総出血量1070ml ショック症状一歩手前
ジンジンという左手の痛みで目が覚めた。腹も痛いがこっちがとにかく痛過ぎる。そのクセまるで睡眠薬を飲んだように頭が重くて働かない。ああ、確かリリ様から薬を処方されたんだっけ。半分放心した状態で苦くて生臭い粉っぽいものを飲んだ記憶がある。
「起きたか。痛むだろうが触ると良くない。当面固めて吊っておくようにとの事だ」
暗い部屋に聞こえてきたのは友の声。目が闇に慣れておらずまだ利かないが、寝かされた布団の横から気配がした。
そちらも目を覚ましたのか、よかった。ずいぶん深く眠っていたから心配したよ。
「どっちが。馬鹿な事をしおって」
顔を濡れた布で拭われる。かなり脂汗をかいてしまったようだ。漫画なんかじゃ腕を切り落とされても戦える猛者がゴロゴロいるが、屏風覗きにはとても無理だ。手の甲を刃物が通っただけでこの騒ぎだもの。後悔一万回、もう二度とやりたくない。
少し水を飲めと言われて、首を後ろから持たれて湯呑みの水を傾けてもらう。病人用の水飲み、たしか水吸いって言ったっけ? あれがあれば便利なんだけど。急須はあるのだし幽世にもあるかな。
もっと言えば点滴や鼻入れ式の栄養チューブができれば患者が寝ていても栄養や水分補給ができる。幽世で前者はまだ無理だろうけど、後者は導入できるかな? じょうろやホースの概念はこの江戸然とした世界にあるのだろうか。あれば俄然話が早くなるのだが。
もちろんふわっとした知識でやることじゃないけどね。専門家に聞いてもらって、医療技術更新の切っ掛けくらいになってくれればいいのだが。
「悪いが痛み止めはしばらく我慢しろ。強い薬を使った後ですぐというのは体に良くない」
うへぇ。この痛みの中で過ごす時間は長そうだ。人は楽しいことはあっという間、嫌なことは長く感じる生き物だ。もう一度寝たいくらいだが痛みが寝かせてくれない。
痛み止めが無い時代はこうやって痛みでほとんど眠れず、じわじわ衰弱して死ぬというパターンもかなりあったろうな。寝れるのも限界がきてプッツリと意識落ちる、なんて感じの繰り返しでは生きる気力も無くなったことだろう。
それに過去の医療は現代で見るとトンデモ系ばっかりなんだよね。特に細菌やウィルスなんて知られていない時代は、傷より治療による感染症のせいで死ぬパターンがとても多かったようだ。医者に手当されないほうが生き残る確率が高かったなんて話があるくらいである。
ヒルに血を吸わせる健康法とか、痔の治療で患部に熱した鉄の棒を入れるとか、聞いただけでもう恐怖するしかないわ。特に後者、誰だよそんな事思いついた知識階級は。傷みたいなものだから焼いときゃいいやって感じだったのか?
