別視点。階位四拾弐位 秋雨
『秋雨』、と一番書くのが面倒な名を付けられた私は、自分が一番の年長だからそう呼ばれたのだと思った。妹ふたりは『あい』と『あき』で、書くのも覚えるのも楽だし、堅苦しい漢字じゃないし、年下はかわいくて羨ましいなと思った。他にも兄弟姉妹がいた気がするけど、目が開くころには三人だけになっていた。
母者もしばらくしたらいなくなった。私はお姉さんだから、妹たちを助けなきゃいけない。
「恩婆、いる?」
城の一角に昼間のような光に照らされた『酒保』と呼ばれる売店がある。
まだ城が建築途中の折に生まれた役目で、当初は名前の通り酒蔵に収められた大量の酒を守る役割を持っていたらしい。働く者たちの日々の慰めや宴、接待などで必要に応じて持ち出しを管理する大事な役目だ。
なにせ妖怪という生き物は総じて酒が好きであり、止める者がいなければあるだけ飲んでしまうのだから。
力で奪おうとする者、目を盗んで掠め取ろうとする者、権力で取り上げようとする者。これらすべてを相手取って蔵を守り切り、ひいては飲ん兵衛どもの恨みを買っても仕事の遅延を未然に防ぐ。これがどれだけ大変なことか、秋雨は妹たちの我儘を聞かされてきただけによく分かった。
「いるよぉ、奥に来な」
しわがれた声に導かれて番台の後ろにある障子を開けると、キリキリと音を立てて幾つもの糸を巻いている酒保の主『顔持ちの大蜘蛛』がいつも通り天井に張り付いていた。
糸の先にはどれも商品が付いており、蜘蛛の足がわずかに動くとその動きが糸に伝わって何重もの工程を経て、開放された欄間から外へと運ばれていく。振り返ると整然と並べられた商品棚に先ほど通った品物がポトリと落ちて、まるで最初から整列していたようにきれいに並んだ。逆に棚から釣り上げた商品もまた大蜘蛛の元に運ばれ、あるものは籠に放り込まれ、あるものは棚の位置を手前にして戻されている。
「何とかなったみたいだねぇ、まんずよがった」
天井から垂れ下がった蜘蛛の腹にある、逆さになった老婆がくしゃりと歪む。その恐ろしい様相を見ても、秋雨には老婆が安堵から笑いかけていることを知っているので怖くない。不心得者には殊の外厳しい人物として知られているのと同じくらい、道理を弁えていれば人情味溢れる暖かい老妖とも知られている方なのだ。
秋雨はこの蜘蛛の老婆に幽世に来た頃からずっと世話になっている。身を立てることができず、食うや食わずの時期には日々の食事をすべて頂いていたこともあった。見回り組として城から役目を頂戴したのも、実のところ老婆の口利きがあってのことである。
本人はその事を決して口に出さなかったが、だからこそ秋雨の感謝の気持ちは強かった。
「一休みして茶でも飲もうか、じっくり聞かせな」
仕事の最中に押しかけてそれは申し訳ない、そう言おうとした秋雨に先んじて老婆は先ほど籠に突っ込んでいた売れ残りの菓子を取り出す。
つぶつぶの粟餅は秋雨の好物だ。酒保では乾いて硬くなった餅は売り物にせず引っ込める。しかし多くはすぐ捨てずに焼いたり、茶の湯気で蒸かしたり、お茶に潜らせたりと工夫して内々で食べている。
やれ虫が触れた、形が崩れたと、何かと理由をつけては老妖は懐の寒い若い妖怪たちにタダで菓子を食わせてくれる。秋雨も金の無い最初の頃はよくお呼ばれしたものだ。そこそこの扶持を頂くようになってからは機会を若輩に譲って、自分の分は自分で買うようになっていたので今日は随分久しぶりである。
「服も替えとげ、そごの葛籠にあんの着りゃあいい。そんな真っ白で餡子なんて落ちたら大変だぁ」
そう言われて自分が白装束なのを思い出し、秋雨はここでようやく強張っていた体の力が抜けた気がした。
「そうか、そうか、大変だったな」
