絆
例によって例のごとく、いつも誤字脱字のご指摘誠にありがとうございます(+謝罪)
ちょっと前にししとうを天ぷらの食材としてを買ったのですが、何本口にしても当たりなので「?」と思い袋を見たら『青唐辛子』としっかり書いてありました。
ししとうと青唐辛子の区別のつかない目玉では、そりゃあ誤字脱字も無くならんわいなぁ。残ったのどう調理しよう…
自然と目が覚めた。
外はまだ暗いけれど日の出の兆しが見える。地平線の向こうから日の昇る間際、ほんのわずかな時間にだけ生まれる世界が真っ暗からうっすら青になっていく時間帯。そこからもう少しすればいつもの太陽の白が大地を照らすだろう。
静まり返った離れにはまだ動くものはない。屏風覗きに合わせてくれているのか秋雨氏は幽世の住人としては起床が遅い方なのだ。彼女の一日の最初の仕事は洗顔のための水汲みで、そのたらいの水をもらって屏風覗きは毎日顔を洗えている。
近頃は夜も本格的な夏模様になってきて掛け布団はさすがに暑い。脱いだ襦袢をタオルケット代わりに掛けて敷布団に寝転がるのが最近のスタイルだ。昨夜はあれから足長様も泊っていったから、なんとなく潜り込んでくると思っていたのもある。
予想通り前回と同様、いつの間にか客間の布団を抜けて屏風覗きの足のあたりでくうくうと寝息を立てていた。
二妖怪を起こさないように衣紋掛けに掛けてある着物と帯を取り、下駄をそっと引っかけて離れを出る。最初はあれだけ手こずった着物の着付けも、今ではラフな着流しくらいは歩きながらでもスムーズに出来るようになった。何事も反復だなぁ。
向かうのは離れに一番近い水場。いつもお世話になっている五右衛門風呂があり、秋雨氏が水を汲むポンプがあるところ。
あるんだよ、白猫城には手押し式の給水ポンプ。試験的に作られたのか形状やサイズはみんな違うけど、しっかり実用に耐えるくらい立派なヤツが各所に何個もあるのだ。考えられる理由として個性的過ぎる妖怪たちの体格差を考えて、全員が使い易い平均を図っているのかもしれない。
さすがの白ノ国でも城下ではまだ見られないが、この感じだとそのうち井戸に取って代わるかもしれない。
しゃがんで取っ手をギゴギゴ動かすこと数回、手に感じる重さがギーゴギーゴという粘る感触になったあたりで蛇口から勢いよく水が出てきた。
場に置かれている共同の桶に溜まっていく水をぼんやり眺めつつ、ふと行儀悪く吹き出る水に顔を突っ込んでみた。ビシャビシャとかかる水は実に冷たく目が一気に冴えていく。現代の水道のように出しっぱなしには出来ないので、片手は常にキコキコしなければいけないから大変だ。
水を被ること十数回。顔も頭もぐっしょりで着物まで濡れてしまった。洗顔にしては随分と念入りにしてしまったな。禊でもあるまいし。
神社の神主さんとかは冬でも毎朝水を被ると聞いたのだけど本当だろうか。穢れを払う前に病魔を呼びそうだけど、それが逆療法的に免疫機能を呼び覚ますのかもしれない。
他にも地方の風習で真冬に水を被ったり入水したりする行事とか、毎年その時期になると紹介されるよね。あれも体調不良とか心臓発作とか起きないのだろうか。とりあえず他県民としては学生を強制参加させて褌締めさせるのは、まあ風習とはいえ如何なものかと思う。
強制しないとやってくれない程度には嫌がられているという事実は、伝統と言うより町おこしや村おこしという金銭の絡んだ大人の事情によって無視されてしまうんだろうな。いや、どうでもいいんだけど。
ひとり、取り留めのない馬鹿な事を考えつつ頭から水滴を滴らせたまま桶を眺めていた。
雫の落ちる音が聞こえるほど静かな水場に、バササッという羽音を聞くまで。
カラスが一羽。こちらのすぐ傍に舞い降りて何気ない面持ちで歩み寄ってきた。
夜の闇をそのままに、煌めく星空の輝きまでも宝石のように閉じ込めた、黒く輝く美しい鳥。
不吉とも、不潔とも、反して神の使いとも言われる。何故その色を選んだのか、何故その色で徹底したのか。太陽の化身、火の運び手、不思議な鳥。特別な鳥。カラス。
目だけが白いから烏、牙を持つから鴉。人は昔から君に奇妙な親近感さえ覚えている。
近くて遠い、空の隣人。
もういいか? そんな顔で一度こちらを見つめたあと、口ばしを溜まった水に突っ込んで悠々と喉を潤していく。
てぬぐいで顔を拭きつつ、鋭い爪を持つ足で器用に桶の梁に立つカラスを眺める。水を満足するまで飲み終わるまで。
やがてひょこりと顔を上げたカラスに声をかけ、てぬぐいを持った手を近づけてみる。カラスはされるがままに顔やくちばしを拭かせてくれた。と言っても水は濡れた端からきれいに弾かれるようで、あまり拭く意味はなかった。
互いに無言で見つめ合った後、カラスは一声カアと小さく鳴いてから近くに植えられている松の木に飛んだ。枝に向かうことなくその太い樹木の影へ。
よく見ればその根元にはいつの間にか見覚えのある布地がチラリと覗いている。きれいに畳んで置かれているのは白く丈夫そうな布地。
2分ほど経っただろうか。松の陰から伸びてきた白く小さい手が布を取ったのが見えた。持ち上げられた布には黒いポンポンも下がっている。本当、あのポンポンは何なのだろうね?