「食べられるなら何か持ってこよう。失った血は食ってこそ戻るからな。なんでも言ってみろ」
いけない、グラグラする頭のせいか鼻漏な事を考えてしまった。
薬の副作用か正直食欲はゼロだが、水分と塩分の補給くらいはしたほうがいいかもしれない。やっと闇に慣れてきた目で辺りを見回す。なんとなくにおいできつねやだとは分かっていた。
人の血のにおいを誤魔化すためにお香でも炊いたのか、温泉のにおいの他にほのかに優しい良い香りがする。どこかで嗅ぎ慣れた気のする甘い香り。はて、何処でだったろうか? いつも近くにいるような誰かのにおいの感じなのだが。
纏まらない思考を追いやって、とばり殿のお言葉に甘えて味噌汁をお願いする。具はなんでもいいから、お椀から直に呑み込める小さいヤツで。
分かった、と言ったとばり殿は明かりをつけることなく部屋を出て行った。烏は夜目が利く鳥類だから不自由が無いのだろう。考えてみたらロウソクや行灯の油だってタダじゃないのだ。人間でも汁を啜るくらいなら星明りで十分できる。今更暗いと怖いなんて言うのも恥ずかしいしね。
天井から内臓が落ちてきても、あの子たちならもう平気だ。本物の臓物は今でも無理だが。
静かになった部屋でひとり。眠る直前の記憶がややが曖昧で、今回の出来事を思い返すのにわりとかかる。天井の梁から吊られている包帯でパンパンの左手がシクシク痛むせいもある。気が散ってしょうがない。
まず血まみれだった体は清められ着替えさせてもらったらしい。汗を吸った襦袢も新しいものに変えてもらったようで、肌触りの良い感触がある。
頭の下の枕が現代っぽいそば殻の低めの物になっているのは誰の気遣いだろうか。客が使っていないと悟って店が変えてくれたのかもしれない。いつも座布団二つ折りにして代用していたからなぁ。
今はそれはいい、祭りはどうなったのだろう。
確か黒曜B、限りなく本人っぽい疑いを感じたあいつをキューブに閉じ込めて、勝負の後で解いたんだっけ? 立花様にお伺いを立てたような立てなかったような。治療と薬でフラフラだったからちょっと自信が無い。
まさか赤く焼いた鉄の棒を傷口の中に入れられるは思わなかったよ。
それを見て怯えていることに気が付いた白雪様が自分のハチマキで目隠しをしてくれた。それでも今も焼ける肉と血のにおいが鼻の奥にこびりついている。おそらく血止めのためだろうけど死ぬかと思ったわ。現代みたいに顕微鏡を覗いて血管を縫い合わせるなんて出来ないからだろうな。
満足な知識も無いのに刃物で体を貫いたのだ、そりゃヤバイところを傷つけてしまう可能性も高くなる。手の動脈と言うと手首くらいしか思いつかないしょっぱい知識でも、血管は手の全体に張り巡らされているくらいは知っている。刀身が貫いた箇所でそのヤバくなる何本かを切ってしまったのだろうね。
傷つけて見せる候補として派手に見える顔も考えたのだけど、ここはさすがに怖くて土壇場で手が動かないかもしれないから却下していた。躊躇なんてしたら相手をビビらせる事はできない。
ただどうしたって小物の屏風覗きは姑息な計算をしてしまう。どうにか傷を最低限で済ませられないか悶々と考えたよ。手を貫いたのだって、できるだけ骨に当たらないように縦に貫いているしな。傷口リスペクトしたひなわ嬢のような横一文字は無理だ。
「お客様、よろしいでしょうか?」
ずっと続く痛みに顔をしかめていると、襖の向こうから誰かの声がした。従業員の方だろうか? どうぞ、言っておく。
暗闇に慣れてきたといってもやっぱり人の目には暗いので、スルリと開いた襖から入ってきた妖怪物が誰かは分からない。記憶の限りはどこかで聞いた声の気がするので、名前は知らないけど顔は知っている感じのきつねやの従業員だろう。
「こちらお預かりしていたお召し物です。洗いましたんでお返しいたします」
ああ、あの血塗れ衣装の洗濯をしてくれたのか。白い布地に血液って、絶望的にシミが取れなかったろうな。非常に申し訳ない、高級宿泊施設のサービスとしても汚損の激しい代物は迷惑千万だったろう。
