生者一切、悉(ことごと)く
ツケ、ローン、拝借、前借、債務、延払い。言葉は色々あるけれど、つまるところが借金である。借金はよくない。身の丈を超える買い物はだいたい後で痛い目を見る。けれど誰もが知っている事なのに無くならない。
その日を生きるためとか止むを得ない場合もあれば、一時の欲望のために後日、人生ごと放り出すような場合もある。ご利用は計画的に、なんて悪魔じみたセリフは誰が考えついたのだろう。
酒樽(1斗、約18キロ+風量α)担いで、さらに上に米俵(体感30ギロ前後)載せて、暗黒の道を進むとか普通に死ぬかと思ったわ。歩きでしか行けない山頂のお店に食料届けに行く人じゃあるまいし。社に入って200メートルほどで降ろせなかったら倒れていた自信がある。
城下の北側にある『狐の社』、以前利用した『東側の社』と同じものを使って赤ノ国との境にほど近い『狐の社』にショートカットを強行した。素人お断りでリスクもあるが、現状これが一番早い移動手段らしい。
手長様と記帳門の狗こと腐乱犬氏の見立てに基づいて、かなり多めにお供えした米と酒は実際に限度ギリギリだった。通常は米が一合、酒一升もあれば大盤振る舞いクラスで、普通は米ひとつかみとおちょこ1杯程度で十分だという。
前回、屏風覗きは良くない意味で、文字通り『ヨクナイモノ』の興味を引いてしまったため、袖の下を多く持っていく必要があったようだ。
ちなみにお供えした相手、と言っていいか分からないが、とにかく『通り道の番人?』的な存在と、以前に途中で遭遇した『雛人形の集団?』のような『ヨクナイモノ』は別物であるらしい。
あくまで『通り道の番人?』は『社』の番人であって利用者のトラブルには関知しない。大型店舗の駐車場にいる警備員みたいなもので、『ヨクナイモノ』はその駐車場内で客に悪さをする犯罪者と見立てれば分かり易いだろうか。
そして予めトラブルを起こしそうな者は利用を断られたり、追加料金を請求されるというわけだ。今回はツケの分と合わせて二回分、さらに手長様足長様ろくろちゃんの前回分の支払いも込みなのでここまで重くなった。それでも8割方は屏風覗きの分らしいので文句も言い辛いという。
この社の場所は丘近くの小岩にあり、小岩という目印もあるため遠くからでもかなり目立つため到着した端から戦闘の可能性もあった。それを避けるために予め『隠形の術』とやらをかけてもらっている。例によって光ったり体が透明になったりなど、特別な変化が無かったのでよく分からない。
幸い敵兵とおぼしき気配はない。港や橋といった設備と同じく、高速移動にかかわる場所は最優先で制圧されているものだと思っていたので拍子抜けだ。
「いや、かたじけない。何分この体は力はありませんでな」
かいてもいない汗をぬぐう仕草をしながら、緑の頭巾を被ったプードルこと腐乱犬氏が犬の顔を不自然に歪めて笑顔を作った。
さすがに小型犬に荷物持ちを期待する気はないし、道中に案の定絡んできた『雛人形の集団?』が腐乱犬氏の声を聴いた途端、耳がおかしくなるような悲鳴を上げて一目散に逃げていったので、屏風覗き的にはむしろ助かったまである。
『公平』とは『同じ』であるという意味ではない、力があるなら力仕事、技術があるなら職人、お互い納得できる範囲で向いた仕事をすればいいのだ。
当分は近づいてこないでしょう、と当たり前のことのように言っていたのが頼もしいというか、恐い。彼は犬の死体に憑いている怨霊であり、呪いの塊みたいな存在である。オッサン声なのに。
手長様さえ下手に出ていた『ヨクナイモノ』が悲鳴を上げるって、どれだけヤバイんだろう。オッサン声なのに。
気を取り直して己の役割を再確認しよう。浮ついていては危険だ。まだ会敵していないというだけで、この辺りも既に敵兵が潜んでいる可能性がある。
所定の場所に攻撃を行い敵兵を殲滅、軍の到着までに陣地の基礎築け。可能な限り早急に。
後半が立花様より命じられた屏風覗きの役目である。簡素だが一瞬で構築できる立方体は、連結すれば即席の防御施設として非常に優秀だ。空間に固定されるので基礎工事もいらず、そしてなんといっても破壊不可オブジェクトである。
この国に厄介になっている以上、契約外だ、お伽衆の仕事じゃないと簡単に断るわけにもいかない。絶対に組織内に遺恨が残るし、そもそも契約書を交わしているわけでもないので、強弁すればなんとでも解釈できてしまうのだ。それなら立花様に遠慮があるうちに仕事して、本格的な参戦を勘弁してもらうのが一番楽だろう。
キューブなら戦場で襲撃に怯えながらハンマー持ってドカチンする必要もなく、集団でエンヤコラと働いて目立つこともない。誰でも出来る簡単なお仕事です。
設計図は墨で描かれた簡単な代物で細部は一任されている。実際に大工が使う図面なんて見てもよく分からないし、どんな素人作りでもキューブなら倒壊の危険は無いのでこんなものでも十分だ。ただ陣地構築用に預けられたポイントも2万と、これまで屏風覗きが作ってきた中でも最大規模になるだろう。
役職が内政サイドの腐乱犬氏が戦場についてきたのは屏風覗きの護衛、というのはついでで命令の前半である敵兵の殲滅を担う。その後は構築した拠点の一時的な防衛も担うようだ。