茶で水気を戻した粟餅を一口かじった後の秋雨は、堰を切ったように喋り続けた。何度か途中で我に返り、店のことを心配しても老妖は笑って話の続きを促す。他の国ならいざ知らず、白の者はだいたい行儀が良い。番台に誰もいなくとも勝手に欲しい物を取って、その代金を置いていくから心配は無いと。
「そんなこども出来ん輩は、婆が目にもの見せてくれるわい」
過去には城の壁高くに吊るされ、国中の晒し者にされた盗人がいる。当時そこそこの役職にいた者だったが老婆は何の容赦もしなかった。国の醜聞になると他の者から批難されても取り合わず、自ら御方にお許し願い、立花様を通じて断罪の認可を頂いたほどである。地位が何の守りにもならぬと知った者たちは、老妖の刺し違えてもかまわぬという覚悟にさぞ震え上がっただろう。
「ありがと、恩婆」
吐き出すという行為を我慢していた者ほど、決壊した時に感じる解放感は大きい。言葉に甘えて思いのすべてを吐き出した秋雨は身も心も虚脱し、しばらく放心した。涙と鼻水が畳に垂れても蜘蛛は何も言わず、心が子供に戻った秋雨を静かに見守る。
「恩婆、私はどうすればいいのかな」
恩婆と呼ばれた蜘蛛は部屋の衣文かけからてぬぐいを取り、泣き腫らした秋雨の顔を細い蜘蛛の足で器用に拭ってやる。
実は己で婆と言っていても他人に婆と言われたら気分を害する性分なのだが、この犬の経立は昔から二心無く己を慕って口にしている。まるで孫のように思えてこの娘に限っては気にならなかった。
「そうだねぇ、まんず自分の事だ」
秋雨の妹たちはたしかに姉より賢かったが、性根がやや歪んでいた。どちらもひとつのまんじゅうをひとりで食ってしまうような性分だった。姉はふたりに丸々残し、自分は空きっ腹を隠すというのに。あるいは、その献身が良くなかったのかもしれない。同じ苦労をしていれば他者を慮る心を養えたかもしれない。
姉が苦から過剰に守ったことで、他者の痛みに鈍い者になってしまった。そんな残酷な事を口に出せるわけがない。あれは生まれつき、それが一番収まりがよかろう。もし下の姉妹たちが姉と同じ性根であったら、このような結末にならずに済んだのだろうに。
目の前の疲れ切った娘に残された選択肢は少ない。蜘蛛はその中で絶対に選んではいけないものを示し、たとえ嫌われても言い聞かせる必要を感じた。ここで間違えば妹諸共に潰えてしまう。
「おめが今日から守るのは三つだ。それだけは守れ」
何があっても今の役目にしがみ付け、何があっても城から出るな、何があっても妹の助命は乞うな。
前ふたつは黙って聞いていた秋雨は三つ目で顔を歪めた。その顔を足で強く挟み、老婆は言い聞かせる。
「絶対に言っちゃなんね。御前に砂かけたんだ、もう助げられん。誰も許さん、婆も許さん」
国を裏切るとはそういうことだ。今更助命など白玉御前への侮辱に等しい。たとえ御前が許しても世間は姉も妹も許さないだろう。誰からも相手にされず、遠からず土の下だ。そして秋雨とて連座が無くとも危うい状況だったのだ、御方の慈悲で今はなんとか生きていられるが、ここでさらに欲張るのは最悪の悪手であろう。
妹を助けられる可能性を挙げるならば、もはや幸運を待つしかない。
「おめが言っちゃなんね。だから、他に言ってもらうんだ。助げてもいいど」
裏切り者の身内では角が立つ。立場のある第三者の言葉が必要だ。ただし、相当に地位が高く、上下に影響力があり、多くの者に顰蹙を買ってもよいという奇特な人物となると交流の多い老婆でもほぼ当てはない。
老婆は本心では妹を見限ってほしい。しかし、それが出来ない娘であることも知っている。完全に絶望すれば自棄になって御前に嘆願を強行するかもしれない。そうなったらもうおしまいだ。かの御方に覚えが良い老婆でも助けられないだろう。
