別視点。羽根落とし百一雀(ひゃくいちすずめ)。改め、一羽きりの唯一の『夜鳥』
己が他に百いることに耐えられる者がいるだろうか。それが完全に個別であったなら耐えられるか、無理なのか。
恐らく自身の身で体験するまで分からない者が大半だろう。
では異なる記憶がひとつ残らず頭に流れ込み、日に百人分の一日を生きることを強いられるのは? 興味の無い百の物語を見せられるのは?
それは目を塞ごうが耳を塞ごうが否応なく頭の中に納まって、すべてをひとつにするため『己の心』を泥濘のようにかき回していくとしたら?
そうして己だけが感じたはずの喜びも苦しみも、濃くも薄くもなくなって他にいる百の己に『均一』に渡される。
何の疑問も持たない己もいる。平気な己もいる。気付くことさえない己もいる。長く別れてもほとんどの己は己であって、『差異の価値』を考えることさえない。
それは、もっとも一番楽で幸せな、憎らしい己。
その『ほとんど』から一人だけあぶれた雀がいても、他の雀は気にしない。実感を伴わない記憶は、夢見が悪かった程度の記憶でしかない。
あぶれた雀は、それが例えようもなくもどかしかった。
何気ない日常の次の瞬間には衝動的に大声を上げて、その場で転げ回りたくなる。絶叫し、絶叫し、わずかでも『己』を誰かに訴えたい。ここにいる、百の欠片じゃない、私が、私がいるんだと。
願いは叶わない。
その雀はいつも心の奥で溶岩のような気持ちを燻ぶらせている。寝ているときも、食事のときも、勤めに出ているときも。何気ない会話の合間に、脈略もなく、唐突に、喉を潰すほど声を上げたくなる。掴みかかり、爪を立て、『私』を伝えたい。
他の誰でもない。『たった一人の私』がここにいますと。
願いは叶わない。
言葉を変えてみた。目つきを変えてみた。嫌いな食べ物を選び、好みじゃない着物を着て、楽しいとき泣いてみた、辛いとき笑ってみた。違いが欲しい。私だけが欲しい。『自分と』認めてほしい。
認められることはない。それは『私たち』に望まれていない事。同じ姿、同じ記憶、同じ力が求められた。それが他人の望む『雀たち』で、『雀』の一羽一羽がどう思っているかなど気にもされない。
白ノ国『羽根落とし百一雀』。百と一羽を数えようと、他者から見れば『一人』だけ。
願いは叶わない、はずだった。
その日『夜鳥』の名を受け取った雀は思ったよりも落ち着いている己に失望した。違いを得たはずなのに喜びが沸き上がらないことが空しかった。今日までの狂おしいほどの渇望も麻疹のようなもので、結局は己も百と変わらぬのかと。
それでも義理を欠くことは無礼と笑み、礼を言って別れた。人間の案内を終えても仕事はまだまだある。空虚な満足感を抱えて惰性で勤めを果たした。
一日の終わりに入る楽しみの風呂も今日は惰性。
そして多くの者が浸かる湯の中で、突然込み上げた感情を湯船の中に叩きつけて絶叫した。
ガホカボと空気を吐き出しながら叫び、叫び、お湯を吸い込んでむせ返り、周囲に助けられても気持ちの高ぶりはまるで収まらず叫び続けた。
この時に全身から垂れ流した液体は、決してお湯ばかりではなかったろう。それさえ意識できないほどの、生涯で初めての箍が外れた感情。
それを言葉で表すなら『喜び』。限度の振り切れた暴力のような喜びの爆発。
雀の中で弾けた『何か』が発狂するほどの歓喜となって雀の体を、分身のスカスカの肉体を、全身余すところなく駆け巡り続けた結果だった。
『得た』喜びを感じなかったのではない。感情が浸透する『間』を無意識に体が欲したのだ。脳の髄が弾けかねないほどの歓喜で頭がやられないように。
この後、溺れた者の介抱というより取り押さえられたに近い扱いで、雀はしばらく城の救護部屋に留め置かれた。前日の『可笑し月』の影響を疑われたための処置である。
つい先日の危機と被害を思い出し、仲間たちは未だ潜伏する脅威があると誰もが恐怖し、壊れた雀を哀れんだ。
当の雀は己から出せるであろう物すべてを垂れ流した後は、プツリと糸が切れたように唐突に眠りに落ちた。その眠りは深く、騒ぎを報告された術師たちの診察にもまるで気が付かず昏々と眠り続けるほどである。
