別視点。ひなわ、南のあだ名は火吹き女。焦げ付く借金に鉄砲を持ち出す凶状持ち
誤字脱字のご指摘、毎度ありがとうございます。
新作のオープンワールドゲーがぼちぼち発売です。その隙間にキ〇タクが如く2をやるかどうか悩み中。どちらもやり出すと長いので、片方は寝かせておこうと思います。
夏だというのに薄っすらと肌寒い休憩所で目を覚ました貉が布団から這い出す頃、日はとうにとっぷりと暮れて真っ暗になっていた。
眠気が抜けず働かない頭で手を伸ばし、近くにいるはずの『何か』を探してしばし。『何か』がいないことに酷く落胆する。そこでようやく、はて己は何を探しているのだろうと疑問が頭に浮かび、モゾリと埋まっていた布団から這い出した。
明かりのない暗闇であろうと獣にはさして不便はないが、人の姿でいるときは存外火の良さと有難みが分かるもので、ひなわは手の平の縫い目から覗かせた火打石を使い、さらに後ろ髪数本を抜き取ると火熾しのために掠れた音を立てて石と擦り付けた。
ぽ、という空気の膨らむような音がすると熟れた柿色の火種が暗闇に灯る。それを見つけていた行燈の油に移せば、部屋を覆う闇はほんのりと剥がれて白い襦袢姿のひなわが浮かび上がった。
「んおっ!?」
思わず身を庇う様に手で隠す。ここでようやく着物を着ていたはずであることに思い至った。
別段ひなわは肌が見えようと気にしない。晒している肌は化生として身に着けているだけの『人の皮』であり、己自身でもないし獣が裸を気にするのもおかしな話だとしか思っていなかった。
人化している連中は人の体に生まれる羞恥に引っ張られて何かしら身に着けるようだが、ひなわにとってこの体はどこまでも他人の皮でしかない。むしろ長く人の皮を被っていたせいか、最近は中身である卑しい獣の姿を見られるほうが屈辱を感じるほどだ。
だというのに、ひなわは自分でも訳が分からないまま肌の透ける白い襦袢を上から押さえ、身をよじって体を隠そうと慌てた。布団を被り直したほうが早いと気付いて滑り込むも、その無様たるや何と愚図なことかと自分で呆れてしまう。
過去に獣姿でのたくっていた時代であればこんな鈍間、巣穴に辿り着くことも出来ず瞬く間に猛禽に捉えられ、禍々しい鉤のような爪で引き裂かれているだろう。
そこからやはり考えが纏まらないまま布団の中で己の体を手で弄ってあちこち確かめる。しばらくして『何もされていない』という結論に至ると、己でも理由はさっぱり分からないが安心したような腹立たしいような、ごちゃごちゃした気分になって布団を乱暴に跳ね除けた。
しばらくの間、ぐつぐつと鍋で具材が煮えるのを待つかの如くぼんやりと座り込んでいたひなわは、ここでようやく寝る前の出来事を思い出し、寝起きで跳ねだらけの頭を抱えた。
御前主催の労いの場で居眠りをしてしまった。
油断が死に繋がる獣が寝起きが悪いわけがない。獣の己がどうにも鈍かった理由はこの不敬を思い出したくないと、頭が抵抗していたのだろう。
叩き起こされずに済んでいるので咎めはない、そう甘い考えができるほどひなわは温い人生は送っていない。あるいはとうに打ち首にでもなって、ここでの休養は黄泉路の前の腰かけではないかと疑ってしまうくらいだ。
どう考えても見知った、抜刀した立花の気配がこびりつき常に寒気を感じて休めぬと有名な休憩所だとしても。
しかしながら、ここでほんやりしていても仕方ない。目を覚ましたということは体が何かを感じて動けと言っているに違いないのだ。それは長年の経験則で知っている。腹が減った、喉が渇いた、出すものを出したい、危険が近い。生き物の体はこれらを寝ていても判断しているものなのだから。
落ち着いて行燈に照らされた壁を見れば、そこに立てかけられた衣文掛けに己の一張羅が丁寧にかけられている。視界に入っていたのに目に入っていなかった。
よっこいと立ち上がって着物を掴むと、その布地からわずかに樟脳の香りを嗅ぎ取った瞬間、顔に正体不明の熱が籠ってよろけてしまう。
人間に抱き抱えられたあの夜と同じ香り。それを嗅いだだけで何故こんなにも恥ずかしい気分になるのか、捻くれた貉に理由がまるで分らない。
この着物は人間が脱がせた? そこに思い至ったとき、ひなわは頭の芯まで煮えた気がした。
ひとしきり意味不明に休憩所の中で歩き回った後、乾いた音を立てた己の腹に強い空腹を感じて我に返る。
そういえば数日の間まともな飯を食べていない。その辺の虫を食うよりマシとはいえ、兵糧丸というのはなぜあのように不味いのか。思い出したくもない赤ノ国の道中に、只の一言も文句を言わずに無言で腹に詰める挺身隊の連中、あれは舌が草履で出来ているのかと呆れたものだ。
