別視点。ひなわ、闇に浮かぶは未だ微か
か弱い貉にとって、隠形の技の冴えはそのまま命綱と言っていい。修復した『皮』の慣らしをかねて狩りのひとつもしようかと、夜陰に紛れて音も無く林を進んでいた人影は、突如その主人に合わせて月光を嫌うように野に伏せた。
なんだありゃ? わずかに上体を起こして前方を注視するひなわの目には、開けた場所といえば獣道程度の森林の中に、不自然に伐採されて空白の出来た土地があった。
鬼女の元に度々訪れるひなわはこの辺りの地理に詳しい。どうも人の気配がする、それも異常に多い。仕事柄悪臭のする皮職人の近くには誰も住みたがらないというのに。
伏せた姿勢からそよぐ風に合わせてそっと起き上がり、目の奥を先へと延ばす感覚で凝視する。
『人の皮の目』はさして夜目は利かないが、この『皮』に使われた『目玉』は前回と同様、鬼女から大枚で買い上げた特別なもの。星明り程度で昼のように不自由なく見回せるだけでなく、注視することで半里(約2キロメートル)先を目と鼻の先のように見ることもできる。
後者はやり過ぎるとひどく頭が疲れるのであまりやらないが、弱者は先に敵を見つけることが何より大事と分かっている貉は必要とあれば躊躇わない。
十、二十、多い、まだいる。五十、百、総数は間違いなく二百に届く。
痩せこけた体、みずぼらしい衣服、手にしている長物は槍あたりか。最初は夜盗の類かと訝しんでいたひなわは、そのあまりの大所帯に道理に合わぬと己の考えを否定する。
白ノ国内であんなに痩せた者はまずいない。ひとりふたりならまだしも、あれだけの数が固まるなどありえない。働き口を探せばいくらでもあるし、旨い不味いはあってもどのような仕事であれ飯だけは食えるのだ、この国は。
となれば他に思い当たるのは、この土地が赤ノ国とほど近い国境にあるという事。さてはあの連中、忌々しい赤との境界から踏み込んできた食い詰め共かと訝しむ。
以前から赤ノ国との境は野盗や盗みが頻発する厄介事の温床である。そのほとんどは赤の飢えた農民たちの仕業であり、餓死するよりはと自暴自棄のような犯罪を繰り返しているようだった。
これは白側からすればたまったものではなく幾度も抗議はしているようだが、赤の支配層は知らぬ存ぜぬと取り合おうとしない。やむなく白側は関所の他に国境を監視する人員を割いて見回っている状態だ。
しかし、この辺りに実りを掠め取る畑など無い。人も通らず金も奪えない。近くに住んでいると言えるのは皮剥ぎの鬼女くらいなもの。
たしかにあの守銭奴なら金は貯め込んでいるだろうが、あの鬼女の話をひとつでも知っているなら襲撃は無謀な蛮行と映るだろう。
『階位九位一権女、皮剥ぎの鬼女、万貫』
階位一桁など四国探してもそうおらぬ。まして『権女』を賜っている者ともなれば、最低でも三国の頂点から認められている人物ということである。これを害すれば報復を行うのは白だけではない。三つの国それぞれの支配者の顔に唾を吐くに等しいのだから。
たとえ赤の面の皮がどれだけ厚くとも明確な報復が行われるだろう。そしてその赤の支配層にしてもあの老婆の『作品』に頼る者はいる。どう考えてもやはり不合理だ。
よもや身柄を掻っ攫うつもりか?
過去には白の職人を引き抜く工作をしてきた国があると聞いている。ひなわは関わっていないが、渋る職人を誘拐しようとした企みを潰したことも幾度かあったらしい。
一度攫ってしまえば職人が自身の意思で鞍替えしたと言い張り留め置ける、というのがその手合いのやり口だ。如何にも赤ノ国がやりそうな手法である。
さても困った、これを教えてあのへそ曲がりが素直に逃げるだろうか。
答えは目に浮かぶようだ、粘つく笑い声を上げながら諸共に火でも放って自害してでも従わないだろう。物も金もビタ一文とて商売以外でやり取りなどしない守銭奴だ。
赤が白以上の待遇を用意しない限り付いていくことなどないし、赤の貧乏人共がそんな条件出せるわけがない。もちろん婆が空手形など信用するはずもないだろう。
それこそ相手の弱みに付け込んで、死の瞬間まで己の値段を吊り上げ懐に手を伸ばし続けるに違いない。
なら、あの婆なら殺し切れるか?
