紫月・その1
ツケで入った『狐の社』、漆黒世界に松の蹄の音だけがパッカポッコと響いている。前には馬上に伏せの姿勢で同乗するプードル、腐乱犬氏。彼にとって他者の争いによる気まずい空気など取るに足らない些事でしかないようだ。
事情がいまいち飲み込めないが、矢萩様から感じた雰囲気から彼女に決定的に嫌われたと思われる。
腐乱犬氏と矢萩様のやり取りから推測するに、どうも部下の監督不行き届きで立花様に怒られたことが発端のようだ。つまり八つ当たりからきたパワハラである。
叱責されてイラついているときに屏風覗き如き下っ端に口答えされて、いよいよプライドに障ったのが最後のトリガーといったところだろう。
これはもう、こちら側にはどうしようもない。屏風覗きが原因の失態とか、落ち度から悪感情を抱かれたならともかく、こちらが何かしたわけでもないのに『気に入らないから嫌い』という感情論で嫌悪されても改善しようがないし、する気にもなれない。理不尽に当たり散らされた側が関係修復に骨を折るのも変な話だし、矢萩様とは今後『同じ陣営だけど無関係』と距離を置くしかないだろう。
同じ見回り組所属のひなわ嬢に屏風覗きの知り合いだからとパワハラがいかなければいいのだが。最悪の場合、立花様にもこちらのケツ持ちとして出っ張ってもらえるよう、予め話を通したほうがいいかもしれない。当人同士ので解決を図ろうにも身分差が如何ともしがたいし。そのような些事知らん、とか言われたらどうしよう。
そして入った時と同様、唐突に外に出た。黒ベタ一色の視界が夜の闇程度に戻ってくる。
暗い? まだ夕方にもなっていないはず。スマホっぽいもので確認すると16時半だった。
『狐の社』に入ったのは16時頃、松に乗って体感30分程度進んだと思っていたのでたぶん時間は合っている。『社』で外との時間が狂ったのか? 数十分で数百キロを移動できる装置なわけだし、時間の流れがおかしくなっている可能性はある。
時計から目を戻すのとほぼ同時に、前のプードルが馬上から力なく転げ落ちた。
咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、ボトリと落ちた腐乱犬氏はその場でピクリとも動かない。寝ぼけてうっかり落ちたという感じではなかった。
落ちたことを知っているだろうに、まったく止まる気のない松に慌てて止まってもらい腐乱犬氏の元に急ぐ。落ちた体制のまま不自然な姿勢で動かないさまは、死体というよりまるで半端に水や空気を入れたゴム人形のよう。声をかけても揺すってもデロンデロンするだけで反応がない。
ひとまず、カポカポと面倒そうに近づいてきた松に彼を乗せようと顔を上げたとき、見上げた黒い空に浮かぶ『モノ』に初めて気が付いた。
ケバいネオン光のような輝きで暗天を汚す濁ったライトアップ。紫色の月が、悪女の口紅の如く黒一色の空に浮かび上がっていた。
外周に入り、いよいよ異常が露になる。道に横たわる妖怪、妖怪、妖怪。なんだこれは。
道中、幾妖怪かは意識があったものの、残らず電流でも流されたように肉体が破裂しそうなほど強く体を震わせ苦悶の声を上げていて、とても話せる状態ではなかった。
その視線の先は共通して紫の月。見る限り明らかにアレが異常の原因だ。思い立ち、自動防御のログを確認すると
<ヒュプノスを防いだ>
このログが現在進行形で流れ続けている。つまり持続型の催眠攻撃ということか。町をそっくり覆うとかどんな規模だよ。腐乱犬氏はコレにやられたのか? 破いた手ぬぐいを抱っこ紐のようにして腐乱犬氏を体に巻き付け、抱っこの形で持っていく。
オッサンでも怨霊でもやっぱり犬は犬で、思ったより感触がモフいのが腹立つ。腹の薄い毛の感触が特にイラつく。逆さにワシャワシしたい。
しかし松が平気そうなのは何故だ? 屏風覗きは自動防御のおかげだが、松はなぜ大丈夫なのだろう。若干イライラしている風ではあるけど、これは進むのに難儀するほど道が倒れた妖怪で塞がれているからだろう。さすがに踏み潰すわけにもいかないと理解しているようで、めんどくさそうではあるが避けてくれるのだ。
この現象は幽世の自然現象か? たぶん違う、これまでの出来事からすれば攻撃に違いない。では、屏風覗きはどうすればいい?
