩れ、山車が崩れ、あらぬ方向に転がっていく。のたうつ蛇のような軌道から、わずかの間だけ後ろを見る機会があった。
はるか後方で赤の山車が転倒していた。なるほど、先ほどの大きな音はあれが転んだものであろう。そして手前で大渡が頭から血を流して蹲っている、さては急に立ち止まるなりして自分の山車に轢かれたな、阿呆め。
そして阿保の横には術の印を解いた唐墨の姿。そうだろうよ、こんなことをするのは貴様しかいない。阿保め、阿保め、このど阿保めッ。私の、ど阿保めがッ。またあいつらに!!
灯篭にぶち当たったことでどうにか山車が止まる。持ち手に体を預けられたおかげでこちらは轢かれずに済んだ。でもそれだけだ。
痛めていた右の足首はもはや感覚が無い。下駄が脱げてどこかへ飛んで行ったのにも気づかないほどだ。左の足はふくらはぎに突き刺さった石が大きく肉に食い込んでいる、脈に合わせて激痛が走る足はもはや泣き言ばかりで言うことを聞かない。引き抜けば零れ落ちる血もさらに増すだろう。
終わり。おしまい。これで敗者。あとは赤の山車が起きればそれで最後。大恩ある御前に恥をかかせ、己の住まう白の国に痛手を与え、あの双子に嗤われる。意地も覚悟も、何の努力も実らなかった。目の前は真っ暗
もう、消えてしまいたい。
―――熱。胸の向こうから冷えた心の臓に己以外の体温。
真っ暗の視界がうっすらと色を取り戻す。ほのかな樟脳の香り、正絹の肌触り。私が抱えられている。誰に?
「屏、風?」
頑張ったな。そう言って、生っ白い顔を向けて笑っているのは屏風覗き。いつのまに外に出たのか、とばりをまるで大切なものを包むように抱きかかえて、己が乗っていた山車にそっと乗せる。
新たな引手が壊れかけの山車を引く。むしろ引き摺る。その足並みは遅い。歪んだ車輪が戦慄くたびに屏風からかすかな苦悶が漏れる。痛いのだろう、腫れて膨らむなよっちい足で楽に引ける重さではない。
あと一町、歯を食いしばり着物を振り乱して山車が進む。あと半町、顔からボタボタと零れる汗が石畳にたれ落ちる。あと十丈、両の足袋に血が滲んでいく。
「頑張れ」
知らず声が出た。何故かはとばりにもよくわからない、ただ堪え切れなかった。その小さな声が聞こえたのか、観客からもにわかに声援が上がる。一匹、二匹、声は広がり口々に激励が飛ぶ。白雪様が、立花様が。金毛様が、赤の鬼人からまでも声が上がっていた。
それを掻き消すような後方から雄叫び。立て直した山車を引き摺り、血まみれの大渡が迫ってくる。あと五間。あれは速い、抜かれるッ、抜かれる!?
「勝者、白!!」
声も高らかに金毛の手が上がったとき、とばりは足の痛みも忘れて山車の中でへたり込んだ。
勝った。勝利の歓喜より解放されたという気分が強かった。目の前には同じく、山車の引き手を握ったまま地面にへたり込む屏風の姿。おそらく疲労の極致で周りの歓声など聞こえてはいまい。
横には左の車輪が砕けた赤の山車と、金毛様相手に珍しく喚いている唐墨の醜態が見える。何を言っていたとしても黄ノ国にまつわる厳格な審判だ。覆ることなどない。
「とばり」
立花様の声掛かりで反射的に姿勢を正そうとして、思わず苦悶の声が出た。両足の痛みが今になって襲ってくる。よい、そのままでおれ。すぐ医者に運ぶ、そう言って手配していた下人に指示を出した立花様は、最後にとばりに向き直り笑った。
良くやった、その短い賛辞がこの方なりの一番の誉め言葉だと知ったのは、わりと最近のことである。