一桁ともなれば妖怪としての強さも求められる。あの鬼女なら痩せた農民程度、百や二百は苦も無く殺せるだろう。だが、その二百に混じって明らかに体格や身なりの違う輩がいる。
あれは間違いなく名のある連中だ。となればこの集団は単なる飢えた農夫共ではない。少なくとも組織立った集団、部隊だ。
めんどくせえことになった、口の中でそう呟いて集中を止め静かに後退する。
もはやひなわ一人でどうこうできる状況ではない。おそらくはあれは赤の軍であろう。先の裏切り者の事といいキナ臭くはなっていたが、田舎とはいえよもや数日で軍まで忍び込ませているとは思わなかった。
よくも気付かれなかったものだ、おそらく赤周りの関所も巡り組も、これを凌いだのちに厳しい叱責があるだろう。
不謹慎だが、これは立ち回り次第で出世できるやもしれん。ひなわは腹の中で窮地を逆に考えて算盤を弾く。
社を使えばすぐに連絡には行ける。しかし、ここから近い社でもひなわの足では走って一刻半はかかる。鬼女も抵抗はするだろうが、その時間稼ぎも加えて取って返しても、はたして救援が間に合うかどうか。
重要人物の救援なのだから最速で対処はされるだろう、それでも間に合うかどうかは別の話。
何より、ひなわの弱者の勘が告げている。間に合わない、攫われっちまうと。
己だけで打ち倒せれば大金星。だがいくらなんでも分が悪い。わざわざ獣の体に括り付けて持ってきたありったけの焙烙玉を投げ込んでも多数に手傷を負わせるのがせいぜいだ。
元よりひなわ手製の焙烙玉は主にかく乱や逃走用であり、発破の轟音や煙幕、刺激臭を出すことが目的である。金属片や火炎をまき散らす殺傷前提の高威力の物はさすがに町中では使えないためだ。奥の手を兼ねて興味本位で作りはしても持ち歩いていなかった。
今の手持ちで貉が確実に殺せる人数は十人に満たない。玉砕覚悟でも二十さえ無理だ。たとえ討ち死上等で挑んでも名のある連中は弱者の相手などせず、雑兵に押し潰されるのを後ろであざ笑うだけだろう。もとより自己犠牲のマネなど死んでも御免だが。
知らず足が鈍り、月の陰った黒い天を仰ぐ。弱者はいつもこうだと。
何もかもが儘ならぬ。弱者は理不尽に目をつけられぬよう身を低く、悪意に踏みつけられぬよう縮こまるしかない。どれだけ願っても、どれだけ叫んでも、神も仏も世の誰も、弱者の側を助けてはくれないのだ。
これまでの貉の生涯の中では。
心がささくれ、いっそ無視しちまおうかとやさぐれたとき、遠く遠く、はるか遠方に地より空へと吹き上がった白い光が見えた。暗闇の世界に、それは突然現れた。
ひなわの中で根拠の無い感情が沸き上がる。あれは白だ、金色ではない。あいつは町だ、こんなところにいない。世は不合理だ、こんな都合のいいことありえない。
それでも自然と体が駆け出す。心が光を求めて手を伸ばす。親に縋る餓鬼みたいな、甘ったれた望みが叶うかもしれないと。
もちろん、身を隠しながら慎重にだ。
か弱い貉にとって、隠形の技の冴えはそのまま命綱と言っていい。
十分に距離を取った後は大急ぎで光の元に走った。途中で『荷物』の重さに辟易し、目印のある場所に商売道具一式を隠すと、その分の遅れを取り戻そうとひたすら走る。
生憎とひなわは雷神の如く駆けるための内丹術も、風の如く疾走する早駆けの術も使えない。
鉄砲屋が獲物を追い詰める方法は知恵と体力、そして何より執念深さであり決して脚力ではないのだ。しかし、高速とはいかなくとも元は獣。野山を延々走り続けることに関しては自信があった。
夜が明けた頃、やっと白く輝く砦がはっきり見えたあたりで臭ってきた血と煙の臭いに思わず身を隠す。気配を殺して自慢の目玉を使い、じっと辺りを伺うと遠方のそこかしこに死体の山があった。