行動案1 撤退。立花様の指示を仰ぐ意味でも選択肢に入る。テロ攻撃なんかでも軍隊は不意打ちに際し持ち場を死守に拘らず、一度とにかく引いて体制を整えるのがセオリーらしい。混乱した状態で抵抗してもうまくいかないという考えだろう。なお漫画知識。
行動案2 潜伏。隠れて状況を静観するのも手だ。無暗に動いてもまともな情報が無いのだ、何ができるか、何をしていいのかも分からないのにウロウロしても危険なだけだ。
行動案3 突貫。相手の狙いは重要人物、もしくは施設への攻撃と決め打ちして援軍に向かう。いち早く駆け付ければ守れるかもしれないと速度を取るか、逐次投入の愚を犯さず頭数を揃えて挑む、つまり案1と並行して数を取るかの究極の選択も伴う。
逃走。なにもかもうっちゃって逃げ出すという選択はもう無い。恩も情もある知り合いが何人も出来てしまった。
発作的に腰の短刀の主を探しに行きたくなり、手綱を握りしめて堪える。何処を守っているかも分からないし、あの子が一番守らなければならないものを考えれば行ったら怒られそうだ。この馬鹿者と。
キューブを道代わりに上空に設置。目標はお城。ここであらゆる意味で守らなければならない重要人物、敵からすれば何を犠牲にしても仕留めたい存在は唯一妖怪だろう。外れても別にいい、城で偉い誰かに指示をもらう意味でもまず向かう。今すべきはコレだよな、ちっちゃい守衛さん。
行こうか松ちゃん。もうちょい働いてボーナスと残業代でも貰おうや。
上空、というほど高くはないが人の少ない場所では地面を、多い場所ではキューブを使って上を。平屋の上あたりの空中を一直線に進む。外周、中周り、奥周りと途中の境界に引っかからないように作法のためいちいち手前で止まるが間抜けとしかいいようがない。
ヒーローならうまいこと環境が出来上がってストレートに突き進んでいくのだろう。まあ、脇役の活動などこんなものだ。初めて見るだろう足場を恐れることなく進んでくれる松には感謝しかない。
城門辺りでチカチカと不自然な光源が滅茶苦茶に動くのが見えて注視する。どうも戦っているっぽいと気付き松にお願いして接近すると、ほんの数人の番兵が空中に浮く『一本の馬の脚のようなもの』と戦っていた。光源は彼らの松明だったらしい。地面には何人もの番兵が箱からぶちまけたマッチ棒のようにあちこちに横たわっている。ほぼ全員が失神しているか、もしくは先ほど見たように異様な状態で動けないようだ。
バカン、というバッティングセンターで聞くような乾いた音で慌てて戦闘に視線を戻す。
どうも『一本の馬の脚のようなもの』は槍の攻撃を受け付けないらしい。松明で殴られると怯みはするものの火傷も負わず、近くの番兵を矢鱈目ったら蹴りつける。思わず彼らが距離を取ると、待ってましたとばかりに倒れている番兵を踏みつけようとするため、彼らも迂闊に下がれずジリ貧のようだ。
そして脚の攻撃を一身に受けているのは胴丸と呼ばれている子だった。周囲の番兵たちの前に立ち、どれだけ蹴られてもピーカブースタイルっぽい恰好で耐えている。横からなんとか別の兵が松明で応戦するものの、傷を負わせられない以上は時間稼ぎにしかならない。
猶予は無いと判断して大声を出し、キューブで殺傷するため離れるよう指示をする。しかし、その声に返ってきたのは『やめてくれ』という拒否だった。あろうことか、『一本の馬の脚のようなもの』は味方だと言う。あの月を見ておかしくなっているが同志だと。
攻めに耐え、口から血を流しながらも『同志』だと言い切る言葉は無情な願いを含んでいる。結末を予想させるほどに。
それならそれでキューブで隔離する手もある。持続型の催眠なら一度切れれば正気に戻るかもしれない。月を見ておかしくなったなら、布か何かでキューブを覆ってから解除すれば正気でいられるかもしれない。
しれない、としか保証できないが、この提案は無理にでも飲んでもらう。このまま『一本の馬の脚のようなもの』が暴れ続けたら、彼女たちが倒れた時点で虐殺が始まってしまうだろう。無事な者が倒れてから殺すか、倒れる前に殺すかなら損害が少ない回答は決まっている。
最悪、恨まれてもいい。どうせこっちは余所者だ。誰も彼もと本当に仲良くやれるなんて夢は見ちゃいない。
馬の脚を出している『もやのようなもの』を含んでキューブを設置。同時に限界が来たのか胴丸さんが腕を上げた姿勢、ファイティングポーズのまま膝から崩れ落ちた。咄嗟に介抱しようとする番兵たちを止めて、キューブを覆える布を用意するよう伝える。悪いがどこに何があるかはこの子たちのほうが詳しいだろう。