ひなわはとりあえず落ち着くためにもと、隅に避けてあった菓子折りに手を付けることにした。どうせ持っていても嵩張るだけで、取って置いても思い出した頃に開けたらカビさせているに違いないのだ。
食えるうちに食っちまおうと、美しい包み紙の梱包を丁寧に解いていく。これが只の菓子折りなら雑多に破いて取り出しているところだが、さすがのひなわも国からの施し物を乱暴にするほど肝が太くは無い。第一、破いた梱包を見咎めて説教してくるような細かい連中の相手は御免被る。
「うっはっ!?」
入っていたのはガマズミの柄をあしらった最中。これは国の主、白玉御前に献上される物にしか使う事ことが許されない最高級品の証。今回のために急きょ菓子職人たちを総動員して特別に用意させたのだろう。
しかし、貉が驚いたのは最中ではない。その下に敷かれた小判包みの量と重さだ。
それは目に留まるまで存在しなかった。重さも感じなかった。ひなわが気が付いて初めて菓子折りの箱がずしりと重さを受け止め、持ち上げた箱がミチッと軋んだのだから。
十両包みが二十。すなわち二百両。
国から頂戴した菓子折りに入っていた恩賞の金額は、世を斜めに構えるのが常の貉をして興奮のあまり嬌声を上げて引っ繰り返るほどの大金であった。
五両盗めば死罪と定められた白の法を鑑みれば、弐百両という金が如何に大金か。この包みひとつで二人分の命が露と消える価値があるのだから。
掴んだ最中をひとつ丸ごと頬張って、ひなわは意気揚々と着物を引っ掴み金と最中を箱に纏めていく。そして行儀悪く行燈にふっと息を吹きかけて灯りを消し、わずかに煙の白を闇に残して休憩所を後にした。
あちこちに立ち昇る胸が重くなるような煙草の煙、鼻の奥が溶けそうな甘ったるい香の薫り。安い酒と嘔吐物の臭気が漂う裏路地には、とうに片づけられたゴロツキの肉塊から垂れ流された錆臭い空気が残っている。
ほどよく流れる川辺に軒を連ねる家屋はいかがわしい店ばかり。赤に紫、桃に金、色に欲と書いて色欲とはよく言ったもので、ぶら下げられた提灯から浮かび上がる色彩はどれもこれもが極彩色。
格子の隙間から漏れる女の生々しい匂いは、いっそ艶という色を幾重にも被り切って下品極まるドブの色。
賭けは好きだが情事には唾を吐きつける貉の経立、野鉄砲のひなわは南方川辺に連なる大遊郭通りを自慢の火縄銃を肩に掲げて我が物顔で練り歩いていた。
気分が良い。こうまで堂々と南を歩ける日がくるなど、ほんの数日前のひなわは思っていなかった。
金がある。なんと言っても金がある。方々の借金残らず返してまだ懐は焼いた懐石の如く暖かい。夏に懐石など願い下げだが金の熱なら大歓迎だ。
百両。百両。百両。文にして四拾万文。束銭なら壱千六百縄。これだけ使ってまだ半分、元の総額は倍の弐百両である。
ヤニ臭い金貸し共の目の前に小判を叩きつけて、己の名の入った証文を焼き捨てるのはたまらなく気持ちよかった。
「羽振りが良いわねぇ、ひの字」
どんな悪さをしたのやら、そう言って胴元は小判を入念に確かめてから要求された壱両分の木札を渡した。壱両は八千文。百文そこらでいじましく遊ぶ庶民の賭博とは一桁違う額である。負けが込んでいる癖に止められない輩では小半時と持たずに消える額でもあるが。実際、今宵に貉が金を交換に来たのはこれで三度目だ。
「真っ当に稼いだ金だってのっ。てめえらと一緒にすんな」
胴元は余計な事を言ったと後悔した。貉は口を開くと長々としゃべり続けるんだったと。そのまま廻り続ける口に適当な相槌を打ったあと、次が閊えているからと強引に退かせる。
羽振りが良いのは結構だが、国の営むお行儀の良い賭場の愛想は有限だ。これが違法の鉄火場であればいくらでも愛想を振りまいて金を吐き出させるところだが、生憎と過剰な稼ぎは面倒事の種にしかならない。真面目に営んでいる表通りの賭場で、痛くも無い腹を国に探られるなど勘弁である。
次に来たら賭博法を盾に追い出すと決める。
国の息が掛かった賭場では場毎に一定の額以上は遊ばせないという取り決めがある。賭け事で庶民を破産させないための法であるが、そのせいで裏道の賭場に引っかかる間抜けも出ているのが法の難しいところであろう。
引っかける側である己がいう事でもないか。胴元はそう独りごちる。ただし、この貉駄目だ。既に胴元が籍を置く組合に稲妻のような速さで通達が来ていた。
屏風覗きに関わるなと。
南の秩序の何もかもを打ち崩し、牡丹女郎もみずく花月も叩き伏せて嵐のように去っていったあの恐ろしい人間。その人間と繋がっているらしい貉と、南の者は誰も悶着を起こしたくなかった。
虎の威を借る狐。ならぬ虎の威を借る貉は、己が誰にどう見られているのかまだ知らない。