着物にベッタリ血の跡が残っていても諦めよう。戦うための衣装だし、御前も許してくださるに違いない。まあ上司と他数名からは怒られそうだけど。白ノ国には頑固な汚れを落とす腕のいい洗濯屋とか開業していないだろうか。
とにかくお礼を言って、ああ、この状態ではチップを取り出すこともできないな。もう少ししたら来るだろうとばり殿にお願いして屏風覗きの財布から心付けを渡してもらおう。紋銭が6枚しかないが一枚100円とすれば五枚で500円。高級宿泊施設としてはちょっとしょっぱいか? 幽世の心付けの相場は知っておくべきだった。
「お気になさらず。仕事でありますよって」
そう言わずと引き留めたのだが、従業員さんは別の仕事がありますからと出て行った。うーん、プロフェッショナル。
関係ないけど寝転んでいるせいか、従業員さんが動くたび思ったより空気が動くなと思った。まるでモコモコした柔らかくて大きいものが通ったようだ。太い尻尾のある妖怪だったのかもしれない。
「屏風、なにが来ていた?」
少ししてお椀の乗った膳を持って戻ってきたとばり殿が、急激に緊張して周囲を見回す素振りを感じた。明かりをつけるぞと言われ、カキカキと何か硬い物を擦る音がしたかと思うと一気に明るい行燈の灯が部屋の闇を暴いていく。
やはりきつねやの離れか。浮かび上がった元気そうなとばり殿の顔にほっとする。顔はいつも通り仏頂面だけど。それさえ安心するよ。
そんな友が不意に釘付けになった視線の先に屏風覗きも目を向ける。その眼の先は確か衣文かけのある方。
油とは思えないほど明るい行燈の明かりに照らされていたのは、丁寧に広げられた男物の衣装。
掛けられていた着物は今日着ていた白い衣装ではなかった。
深い鉄色のちりめんの布地。
きつねや、その隠れ宿の方に預けていた着物だった。
これを宿に預けたのはまだこれが屏風覗きと呼ばれて間もないときの話。とばり殿に危ないところを救出してもらった後は、もはや行くことはないと思っていたあの宿に必要があって再び訪れたことがある。その際に道中で汚れてしまった着物を隠れ宿の狐に預けてそのままになっていた。
あの狐、返しに来てくれたのか? それとも狐から洗濯物を預かった別の従業員か?
「あのお方のにおいがする。おそらく入り込んだのだろう」
緊張を解かないとばり殿が残された着物をあちこち調べている。そのうち調べるものはもう無いと判断したのか、次に屏風覗きの枕元にいつの間にか置かれていた包みを指で摘まんで持ち上げた。
「稲荷寿司、だな。匂いだけでは毒の有無は分からん」
クンクンとにおいを嗅いだとばり殿は、笹に包まれた物の正体を開くことなく当てると、険しい雰囲気で思案している。
屏風覗きの私物はすべて枕元にある。スマホっぽいもの、止口札、匂い袋、財布、あ、短刀が無い!?
「短刀はこちらだ。もうおまえに刃物は貸さん」
貸した得物でいの一番に切ったのが自分などとふざけるな、そうお小言を頂いてしまった。
立花様に問われ薬で頭がクルクルパー状態でも何とかした説明は、この子が起きたときに屏風の傷の説明としてとばり殿も聞いたそうだが、それでも馬鹿の所業だと怒られた。
そんな馬鹿な事じゃないと意外性が無くて敵の心に響かないと思ったのだからしかたないでしょう、なんて弁解したらさらに怒られそうなので、大人しく渡された味噌汁を頂く。
あ、美味しい。城の味噌もうまいがきつねやの味噌は一味というか一段違うな。うま味と塩分が体に染みていく気がする。
入っている具は小さめに切った豆腐、大根、お麩。そして里芋。どれも消化が良くてスルスル入る。具材に滋養のある里芋を加えているのがこの子の優しさだろうな。ありがとう。
「屏風、私はこの件を報告してくる。次は自分で入ってくる者以外は無視しろ」
この部屋には内側から呼び込まない限り、特定の者以外は入れない守りが張ってあるそうな。幽世のセキュリティすごいな、現代と遜色ないぞ。
食べ終えた空のお椀と摘まんでいた稲荷寿司を膳に乗せ、とばり殿は再び部屋を出ていった。
行燈の明かりがついた静かな部屋で思う。これまで詳しく聞いていなかったあの狐の事。
立花様に聞くなと言われて以後聞かなかったが、もう少し知ってもいいかもしれない。
例えば、枕元に置かれた稲荷寿司の理由くらいは。