「んで、屏風様っちゅうんはどうだったい?」
これ上は落ち込むだけと、手詰まりの話を誤魔化し話題を変える。放心気味の秋雨はよく分かっていないが、気遣われていることだけは感じたので鼻を強く啜って話題に乗った。
怖い方ではない。それが今の秋雨に分かるすべてだ。白雪様に引き合わせて頂いた後、すぐ約束があるからと秋雨の手に二分金(四千文、一両の半分)を握らせて外出してしまった。六畳の一室を使っていいと言って。
「二分ねぇ。後でなんか買ってきな、おまげしでやっがら」
もはや秋雨の利用できる店はここくらいしかない。衣服用の無難な反物でも仕入れ、他に日用品の品揃えでも考え直すかと、老婆は密かに頭の中に書き記す。
「ねえ恩婆」「駄目だ、なんね」
秋雨が何を言おうとしたか察した老妖は強く言葉を被せて封じる。
「金離れがよぐっでも別の話だ。それにまだ貫目が足りん」
屏風覗きと称されるあの人間は、どういう訳か白玉御前から破格の厚遇を受けている。
高価な着物を何枚も誂えては送られ、新米にも関わらず他を差し置いて席順を繰り上げ、一時ではあるが御前直属の護衛である阿羅漢を二人もつけやったという話まである。これだけは立花様以下多くの側近から、今は御身が危険と諫められて取りやめたようだが。
側近の立花様からも覚えが良く思えた。帰参の挨拶のさいも、出来は悪いが可愛がっている甥っ子でも見るような目で見ていたのを老婆も覚えている。あの方に関しては元より人間に好意的な方なので、そう見えるだけかもしれないが。
下の者とも交流があるようだ。特に守衛組のとばりとは懇意にしているようで、買い物客から『あの守衛の石仏が、人前で仲睦まじいやり取りをしていた』と興奮気味に話され驚いた記憶もごく最近のこと。
では力はあるかというと、とにかく術が得意だという話だった。捕り物の夜には鬼に並ぶ剛力を持つ牛の経立を、何もさせずに輝く石の中に閉じ込めたという。さらに城の窓から見える天を衝く光の柱もまた、作ったのは屏風覗きであるらしい。
だが、それでも貫目が足りないと老妖は判断する。聞けばあの人間は姉妹の裏切りに立ち会った者。当事者として一言くらいは物申すことも許されようが、せいぜい処刑方法を提案するくらいが許される限界だろう。
可能性があるとすればまずは手柄だ。あの人間が何か大きな手柄のひとつも上げれば、それを引き換えに助命だけは許されるかもしれない。しかし、そのような大きな功績を立てる機会などまず来ない。加えて他人のために、まして裏切り者のために褒美を使うわけもない。
「待づんだ。伏して、待づんだ」
一度でも助命を口にしたら後戻りできない。無理にふたつ救おうとするより、この子だけでも助けてやりたい。いっそまだ生きているという次女に死んでほしいくらいだった。もちろんこの子の前で口にも態度にも出せないが。
「うん」
秋雨は自分がそこまで頭が悪いとは思っていない、けれど昔から要領が良くないとは思っている。誰かに言われたことをしたほうがうまくいくと経験則で分かっていた。
妹たちの躾も、誰かに聞けばよかったのかな。そんな事が頭を過って、知らず再び鼻を啜った。
恩婆の言うとおりにしよう。そう決めれば秋雨の気持ちはゆっくりと落ち着いた。信頼する恩人に妹を助ける方法がこれしかないと言われたのだ、ならそうするのが最善なのだろう。秋雨は炊事も繕いも洗濯も一通りできる、皮肉にも見回りの仕事より褒められたくらいである。ただ
『茶を淹れるのは許すが食事に関しては手出し無用』。かの御方によるこの厳命がどうしてなのか、知恵の塊と思っている目の前の老妖に聞いてみたものの、珍しく蜘蛛の腹を捻って考え込んでしまったため疑問は解けなかった。