水掛け論に提案(餡)
「ひいちゃん!! よかったぁ!!」
両手を二台側転させたブルドーザーのバケットのようにグワッと広げて、安心と喜びを露にする彌彦様。人と変わらぬ色彩のブラウンの目には大粒の涙が光っている。
傍目には熊のファイティングポーズにも見えるが、これは相手を懐に迎え入れる彼女の友好のポーズなのだろう。
それを受けた想い妖怪は空に浮かぶ雲でも見るようにボンヤリとして反応を返さない。むしろ彼女を庇う様に前に出た金毛様の方が警戒が態度に出ている。
彌彦様は立花様が捕らえた猩々緋を違うと断じた。
会わせると言っていたのに姿だけそっくりの別妖怪を出してきたことで、彼女は白ノ国が自分を騙そうとしていると激昂して暴れようとしたようだ。
一見ほわほわしているようで実はかなり沸点の低い方らしい。怖い。
幾ばくかの屏風覗きの頭髪を犠牲にして聞く耳を持ってくれた一角鬼ではあるが、じゃあ猩々緋?なんだ肝心の本物は何処だという話になって弱ってしまった。
そんなのこっちが聞きたいくらいである。しかし、そんな責任フワフワの言い訳を口にしたらまた暴れだしかねない。
止む無くみるく様にお願いして白玉御前様と共に出迎え準備中の立花様に連絡を取ってもらい、茜丸氏と引き合わせてみることにした。
かなり博打な気もするが、白の重鎮たちでも判断出来なかった案件である。新しい情報源になるかもしれないという期待も掛けて、とりあえず引き合わせて見ることを了承してくれた。当然、責任は屏風覗き持ち。辛い。
そして目の前では彌彦様と金毛様の、とても不毛なやり取りが続いている。
方や猩々緋と断言する一角鬼。方やこの娘は茜丸だと反論する三尾狐。互いにまったく譲る気配がない。
「ねえ、この大きいの誰?」
尻尾の後ろに庇われていた赤い着物の少女は眼前で熱弁を奮う二妖怪の攻防に特に興味を示さず、蚊帳の外のにいた偽妖怪にそう聞いてきた。
『そうだ』『違う』という徐々に低レベルな言い争いになっていた会話は、この言葉で鬼が息を詰まらせて途切れた。茜丸氏のたった一言が彌彦様の心に想像以上の衝撃を与えたらしい。
慄くように後ずさった鬼の代わりに前に出た屏風覗きからの紹介にも、茜丸氏は『ふーん』という興味の欠片もない反応しかしなかった。
あと金毛様、この状況でちょっと勝ち誇ってるのは違うと思います。感情的なやり取りが過ぎて微妙にアホの子になってませんか?
ショックの大きいらしい彌彦様を座らせて、とにかく全員落ち着きましょうと音頭を取る。なんでこんな事になった。こういう時はまずお茶だ、甘いものだ。
鏡で見たら気持ち悪いくらいの愛想笑いを作って、先ほどから困惑気味のリリ様にお願いしてここでお茶でもと取り繕う。出来ればそのまま立花様を連れてきてほしい。伝われ屏風のテレパシー。
声に出して状況を整理しよう。脳内で考えるだけでは沈黙しているのと一緒だ。人は物事に取り組む姿勢を出していけば意外と声の大きいヤツに協調してくれる。妖怪も人を真似ているタイプなら人に近い反応を返してくれる可能性が高いはずだ。
まず金毛様はこの子を茜丸と呼んでいる。では金毛様にとって猩々緋は別妖怪なのか?
「別人です。あの方と茜はそっくりですが、においがまるで違います」
「同じだ! ひいちゃんと同じにおいだ!!」
息だけで背中が押されるほどの声が上がる。肺活量ってレベルじゃないぞ。
一方で彌彦様はこの子を猩々緋と思っている。彌彦様にとって先ほど会った猩々緋は別妖怪。
金毛様は猩々緋とも面識があるはず。しかし、それは友人の茜丸ではない。
では赤ノ国の戦争反対派。貴方様がそう紹介してきた『この子』は誰なのか?
