別視点。立花が見下ろすは緩んだ弓
立花が『大返し』を用い本隊五千を矢萩の元に送り届けたのは『ある別命』の欺瞞を兼ねた、言わばついでの事。でなければ有事に主人の元を離れるなどあり得ない。
それでも離れるに際して可能な限り入念に防衛の手筈を整えたとはいえ、やはり心配の種は尽きない。何せわずかでも間が空けば身分を気にせず動き回る奔放な御方、臣下が口々に御身を大事にと願う忠言もまるで取り合ってくだされぬ。
「私が国を支配しているのであってー、国が私を支配するなら許さないですよー」
それがいつかの立花が吐き出した、『お国のため』を思った苦言に返ってきた御前の言葉。
国を興した初代として、土地を切り開いた開拓者として、万難を排した強者として、かの御方はどこまでも己本位であることを恥じない。
縋る民に与えよう、飯が食える仕事を。縋る民草を守ってやろう、理不尽なる仕打ちから。助けてやろう、救ってやろう、おまえたちが望むなら。
ならばこそ、この身ひとつが滅んだだけで取り返しがつかぬほど国が傾くというなら、いっそ諸共に滅ぶがいい。
願うだけで手に入れたというなら、不毛の地が不毛に戻るだけ。望むだけで救われたというなら、捨てられた民が再び捨てられるだけ。そこにおまえたちの積み上げたものが無いというなら。それはむしろ滅ぶべきだと。
支える者たちがいて初めて国なのだ、引き上げられるのを待つだけなど許さない。それが出来ぬ限りは国と言えど私の持ち物、私の勝手。傲慢に言い切るその目に負い目も偽りも無かった。
以来、立花は説得を諦めている。家臣でなく、理屈でなく、個人としての気持ちで至極もっともと思ってしまったのだ。
国の支配者であったはずの強者は、ある日一転して国の事情に支配されるようになる。自由に振舞うこともわがままを通すことも憚られるようになり、いつしか温かい飯さえ食えなくなるのだ。はたして、それは本当に支配者と言えるだろうかと。
そんなもの、己に縋りついた者たちの欲求に答え続ける奴隷ではないかと。
御方は自由に振舞われればいいのだ、その威光に縋る我らがこそ身を捨ててお守りすればよい。それが嫌という者は出ていけばいい。そして守り切れねば、共に滅びればいい。
やがて世間的な常識と乖離した物事については一度はお諫めし、聞き入れてくだされなければ黙って従う。これが立花の考える忠義の根幹となり、何処か歪んだまま主従に定着した。
そして今日も己の忠義に従って御前の元を一時離れてきた立花は、平伏する矢萩以下、先行部隊の面々を不快感を隠さず睥睨していた。
「それで屏風を放り出したと?」
事の発端は陣地に姿の見えない人間の事を、まるで会ってもいないように一切口にしない矢萩の態度の不自然さを立花が見咎めたからである。
狼狽する矢萩に構わず、同じく送り出していた狗に問い質すとあらぬ事を言い出した。屏風覗きは陣地に押しかけてきた火薬臭い貉と共に、一足先に皮剥ぎの鬼女の下へ走ったという。たった二人で。
皮剥ぎの鬼女は四国すべてから『権女』を賜る要人。その救援になぜ二人だけで向かわせたのか。
震えて口ごもる矢萩に代わり、もっともらしい言い訳を口走る知恵者気取りの三下共に目の圧を強めて問えば、あろうことか鬼女も貉も人間も気に入らんという、極めて私的な理由で救援を渋ったと知れた。
どうせ助けがなくとも肝心の鬼女は本隊が着くまで持たせるだろう、であれば手柄に目が眩んだ虫の好かぬ輩の死体がふたつ出来上がるだけ。どうせ我らは陣の守りという大義名分がある、動かずとも咎められぬ。
そういう絵を描いていなかったと言ったら、嘘になるやもしれません。
怯えつつも持って回った言い回しで白状した三下を、立花は馬上から無言で見下ろす。その視線の意味を知る矢萩と立花の部下たちは即座に動いた。