彼は無差別ということなら呪いを用いて殺せる範囲も速度も絶大らしい。同じような蹂躙は手長様足長様も可能だが、あの二妖怪は自身で襲い掛かるためどうしても時間がかかる。少数でも取りこぼしが出ると領地の村々に被害がでるので、今回のような極少数での防衛では殲滅速度も必要との判断だろう。
すでに近くの住人には中央側への避難命令が出されている。夜中に叩き起こされて大変だろうが、死にたくないなら従ってもらうしかない。
言っちゃ悪いが、仮に居残っていた者が襲われても助けないつもりだ。そこまで死にたいなら黙って死んでほしい。たとえ冷酷と言われても、上っ面のヒューマニズムなど安全には欠片も寄与しないのだ。身勝手な理由で助けが欲しいなら、都合よく現れる自己犠牲に溢れたヒーローにでも頼んでほしい。
どだいそんな大役は偽妖怪には無理があるだろう。やったらたぶん、こっちが死ぬ。
「敵はあの辺りでしょうな。火が炊かれ死臭も濃い」
薄い月明りの中で頭巾の布を揺らしながら、腐乱犬氏がピョコリと前足で下の平地を指し示す。幾つもの焚火が炊かれ、その明りの陰影に蠢く者たちが見えた。
人間の視力では細部の確認は不可能だ。だが火に照らされたもうもうと上がる煙と、かなり離れているこの丘まで漂ってくる異様な臭いは、何故か心に不安を呼び起こした。
最近になって開墾し始めましたといった感じの、まだまだ荒れ地と言っていい場所。
しかし、最初は撤去される前の岩などだと思っていたあちこちの『塊』が、石などよりもっと『柔らかいもの』であると気付いたとき、込み上げる嘔吐感に思わず口を押えた。
「ここより前の村や関所は手遅れ、ですな」
積み上げられていたのは死体。そう認識させられたとき、今この下で何が行われている事が何であるかを臭いで理解してしまった。
焼いて、食ってる。
狩った獲物を食べる、ごく当たり前の事だ。人間だって動物相手によくやっている。過去の大戦中にいたっては慢性的な飢餓から部隊単位で食人までした記録が残っている。歴史をもっと遡れば最初から捕虜を非常食扱いした国まで存在していた。
多くの国、多くの人種が忌避する行為であってもおそらく世界規模で確実にあったことなのだ。しかし
「風下ですが、堪えてください」
喉まで込み上げた酸を飲み込む。チリチリした粘膜の感覚と不快な酸っぱい臭いが呼吸するたび付きまとう。
わざわざここまで持ってきたのか、死体を。見せしめか? それにしたって数がおかしいだろう。10や20じゃきかないぞ、ひと塊10体としても見える範囲だけで200は死体の山がある。
「なるほど。食うのに夢中で誰も『食い物』の近くを離れたくないと見えます」
あの痩せ具合では、最初から食料など持ってこれていまい。侵略など二の次で、兵の頭の中は飢えを満たすために食うことが目的となっていそうですな。
彼は夜目の利かない偽妖怪のために、そんな淡々とした分析を示した。兵というより飢餓で狂った暴徒の類だとでもいうのだろうか。だから社の占拠や破壊もせずに飯を食っているとでも?
そこまで、そこまで赤ノ国は困窮しているのか。同じ言葉を話す者を殺して食うほどに。
「幸い火という目印もありますことですし、まずは屏風殿」
手前の術、どうぞ御覧じろ。
その平坦な言葉に、彼がこの地獄のような惨状を何とも思っていないことが窺い知れる。義憤も、恐怖も、何も感じてはいない。感じる必要性も考えないし取り繕う気もないのだろう。
やっと分かった、知り合いことごとく記帳門の狗を嫌う訳。妖怪であっても、敵であってもその多くは生者、そんな『生きる者』には『生』に価値を見出さない異常な精神性は、屏風覗きのような人でなしでも嫌悪を感じる。こんなものと向き合わされては、まともな者ほど不愉快で耐えられまい。
こちらの反応を待つことなく崖の近くに歩み寄った狗が、背中越しにふと嘲笑、笑った気がした。
眼下に見える火は遠い、しかしまるで狗の術のために炊かれた儀式の火であるようにさえ見える。事実、その明かりを目印に術を行使するとなれば、それは術者のためと言ってもいいだろう。
プードルの短い脚が規則正しい一定の足法を繰り返す姿はどこか滑稽で、今から行われることなど微塵も連想できない。
足の運びで印を結び台地を踏みしめることで邪気を祓う、たしか反閇と呼ばれる陰陽師の作法。それを祓うとは真逆の呪いに用いるのか。
じわり、そんな擬音が聞こえてきそうな形で狗の口から水っぽい煙のようなモノが空中に溢れ出す。水槽の水に何重にも混ぜた絵具を落としたような汚い濁りの塊。周りと溶け合うことなく透明な水を侵食していくように、じわり。
後ろ姿しか見えないことに感謝すべきだろう。何の根拠もないが、今の彼の顔をたぶん生者は絶対に見てはいけない。そんな『ナニか』を漏らしているとひ弱な生き物として、陳腐な言い方だが本能で分かる。体が先ほどまでの嘔吐感を忘れ、浅い呼吸が止まらないほどに。
風に逆らい冷気のように音もなく崖を伝う『ナニか』。それが衰えることなく狗の口から垂れ流されて何十秒経っただろうか。
「こんなものでしょう」
良いというまで崖から下へは指一本たりとも体を下ろさないように、そう忠告してから狗は後ろへと退いた。
点在する明かりが照らす範囲は限られる。それでも見渡す限りの世界が無音の世界になり果てていた。