この際、白も金も赤も緋も華も無しで、『この子』に関わる全員がもっと込み入った話をする必要があると提案する。不思議と誰も悪意が無いこの事態。解決には大事な何かがゴッソリと欠けている気がするのだ。
誰とはなく車座に座った一同は、黒頭巾の猫たちの手によってお茶とお茶菓子が振舞われている。
しかし、それを食べて飲んでしているのは屏風覗きと茜丸氏だけ。後の参加者たちは押し黙って、ある者は視線を忙しなく彷徨わせ、ある者は持っている茶に視線を落として他を見ない。
そしてこの空気の原因となってる当人よりも、ずっと心配している二妖怪にこそ情報のすり合わせを行ってもらっでひとまず結果が出た。
この子は『正真正銘猩々緋だが、まったくの別妖怪。茜丸』でもある。
最中の蓋をカパリと開けて中の餡子を覗いている茜丸。
さすがに人前でやるのは行儀の悪い事だが、饅頭などの断面は一度くらいは覗いてみたいものだ。屏風覗きもやった覚えがあるので怒り辛い。次は人前ではやらないようにとだけ言い聞かせておく。
ちなみにそれは粒あんだ。相手によっては粒あんかこしあんかってだけで言い争いになるから派閥には気を付けときなさい。
餡子問題はともかく、金毛様からの追加情報として、友人の様子はおかしいということも言質が取れた。この子は金毛様の事を友人と知っているが記憶がかなり曖昧で、性格や言動も明らかにおかしいと金毛様も思っている。
ただ、これまで見た通り基本的な知識そのものが何らかの理由で大幅に欠落しており、特に幽世に来た後の記憶がゴッソリ抜けているせいだと彼女は考えているという。そういう事は先に言ってくれません?
九段神社で別れた以降に何かあったのか? それで幽世で知り合った彌彦様の事は忘れているのか?
次に彌彦様から取れた情報として、九段神社から帰った辺りまでは不自然なところはないと証言が取れた。
そして座敷牢の猩々緋は『態度』だけは一致するとも明言された。
しかし、座敷牢のあれは『におい』が違うという。相手は鬼の事を覚えていたのに。彌彦様への『やひこ』呼びも彼女との親しみを込めた呼び方であり一致するという。
それが余計に怒りのボルテージを上げてしまったそうだが。
においは同じで態度が違う茜丸。態度は同じでにおいは違う猩々緋。狐は別妖怪という猩々緋。鬼は同じという茜丸。
何かがほつれている。最初に思いついた『分身』は妖怪たちから否定された。ただ、みるく様だけは一度考え込んでいたようだった。口には出さなかったので確信は持てない考えなのだろう。
妖怪としての力のある無しもある。
座敷童と同じような力を持つ赤しゃぐま。座敷牢の猩々緋は結界で抑えるほどの力を持つのに対して、茜丸はほとんど力を持っていないらしい。でなきゃこっちも結界てんこ盛りの座敷牢だったろう。
もちろんあくまで目に見える牢屋でないだけで、不用意に部屋の外に出ようものならたちまち力尽くで捕らえられてしまうだろうが。
どちらが本物か、どちらも偽物か。
猩々緋が茜丸を、あるいは逆を使い分けているなら話は早かったのに。
毒を食らわばと座敷牢の猩々緋もこの会議に加えたいところだが、どこかのマッチョが座敷牢を壊して結界が危うくなったため修復中となり、面会どころか部屋にも入れなくなっている。
これについては彌彦様から謝罪があったので屏風覗きからは何もない。
悪鬼という彼女の悪名も、逆恨みだけじゃなく沸点が低いせいで起こした騒動からついたものかもしれない。事実は毛根だけが知っている。
結論。決定的な取っ掛かりのない、こんなこんにゃくみたいな疑問を扱ってもこれ以上回答は出ないだろう。なら分かっている事で決められる事を示そうと思う。
彌彦様も、金毛様も、ついでに屏風覗きも。茜丸を大事にしたいという気持ちがある。猩々緋かどうかはひとまず置いて、互いにそれを分かってほしい。
争う理由はない。立場を超えて謎の究明に協力していける関係なのだ、この場の誰も苦しむ必要はないのだと。
「屏風殿、感謝いたします」
静かに震え細い目をさらに細めて目頭を押さえる友人に、ぼんやりしていた茜丸氏が首を傾げて胸元から出したてぬぐいを添えた。
そこでついに堪え切れなくなった金毛様から嗚咽が漏れる。
何もかも分からなくなっても、泣いてる友達に何かしてやりたい。それは何にも勝る価値を持つ『愛しいという気持ち』だ。この子は決して失くしているわけじゃない。やり方を思い出せないだけなのだ。
「怒ってごめんねぇ。あたしも力を貸すよぉ」
二人のやり取りに畳がボタボタと音を立てるほど涙を流したのは彌彦様。
片方は覚えているのに自分の事を覚えていてくれなかったのは本当に悲しかっただろうに。それを口に出すことなく二人の慈しみを見守る姿はどこか悲しくも優しい。
空気に当てられた鬼の側近たちまで、うるさいほど豪快に鼻を啜る感動的な場面。
けれど、人でなしの屏風覗きは空気を読まずに関係ないことを考えていた。
茜丸は味方ができた。なら、今も座敷牢に囚われた猩々緋は誰が助けるべきだろうと。