別視点。轆轤(ろくろ) 人を喰うモノ
誤字脱字のご指摘ありがとうございます。
前日は文化の日ということで、文化的に『イーヌ』『イッヌ』と呼ばれる犬の画像を検索してみたりしました。過去にも見た画像でしたがやっぱりおもしろいです。犬も猫も当然文化、これは間違いない(確信)
「万貫殿、ご足労痛み入ります」
己が持ちうる全ての余所行きの態度を総動員して鬼女を出迎えた轆轤は、正座している布団の上で誠心誠意頭を下げた。
この老婆はこと『皮を使う者』にとって階位以上に尊敬を集めている人物。特に皮を使った品の付喪神からすれば己の体を『直す』ことができる医者といっていい存在である。
先の襲撃で酷く傷ついた轆轤を心配した御前の配慮によって、国で最も腕の良い職人である鬼女を大枚を叩いて呼びつけたのだ。格別の気遣いを持って報いられた身として礼節を欠くわけにはいかない。
「日の置けない仕事は片づけたしねぇ。貰うもの貰えりゃどこにでも行くさ」
自分なりに随分と気張って出迎えたつもりだが鬼女に興味を持たれなかったようだ。さっと手を払うように振って横になるよう促された轆轤はそれに黙って従う。
とかく職人という生き物は業が深い生き物で、腕がいいほど客との付き合いの機微が不能になる呪いでも掛かっているか世辞や礼節が響かない。
もはや朧げな記憶の彼方に残る自らを作った傘職人。彼も客の前ではこんな感じだったのだろうか。そう思うと『物』の化生としては不思議と腹は立たない。
ただし、国庫には手をつけずに己の懐から少なくない身銭を切ってくれた家族の誠意を踏みにじったら殺すとは心の軒に記しておく。
「ほな頼んます」
老婆が道具を並べ終わり目を向ける頃には、血まみれでズタズタに裂けた膜が垂れ下がり、骨組みだけになった轆轤が敷布団に転がっていた。
「金貰っておいて言うこっちゃないがね。本当に張るのは『人皮』でいいのかい?」
他にいくらでもあるだろう、そう続ける職人に轆轤は骨を揺らしてカラカラと笑った。今更や、と。
もうずっと以前から轆轤は傘とは言い難い体だ。竹の持ち手に収まるのは質を問わない寄せ集めの錆びた鉄。張られた膜など拷問によって剥がれた人の生皮をどうにか使って無理やり貼り付けていただけの時期もある。最初の素朴な和紙の時代など遠い昔の話。
少し前にある人間に使われるため仕立て直され、古い皮に重ねる形で新しい人皮を貼り直して誤魔化した。初めは行儀よく京傘のように振舞ったものの付け焼刃もいいところだった。
物は所詮生まれの性には抗えないのだろう。己はどこまで行っても血と涙と恨みを吸った無骨な番傘でしかないのだろう。
「こりゃまた痛んでるねぇ」
鬼女は淀みなくチャキチャキと鋏を動かし、彼女でも直しようのない部分を切り取っていく。足りなくなった部分は今日のために最大の技量を注ぎ込んで拵えた、国一番の職人の名に恥じない最高の皮で補強する手筈になっていた。
「すまんのう。我儘言うて」
最初、老婆は職人としての見地から完全な張替えを提案した。すでに張られている皮は限界もいいところ、そもそも下地になっている元の皮の処理がまともなものではなく、製品としての『皮』の価値も機能もない。
これでは残しても腐らせないことに余計な力を使うだけ、害があるだけで価値はないとはっきり断ったくらいである。
だが、轆轤は一部分でもいいから残したかった。その想いは憐憫と呼ぶには複雑で、失いたくないという気持ちもあれば完全に投げ捨てたいような気もする。覚えておきたいのに忘れたいとも思う相反したものだった。
人は自分たちが仕出かしたことを都合よく忘れてしまう。
不幸な時代だった、止む無し事であったと何処までも他人事で忘れようとする。人の寿命は短く、その時代の当人ではないなら忌まわしい記憶など忘れようとして当たり前かもしれないが。
ならば己だけは覚えておかねばならない。誰に言われたわけでもないし、使命なんて言葉を使うほど立派な考えからの事でもない。
これは未練だ。
傘の身なんぞに死にゆく命を刻んでいった彼らの痛みを、怒りを、恨みを忘れようとすることが心苦しいだけだ。
「次はいい加減な応急処置をする前に呼びな。それか安く上げたきゃうちに来とくれ。やりにくいったらないよ」
無理やり縫った箇所、強引に膠で張り付けた箇所、ぞんざいに焼き切った箇所。いずれも職人からすれば青くなるような素人処理だろう。
必要な処置だったとはいえ轆轤の都合など職人の鬼女には関係ない事。この愚痴は甘んじて受けるしかない。
人でいえば裂けた肉を焼いて止血するような、完全に後先考えない無茶苦茶な治療であり、事実その場だけを持たせるためだけに施術をしたことに苦言を吐かれた傘は苦笑する。