かすかに聞こえてくるのは布ずれの音だけ。暗かった世界はゆっくりと白みが増して、今日も新しい一日が始まろうとしている。
「待たせた」
その松の木は最初に日の入るであろう方向。よく光を受けるからか一番枝ぶりのいい立派な松。その上にひとりの影。
太い枝を長すぎる一本下駄で踏みしめて、とばり殿が真っ直ぐな目でこちらを見下ろしていた。
「私は烏の化生だ」
瞬きさえせずに友人は続けた。
「天狗と呼ばれる妖怪だ」
天狗、という一言にわずかに嫌悪を滲ませる。
「天狗は術が得意だ」
私は下手だが、そう嘆いて片手をこちらによく見えるようかざす。
「天狗は人化術という術を会得して人に化ける。私には使えない」
羽も爪もくちばしも、何も隠すことはできないと友人はただ淡々と語る。
「私が人になれるのは呪いによるものだ。この姿に括られている」
他の者には化けられないし、人の身で羽だけ出して飛ぶような器用な真似もできない。言って両手を広げ、羽を表現するようにそのまま枝を跳んだ。
浮きあがることも緩むこともなく当たり前にドサリと地に落ちる。強く下駄で踏み込んだ土が弾き飛ばされ鈍い音を立てた。
「すぐ烏には戻れない。ゆっくり三十は呼吸するほどの時間が必要になる。人に化けるときも同様だ」
痛痒を感じさせない平坦な声。三階程度の高さなどこの子には平地も同然。ただし、それは鳥よりもずっと重たい人の姿で努力して得たものだろう。
「北の町では助けられたな、あの時は地に叩きつけられて死ぬのを覚悟していた」
独り言のように呟いて、しゃがんだ姿勢から立ち上がり、今や懐かしい気分というように薄い笑顔を見せる。
「この呪いのお陰で私は人に成れる。烏にも戻れる」
歯の高い下駄を履いていても互いの目線は合わない。方や高く、方やどうしても低い。近寄れば近寄るほどに。
「呪いが解けたとき、私は人の姿か烏のままか選ばなければならない。人から烏に戻ればそれっきり。烏の時に呪いが解ければ、もう二度とこの姿にはなれないだろう」
白みを帯び始めた視界に見えてきたのは、泣き腫らした二つの瞳。水を浴びてなお赤い、苦しんだ者の瞳。
「この呪いは、術を掛けた大天狗の命が潰えることで、解ける」
カラスは語る。人の身は良い、たくさんうまいものを食えた。すっかり舌が肥えたと。今では飛んでいるときに捕まえた羽虫など吐き出してしまう、もはや食えたものではないと。
「だけど、だけど私は烏なんだ」
人の姿でどれだけ幸福を味わっても、どれだけ楽しかったとしても、私は空を飛びたい。
涙の流れる目と、くしゃくしゃになった声で訴える。
それはどうしようもない生まれの欲求。
飛びたい、ただそれだけのために沢山のものを切り捨てた鳥の体を持つ者の性。誤魔化さず、押し込めず、どこまでも己と向き合って出した言葉。
「だから屏風」
涙を拭わず、鼻を啜って、強がって強がって、泣きそうで、それでも友人は精一杯、笑った。
「受けよう。共に、挑もうっ」
耳がおかしくなったかと思った。都合のいい幻聴、幻覚、あるいはこの人でなしはまだ眠っていて、人でなしに相応しい自分勝手な夢を見ているのかとも考えた。
それでも目の前には笑いながら泣いている子がいる。なら夢だろうが幻覚だろうがすることはひとつだ。いつかしてもらったことを、今度は君に。前からか後ろからかなんて些細なこと。
抱きしめる。
恥も外聞もどうでもいい。蔑むなら蔑め、逮捕したけりゃするがいい。この子が落ち着くまでは何が何でもこのままだ。あの日、この子のぬくもりにどれだけ救われたか、この人でなしが生きていていいと思えたことがどれだけ嬉しかったか。
きっと誰にも分りゃしない。
抱き返してくる小さな手に、一層強く、深く、この子を抱く。包めるものなら包みたい、どんな害意からも守る卵の殻のように。
日の出の光のを掲げるお天道様、もう少しだけここを照らさないでいてほしい。たぶんこっちも、ひどい顔だから。
背にまわされた手に少しだけ力が入ったことを感じて離れる。涙の後は残っているけど、気持ちはだいぶ落ち着いたようだ。
「おまえが泣くことないだろ」
しゃがみこんでいるので小さなこの子でも顔に指が届いた。それはきっと、先程頭から被った水なので心配することはない。むしろ心配すべきはとばり殿のほうだろう。