生きている者は誰もいないと判断すると、思わず苛立ちから舌打ちをひとつしてまた走る。誰が何人死のうと貉には埒外の話、無駄な時間を使ったとしか思わなかった。
「誰じゃ貴様っ!? ここは白の陣ぞ!!」
やっと着いたと駆け込もうとした矢先、作りかけの門の前にいた門番共に槍を突き付けられ苛立ちが頂点に達する。
しち面倒な事に、ここは国の有事の際にその土地の村から編成される『巡り組』と呼ばれるにわかの防衛部隊によって守られていた。彼らは一部のまとめ役を除けば『見回り組』とも『守衛組』とも面識が浅くひなわの事も知らない。
町で音に聞こえた貉の悪名も、辺境の村ではまだまだ聞こえてこないのだろう。
そして困ったことにこの門番、どうも頭が固い輩のようで取り次ぎを願っても身分を知らせる物が無いなら取り次げないの一点張り。挙句に赤の間者ではないかと悪し様に罵ってくる始末。この場にひなわが一丁でも鉄砲を持っていたら、このほうが早いと焦燥感で撃ち殺していたかもしれない。
いっそ逃走用に唯一持っている煙幕玉でも口に突っ込んでやろうかと本気で考えだしたとき、砦の上から流れてきた覚えのあるにおいに自然と顔がそちらに向いた。
「やっぱりいたっ、旦那っ!! なんとかしてくださいなっ!!」
訝し気に顔を出したのはやはり人間だった。知らず大きくなった声に己で驚きつつも、まずは渡りに船とひたすら手を振る。
思いは通じたようで困惑する門番共に手出しをせぬよう言いつけ、わざわざこちらに来てくれるようだ。どうせならすぐに入れてくれれば良いものをと思わないでもないが、心拍を整える時間はあったほうがいいなと思い直す。
乱れた髪を手櫛で梳き、土と草がついた衣服を叩いて身なりを整える。頭の裏では、はてなんでこんな身綺麗にせにゃならんと思ったものの、誰が相手であれ汚いより良かろうと意識の外に追い出した。
ひなわのその姿に何を思ったのか、手持無沙汰になった門番のひとりが不満げに吐き捨てた。
卑しい成り上がりになんの用だか、と。
「ア゛ァ゛っ!?」
門番は存外、戦う者としては優秀であったのかもしれない。目の前の貉から突然上がった威嚇の声と共に膨れ上がった殺気を感じ、身を乗り出したひなわの足をほとんど無意識に槍で払った。そうしなければ危険と感じたのである。
そのまま訓練でやってきた通りに倒れた貉に追撃の石突を放つ。仮に門番が弁明したとしたら、過剰に痛めつけようという悪気は無かったと述べるだろう。体に刷り込まれた動作だったと。何より、彼らは屏風覗きの要求など聞く義理はないのだから。
だが幸いか否か、槍が当たることはなかった。石突のあった先には砦と同じ白く輝く水晶のような石が浮いている。
そして門番が気配を感じて背後を振り返ると、能面のような顔で門番を見下ろす人間がいた。
白玉御前に取り入った卑しい成り上がり、戦えぬ弱者、芸もできない道化、茶も点てられぬ茶坊主。それが敬愛する大将から聞かされた屏風覗きだった。
知らず体が道を譲ってしまう。何かは分からぬ、だが得体が知れぬことだけは分かる。コレに関わってはならぬと。
「覚えとけよ、さっきぬかしたことは忘れねえからなぁ?」
結界が解けたのを見て立ち上がったひなわは、ついさっきまで威圧的だった門番の怯えと、その理由に気付いてお返しとばかりに門番を乱暴に押し退ける。怒りもあるが、多くは己の虚勢の残り香だ。
守ってくれたと分かっていても、狭い場所に押し込められるのは出生が獣の身としてはなかなかに恐ろしかった。
目の前では見回りの半端者、矢萩と腰巾着連中が屏風覗きを囲んで騒いでいる。
腐っても階位弐拾四位を頂く妖怪を前に人の身でありながら怯えもない。その姿にささくれた気分は随分良くなった。それがどうしてなのか貉は特に思い浮かばなかったので気にしないことにする。
何となく、この理由を突き詰めると変なことになりそうだと感じて。