翌朝。憑き物が落ちたように晴れやかな顔で目を覚ました雀に、入念な診察と尋問と調査が行われたのは言うまでもない。
異常なしと診断された雀は経過観察を踏まえて勤めに戻った。
百と一羽もの数がいようと国の規模を考えれば『雀』はまるで足りない。まだまだ『可笑し月』の混乱が残る中、警戒を緩めることはできないためだ。
迷惑をかけた者たちにそつなく謝罪を行いつつ、夜鳥は未だ滾々と湧き上がる幸福感に顔が緩むのを抑えて役目に戻る。昨夜の醜態は女人としてしばらく立ち直れないほどの惨状であったが、今の夜鳥にはまるで気にならなかった。
雀の多くは町の各所に散っている。しかし幾人かは現場を取り仕切る高位の者の耳目として固めて配置されている。例えば『夜鳥』はその固めたうちの一羽だ。その数は四羽になる。
「倒れたと聞いたから驚いたぞ」
以前から誰でもない者であった己に気遣いの言葉を下さるのは、第八守衛隊が隊長とばり様。そのお優しい人柄と厳しい指導に心酔する者は多い。
己もそのひとりであり他の雀も同様にこの方を慕っている。このように声をかけて頂けた日など、その日一日幸せに浸れたものだ。逆に他の雀だけがこの方に構われた記憶がある日は沈んだものだった。
しかし、今朝の『己』は不思議と高揚を感じない。そこで初めて、他の雀の記憶が気にならないことに気が付いた。己を薄めていくような恐怖も苦悩も感じない。あるがままに受け入れることができる。
それだけではない。他の己よりずっと『気配』が増していると感じる。存在感と言い換えてもいい。誰でもない百と一羽から頭ひとつ抜けた気分。一羽と『その他』の百だと。
目の前の世界が広がっていく。己の『誰か』が見ていた景色から、『夜鳥』が見た景色に塗り替わっていく。音が、においが、手触りも味も、何もかもが『自分』になっていく。今なら世界すべての景色を一度に見渡せそうなほどに。
昨日が『夜鳥』の誕生の日とするなら、今この瞬間は『己が夜鳥を見つけた』日。ここにいる。自分がいる。わたくしが。
「フヒィ!!」
見せ掛けだけの言葉遣いを生涯初めて、本気で使った。いつもの周囲の怪訝な目線さえ、今日の己には『個人』を見つめる最高の賛美としか思えなかった。
雀の感情は止まらない。誰かと話す事が楽しくて仕方ない。相手を問わず『夜鳥』の名を名乗り、相手が別人を見るような目を向けてくるのがたまらなく嬉しかった。
「最寄りのシケこめる場所、ご案内しますよ? フヒッ」
本当はいの一番に会いに行きたかった人間にようやく声をかける機会ができ、『夜鳥』は想像以上に高揚する気分にいよいよ舞い上がっていく。
その目に見られ名を呼ばれることが嬉しい。それはつい先ほどまで喜んでいた他者との会話よりも、さらに強い幸福感を感じて頭が溶けそうなほど気持ちがよかった。
それだけに、忘れていた雑音が耳につくと気分がザラついてくる。その気持ちが何であるか自覚するより前に『夜鳥』は至極感情的な衝動で『他の己』を遠ざけた。その衝動に名称をつけるなら『独占欲』である。
なぜか『他の己』がこの人間の近くにいることに酷く心がざわつく。だからさっさと遠くへ行けと『操った』。
誰に教わるでもなく『夜鳥』は近くにいる『他の己』を操れると『今、知っていた』。それは強い術者にしばしば起こるとされる不思議な感覚。気が付けば使えるように『なっている』新しい力の発現。これを体験した者は総じて妖怪としても力が増すという。
世界がさらに広がった気がした。
これらすべては目の前の人間がくれたものと、『夜鳥』は形容しがたい力で結ばれた『繋がり』の結果だと直感で理解した。これは理屈ではない。
他人に教わった知識とはまるで違う。自分だけの『気付き』で得た感覚に『夜鳥』は喜びに震えた。
「申し訳ありません!!」
雀は新しく『今、使えた』力で優しく人間を導いたつもりだった。それを人間がどう感じるかに思いは馳せず、立て続けに生まれる喜びの感情に突き上げられるままに行動していた。手を取ったときに感じた温もりで、『夜鳥として生きている』と実感してこみ上げる気持ちは例えようがないほど幸福だった。
それが失敗。