あの言葉の流れなら断られると思っていた。鳥が空を求める、納得の理由だ。人の身の娯楽を楽しむ、当然の欲求だ。そのどちらかを切り捨てる事に協力しろなんて、自分で体の半分を切れと言うに等しい。
一度覚えた楽しみを捨てる。それがどれだけ残酷なことか。
この子自身が言っていた、羽虫などもう食べられないと。烏のままとはそういうことだ。味覚もおそらく人と鳥では違うだろう。マズくはなくともうまいと思えるはずがない。
では人のままで翼を捨てる? それこそ酷だ。
立って歩ける者が立てなくなる、その不安と絶望は立てる者には分からない。だが分かることもひとつある。
空は人間にさえ特別だということだ。気が遠くなるほど昔から、人は飛びたくて飛びたくて仕方なかったのだから。初めから手にしている鳥を羨んでは手を動かし、不細工な羽を作って、人はそれでも飛べずに地べたを這っていたのだ。
最初から特別を得ていた鳥がそれを失ったら、それはどれだけ惨めだろう。
だから疑問だ、なぜ受けるのか。返答いかんではこちらから断らせてもらう。
「なんでだ!? おまえから振ってきたんだろう!」
うるせぇ。言っちゃなんだか君は自己犠牲が過ぎるのだ。自分が我慢すればいいなんて考えだったら引っぱたいてでも諦めてもらうぞ。大天狗のほうは御前におねだりでもヨイショでも何でもして、生かさず殺さずでなんとかするわいっ。
「御前の手を煩わせるなっ!!」
ビシャリと桶の水をすくって掛けられた。なんだコノヤロー、お返しにこっちも引っ掛ける。何度か往復したのち業を煮やしたのか地面を指さされた。
「ん!」
NO! 高圧的に言えば従うと思うなよ。理由を聞くまでこのままだ。みんなが笑顔の中ひとりだけすべて残して去る、なんて昔話の『良いヤツ』みたいな役回りは断じて認めない。あんなのちっとも良いエンディングじゃない。
また訳のわからんことを、なんて困惑顔で頭を掻いても上っ面の言葉なら聞きません。
じぃぃぃっとその目を見つめ続ける。屏風覗きの視線に圧などまるで無いはずだが、段々と姿勢が引き気味になっていった友人は最後に溜息をついて降参というように手を上げた。
「この際、人化の術を学び直そうと思っただけだ」
この子は見た目は小さくとも、駆けてきた生涯は人のそれよりずっと長い。たぶん挫折も苦労も人間の一生なんかより数え切れないだろう。そんな長い命の者がやり直す、その億劫さは如何ほどか。
「覚えが悪いと諦めて修練を怠った、その過去の怠惰な生き方が追いかけてきただけだ」
ならば今からやり直そうと思ったのだ、そう言って力のある瞳で正面からこちらを見てきた。今度はこちらが押されてしまうほどに強く。
「ただ、な。おまえに約束してほしいことがある」
すっと、それまでの視線が嘘のようにひどく不安そうにする友人に改めて向き直る。たとえ一から十まで聞かずとも、この子が何に怯えていても屏風覗きの答えは変わらない。
約束しよう。
「っ、馬鹿屏風! 聞いてから決めろ!!」
急かさず黙って待つ。この子は決めたことを途中で怖気たりはしないのだから。たとえ過呼吸になりそうなほど深呼吸していてもだ。
「首尾よく人化を習得しても、この姿を取れるとは限らんのだ」
しゅ、しゅ、と酷くどもりながら語られたのは人化術の難点。
多くの化け術の中でも『人に化けることに特化した術』なので比較的習得難度は低いが、代わりに大なり小なり『化ける元の化生』の特徴を引き摺ることが多いのだという。例えば狐なら狐っぽく、犬なら犬っぽい容姿になるらしい。
屏風覗きが先の会談で黄ノ国から来た代表を正体を知るまでもなく狸と感じたように。どうしても特徴が出てしまうのだ。
「私のこの姿は死者から無作為に選ばれたもの。おそらく、人化術では模せない」
おそらく、その言葉の後を長い葛藤を経て話してくれたとばり殿。その覚悟に応える言葉は決まっている。
どんな姿でも、君だ、必ず見つけて見せる。
ふるりと小さく震えた友人がこちらをじっと見つめる。不安、躊躇、猜疑、きっと昨日から溜まりに溜まった、溜めさせてしまった負の感情すべて。
かまわない、すべてぶつけてくれ。強がりでも罪悪感でも何でもない、真っ向から受け止められる。
「裏切ったら酷いぞ! 信じるからなっ!!」
太陽が昇る。宵闇を抜けて、一羽と一人は日の中に。きっとそれは何処にでもある、とてもささやかな物語。
<実績解除 絆 -5000ポイント>