あん時ゃそうでもせんと持たんかってんから、しゃあないやろと。
「力が落ちるのも無理ないよ。こりゃ直しても前ほどにゃあ戻らないだろうね」
残酷な現実でも鬼女は淡々と告げる。それを受け入れる胆力を持っている客と見立てているからでもあるが、一人の職人として仕事にお為ごかしの言葉は吐けないからだ。
轆轤にすれば特に思うことはない。せいぜい小煩い古太刀の稽古相手が出来なくなるだけの話だ。家族を守った代償というなら惜しくはなかった。
元々この体が付喪神として今も残っていることのほうが異常なのだ。あるいは己もとっくに滅んでいて、あの立花のような怨念の塊なのではないかと訝しむこともある。さすがに白頭巾の糞猫が言うような神魔の格など己如きが得てはいないだろうが。
「あんたは傘だよ。怨念が職人の手なんているもんかい」
不意に、無心で作業していたはずの鬼女から心を読んだような言葉がかけられた。その目は轆轤の皮しか見ていないようでいて、人の姿になったときにある目を見つめられたような力がある。
化け傘の浅い悩みを鮮やかに見透かして。
太刀と同様にこの老婆もまた轆轤とは比べるべくもないほどの古妖。見知った妖怪の中でも特に古くから生きている先達だ。小娘の安い悩み程度お見通しということだろう。
「そういや巷で噂の人間の話は知ってるかい? 屏風覗きなんて嘯いてる輩さ」
ちょいと前にうちで茶を飲んでったよ、唐突にそんな世間話を始める老婆。湿った空気を変えるためなのか、単に話をしているだけなのかは轆轤には判別がつかなかった。
「知っとるも何も一緒に散歩する仲やで? 弱っちいから守ったらなアカンのが困りもんやな」
下界に行ける話はさすがに伏せる。屏風のぽいんとの話も外部の者に明かすのは禁じられている事だ。職人として信用の置ける妖怪であっても秘密とは漏れる時は漏れる。
よく葉を隠すなら森の中と言うが、最初から徹底して情報を遮断し気配さえさせないのが一番うまいやり方なのは誰でも知っていることだ。
世の中にはたった一言の失言から人の恥部を興味本位で鼻を鳴らして暴き立て、その恥知らずな行為を得意満面で人前に披露する破廉恥な輩もいる。慎重すぎるということはない。
「人が何日もチョロチョロしてるとは珍しいこともあるもんさ。っと、一応は妖怪って話だっけねぇ」
祭りで妖怪と称して以降、あれは人間ではなく妖怪として周知されている。これを覆せば立ち会った立花や悪鬼、黄の蛇狐に赤の腐れ童まで恥を掻くことになるので立場が高い者ほど公然とは口に出来なくなっている。
轆轤としては馬鹿らしい事だがしかたない。立花はともかくあの厄介な鬼に恥を掻かせるわけにはいかないのだ。特に力が落ちた今は。それでも顔を見ると腹が立ってしょうがないのだが。
鬼が阿呆天狗どもを躾けないからこんな面倒なことになっているのだ、との気持ちが今も拭えない。色分けされる前は鬼こそがあの土地の頭であったのに。何故わざわざ狭こましい山に引っ込んだのか。
「次の日にはどっかの誰かの腹の中やからな。運の良いやっちゃで」
うちは人なんて汚のうてよう食わんけど。そう茶化してけけけと笑った化け傘に鬼女も笑う。しかし、その後の一言は轆轤には意外なものだった。
「まあ好き好んで食うもんじゃないねえ」
最初は冗談かと思った、鬼女が人を食わずに何を食うのかと。思わず率先して喰い殺しているんじゃないかと聞くと老婆はますます引き付けを起こしたような笑い声を上げた。
そして一通り笑った後、いつも血走ったままの赤い目でどこか遠い景色を見るような、とても静かな微笑を浮かべた。
人くらいしか食うものが無かったんだよ、昔はさ。
そんな懐かしいとも忌まわしいともつかない感情を乗せて呟いた鬼女の顔は、初めに見たよりもずっと老いているように轆轤には見えた。
「本当に、食うもんじゃないよ人間なんて」
たとえ生きるためでも、いつかとてつもない後悔を持ってくる。
ポツリと呟いた言葉は誰に向けたか分からないほど小さく、轆轤は返すことが出来なかった。
施術から半刻ほどですべての工程を終えた老婆は今日明日くらい、馴染むまで人になるなと言ったあとは道具を片付けてさっさと帰っていった。先ほどのしんみりした気配が嘘であったかのように太々しい守銭奴の婆に戻って。
言われた通り傘の姿のまま床に就き、布団に転がった轆轤は老婆の出て行った襖に向けて心の中でひとつ頭を下げた。
妖怪にとって人喰いは境界線。踏み越えた先に何があるか。彼女はその答えのひとつを、自らの過去の痛みと共に示してくれたのだから。