喜びは己の内面に起因するものであり、他者には与り知らぬことだと頭から抜け落ちていた。それが例え言葉では言い表せない『繋がり』を感じたこの人間であろうとも例外ではないと、これほどまで拒絶されるなどと思いもしなかったのである。
足元が崩れていく。奈落へ落ちていく。自分が自分で無くなる。
『夜鳥』は、急激に訪れた身の皮を肉ごと削がれていくような喪失感に消え去りそうだった。
不信、不快、怒り、そして敵意。腕を払った人間から流れてくる感覚はいずれも『夜鳥』の『大切な何か』を剥がそうとする感覚がある。これは理屈ではない。自分だけが感じる『遮断』の感覚に『夜鳥』は震えるしかない。
恐怖は膨れ上がる。あるいは得た物が『特別』であったならここまで取り乱さなかったかもしれない。
奪われようとしているのは『個』。他者にとって『当たり前』の、地面と共にあって当然の代物が奪われる。それが怖ろしい。
生き物が生れ落ちて最初に得るもの、それは『己』だ。『得た』ことで、それを奪われようとしている事で初めて自覚した。最初から『欠けていた』と、己には『当たり前』が無かったのだと。
自分は『誰でも無い』。『本体』の分身、誰が見ても誰が聞いても『他人』ではない。百羽いようが千羽いようが一羽の足から伸びる影法師。
それこそ名前なんて、最初から与えられるはずもない。
みずくの介入と必死の言い訳で間は持たせた。だが『失う感覚』は燻ったまま。『夜鳥』を生んだ人間は、己から『夜鳥』を取り上げようと考えている。雀にはそれが我が事のように理解できた。このまま認められなければ本当に『失う』と。
牡丹女郎と人間のやり取りもまるで頭に入らない。いつ案内されいつ座ったのかも覚えていないほどだ。そんな途切れ途切れの思考の中、煙を吹きかけ挑発する売女に悲鳴を上げそうになる。やめてくれ、これ以上人間を怒らせないでくれと。
大鋸屑のようにスカスカになった雀に流れ込んでくるのだ、人間の苛立ちが。静かで、それでいて誰も認めない許さないという、暗く冷たい怒りが。分かるのだ、雀にもわずかに向けられていると。この場の全ては『捨てる物』と見なされている。
雀は『順番が後ろ』というだけでしかない。
「見捨てないで、見捨てないで」
気が付けば人間に縋り付いて泣いている自分がいた。
あの後、急に人間の結界が張り巡らされたとき、その中に自分が含まれていることに気が付いて一時喜んだ。まだ捨てられないと。しかし、直後に脳の髄に砂利を擦りつけられるようなザラザラとした感覚を感じて意識が飛んだ。
死ねと、言われた気がした。
全てを終えて店を後にしても雀にとってはまったく終わりではない。『失う』感覚は続いている。雀に出来ることはもう祈ることしかない。
失いたくない、消えたくない、お願い、お願いです、『夜鳥』を取り上げないで。奪わないで、捨てないで。
こんな事ならみずくの話なんか乗るんじゃなかった。こんな事になるなら師など助けようとするんじゃなかった。『自分』が消えるくらいなら誰がどうなろうと知ったことじゃない。
転げ落ちた地の底で、折れた翼を眺める雀は世の中を呪う。なぜ誰でもない『己』が生まれたのだと。なぜ『己』を認めてくれないのかと。術を掛けて生み出した本体が悪いのか? 術を教えた師が悪いのか?
あるいは、術を便利に使う連中が悪いのか?
考えは『失う』感覚が消えたことで消失した。人間は『夜鳥』を許し、雀は再び『繋がり』を感じて暗い考えは安堵と喜びに押し流されていく。爪痕を残して。
今回は手痛い教訓だった。はしゃぎ過ぎて人間との間合いを取り違えたのが失態の原因だろうか。相手は人間で、鳥でも獣でもない。そこを失念していた。
人間は増えるためだけに『重なる』わけではないと『今、知っている』。
まずは急がず、一度に飛び掛かるような真似は慎もう。じっくりと近づき、じっくりと触れ合い、じっくりと蕩け合うのだ。むしろそれは楽しいことに違いない。自分だけの『何か』を手に入れる努力。それは間違いなく『人生』ではないか。分身には送れない個人の軌跡。
だからひとまず我慢しようと思った。それさえ個人の欲求と言えなくもない、『楽しい』ことだと。
知らず、指についていた甘い香りをペロリと口に含んで。