地に頭を叩きつけ土下座を行った矢萩は、取り押さえられた己の部下の助命を乞うた。自身の態度が部下たちに目上を軽んじる姿勢を取らせてしまった原因であり、すべては己の罪でありますと。しかし、遅すぎる。吐いた唾が戻るわけもない。
ましてそれが主君『白玉御前』が側近、立花の前で吐いたのだ。
矢萩は下の者、特に赤ノ国に近い辺境の民に慕われている。付喪神らしい言い方をすれは、矢萩は現世の国人から幽世にこぼれてきた『物』。良い出仕を鼻にかけず民と寝食を共にし距離が近いがために慕われ、そのために気安い。この土地の支配者が白玉御前と知っていても、民と矢萩の配下のなかでは親分と言えば未だ矢萩なのだ。良くも悪くも。
思い違いをした愚か者を白一色の槍が次々と貫く。村人に配られる形だけの代物とは訳が違う、武具の付喪神立花が子飼いの部下に買い付けた本物であり、手入れを怠らぬ切っ先には半端な鎧など紙きれに等しい。
体を通りなお止まらず地面を穿った槍には、御方を軽んじた愚物に向けた部下たちの強烈な憎悪が宿っていた。素性身分を問わず、いずれの者も御前に大恩ある挺身を厭わぬ武士たちである。
普段であれば叱りつけるべき雑な一撃だが、これは槍に余計な力が入るのも無理からぬことと立花は今だけ目を瞑った。
「供養は許す。ただし二度は無いぞ」
慈悲に甘んじ鞭を打たねば軽んずるというなら、御方に代わりこの立花が存分に打ってくれよう。そう無言で語る太刀の付喪神に矢萩は土を握りしめるしかない。
配下の死にわずかに怒気を発した矢萩を、立花はどこまでも冷淡に見下ろす。
まだ赤ノ国と白ノ国の国堺があやふやな頃、近隣を牛耳っていたこの弓の付喪神は『赤羽の矢萩』の名を持ち、二国の取り込み合戦にささやかな抵抗をしていた。結局、いずれ双方からすり潰される未来しか見えないことで、配下を食わせるために白に従属し『白羽の矢萩』と名を変えて土地の支配を代行するという形をもって国に仕えている。言うなれば地方の豪族として生き残ったひとりだ。
ただし、それは何をしてもよいということでも、主君である白玉御前と同格というわけでもありはしない。飼われる道を選んだ犬が餌を食っておきながら噛みつこうとするなら、国は主人として愚かな犬を蹴り殺す。
矢萩の口から歯軋りが漏れる。ただし、それは怒りを抑えたからだけではない。どうあっても勝ちの目が無い己の不甲斐なさからだ。
下ったとはいえ手下を従えるほどの名持ち、矢萩の実力は一門の武士として恥ずかしくない程度にはある。だからこそ馬上から圧し潰すほどの殺意を漂わせる立花との力量差を痛感せざる負えない。百度、千度、何度打って出ても敵わない。そして一度反抗すれば粛清されるのは己だけではないだろう。
忠誠も謀反気も見せる半端者と呼ばれることを矢萩は内心誇っていた、牙を残す武士と。しかし己が届かぬ武を前にすればそれがいかに矮小な思い上がりか認めるほかはない。己の器量で生き残ったのではない、生かされているだけなのだと。
「二百来い。後の者は任せる。うまく使え」
もはや一瞥も無く場を仕切ると立花は少数を割いて陣地を後にする。
恐怖で冷え切った場に残された巡り組の者たちは自身が兵などではない村人、烏合の衆であることを思い出し、ここが戦場であることをようやく理解して竦み上がった。
陣地に来てから気になっていた浮ついた雰囲気に、立花なりの気遣いから強烈な鞭を与えたのだと村人たちは思い至らないだろう。
覚悟なき威勢は戦の恐怖で不意に、何より決定的な場面で容易くへし折れる。世の何がもっとも恐ろしいのか、たとえ恐怖を伴おうと叩き込み戦える者にしなければならない。それが何より白ノ国を、民自身を守るのだから。
そして矢萩は試される。浮足立つ自分の弱兵を立て直せるか否か。これでも私情に揺れ醜態を晒すようなら、立花によって本当に処断することになるだろう。